Secret 18
愛情エッセンス満載の差し入れで、腹も心も満たされた俺の前では、テキパキと片付け始めたつくしが帰り支度をしている。
「なぁ。明日、朝早ぇの?」
「うん? 明日はそんなに早くないけど」
「だったらここで待ってろよ。眠かったら向こうのベッドで寝てもいいから」
「私がいたら仕事の邪魔になるんじゃない?」
「なんねーよ。却って安心して仕事が出来る。こんな時間に帰らせる方がが心配で仕事になんねぇ」
これも嘘じゃねぇが、滋がまだいるのに、そんな中一人つくしだけを帰らせるのに抵抗があった。
マスコミの目だってある。つくしがここに来るのにSPを付けさせたのも、つくしの運転だけを心配したからじゃねぇ。もしもマスコミの目があれば、排除させる意味もあった。
一人帰らせてまた数人のSPを付けるよりも、俺と一緒の方がSPの数も多いし何かあっても対応出来る。
それに滋も一緒に送って行けば、万が一にマスコミの目に触れたとしても、二人きりじゃないと主張し切り抜けられる算段もあった。
「うーん。じゃ、仕事してる司でも観察して行こっかな」
「おぅ。急いで終わらすから待ってろ」
俺は、残っている書類に目を向け、少しでも早く終わらせるため意識を集中させようとした。
だが、どうにもこうにも気になる。
三日も会えなかった上に、やっと会えたと思ったら滋がいる状況。しかし、つくしは気にした気配を見せない。
滋には、早めに帰るよう毎度促しているが聞く耳持たず。残ったら残ったでこの有り様だ。
マジで有り得ねぇ。
何度起こしても起きねぇから、その時間がロスで、結局仕事に充てる時間を優先しての仕方なしの放置。
ただ周りに誤解されんのも嫌で、執務室のドアは常に開けっ放しだ。
そうなると、大河原家のご令嬢の寝姿を晒すという、煩せぇ親父の耳にでも入れば厄介事が生じるが、誤解だけはどうしても回避したい俺は、滋にはブランケットでも掛けてやりゃ問題ねぇだろうと、絶対にドアを閉めはしなかった。
疚しいことは何一つとしてねぇと胸を張って言える。
だが、決して面白い状況でもねぇだろう、普通は。
そう思いながらを様子を窺えば、ニコッと顔をほころばすつくしと目が合った。
俺も笑み返せば、つくしの笑顔は益々弾けて────やっぱ集中出来ねぇ!
「はぁー」
大げさに溜息を一つつくと、大きな瞳で俺を覗き込んでくる。
「どうかした?」
「おまえの笑顔にやられた」
そう言うなり、俺を覗き込むように見ていたつくしの頭を抱え込み、唇を重ね合わせる。
このキスが三日前と変わらず俺を受け入れてくれることに心は満たされて行く。
「充電!……でもねぇか、まだ全然足らねぇし」
「いいから早く仕事をちゃんとしてよね。じゃないと先に帰るよ? 折角、仕事してる司見て感動してたのに」
「お、マジで?」
「マジで。だから頑張って、ね?」
つくしが与えてくれた頑張れで、俺は頭を切り替え全力で仕事に没頭する。
少しでも早く二人の愛の巣へ帰るために。
✢
「滋、起きろ。おい、いい加減起きろって」
起こす声がいつもより小さい。
それが何故なのか。確認するまでもない。大切なつくしが眠っているからだ。彼女が起きないようにと、気を遣って。
「ごめん、また寝ちゃって」
「お前、ホント寝すぎ。つーか、明日からは早く帰れ」
返事はせずにソファーから身を起こす。
横になっていた私の体を包んでいたのは、司が掛けてくれたブランケットだ。
初めは遅くまで仕事をする司をサポートをしたくて、……本音を言えば、ただ傍にいたくて、帰れと言われても例え1分1秒でも無駄には出来ないと、此処に残った。
私には決められた時間しかないから。この場所でなら司と時間を共有できるから。
うっかり寝てしまったのは失敗だったけど、起きた時には、司が掛けてくれたブランケットに包まれていて。その優しさが嬉しくて幸せで。だから昨夜も今夜も眠くなくても寝たふりをして、司の気配を直ぐ傍で感じられる夢のようなひと時を噛み締めていた────それだけで良かった。
それだけで良かったのに、…………そんな僅かな幸せを、つくしは私から簡単に奪っていく。
これ以上何も望まない代わりに、今だけは自分の気持ちを自由に解放しただけなのに、つくしは私達が共有できる場所を、時間を、意図も簡単に一瞬にして奪い去る。
私が寝ている間、司は絶対に執務室の扉を閉めはしない。周りに誤解を与えない為のその行為は、全てはつくしを愛するが故と分かっていても、それでも構わなかった。
ここにつくしがいないことで、辛うじて心のバランスは保たれていた。
それをつくしはこの場所に踏み込んで、仕事をしている司の姿を見ながら優しい眼差しで見つめ返され、キスまで与えて貰える。
目を瞑っていても浮かびあがるその光景に、心が歪んでいく。胸が切り刻まれたように痛い。
こうして痛む胸を抱えるのはもう何度目か。その度に、胸に刺さった棘を引き抜き、友達の立場を貫いてきた。
何度も何度も何度も何度も、引き抜いて────でも。
…………もう棘じゃない。
胸に突き刺さるのは、冷たく光る鋭利なナイフだ。
「滋、送ってくから用意しろ」
「え?……いいの?」
「あぁ」
いつも二人きりの時は、絶対に送ってはくれはしない。
時間になると起こされ、家の車を呼び出し一人帰路に着く。
今夜送ってくれるのは、私と二人きりじゃないからだ。傍につくしがいるから。
そのつくしは起こされもせずに、当たり前のように司に抱きかかえられ、そして、その身体には司のジャケットが掛けられていた。
「つくし起きないね」
「ここまで寝ついちまうと、そう簡単につくしは起きねぇよ」
静かに走り出す車の中、司の香りが染みついたジャケットと司の腕に守られ、安心したように身体を預けて眠るつくし。
つくしが寝てる間も、司は慈しみに溢れた眼差しを向けるのを止めない。
「安心しきった顔しちゃって」
「まるで子供だな」
心が冷えていく。
ナイフが突き刺さる胸からは、黒ずんだ血でも流れ出ているのだろうか。痛くて寒くて苦しくて。胸を掻きむしって悲鳴を上げたくなる。
そんな私は、今ちゃんと笑えているだろうか。
会話は弾まず、暫くして車は静かに停まった。
「司、ありがとね」
「おう、お疲れ」
二人を乗せた車が走り去り、一人立ち尽くす私に残されたのは、冷えた心と激しい胸の痛み。
瞬きも忘れ、消えた車の幻影を追う瞳から零れ落ちるのは、涙か。それとも胸から溢れ出た黒々とした血か。
「ナイフが、…………ナイフが抜けない」
誰にも気付かれない無機質な呟きは、闇夜に吸い込まれ静かに消えた。
いつもより早く、そしていつものようにマンションのチャイムを鳴らす。
「滋さん、おはようございます。あれ、もう行く時間?」
「ううん、少し早目に来ちゃった」
「良かったぁ。今朝は早めの出勤なのかと焦っちゃった。司まだシャワー浴びてるから、コーヒーでも飲んで待ってて下さいね」
つくしが笑顔で私を迎え入れてくれるのも、いつものこと。
違うのは、私がここへ早く来た意味だ。
「滋さん、朝ご飯食べました?」
「うん、食べてきたよ」
私をソファーに促したつくしは、バタバタとキッチンへと駆け込む。
暫くして戻って来たつくしは、私の前にコーヒーのカップを置き、自分用のマグを持って差し向かいに座った。
「滋さん昨夜も遅かったのに、身体大丈夫? 私が行った時には寝てたし、私もその後いつの間にか寝ちゃったから挨拶も出来なかったんだけど」
「最近は特に忙しい司の役に立ちたくて残ってるんだけどね。あんな調子でいつも寝ちゃうから、疲れはしないのよ。
でもちゃんと昼間は秘書として司のサポートさせて貰ってますから!
司ね、仕事に没頭すると食事も摂るの忘れちゃうんだよね。だから時間を見つけては、つまむ程度でも食べさせてはいるんだけどさ。体調管理も私の務めだって思ってるから」
「そうだったの。ごめんね、色々と迷惑掛けちゃって」
「気にしないで」と首を振り、「だって、」と繋いで、今日早めに来た意味を実行に移す。
「つくしには無理でしょう? 司の面倒見るなんて」
つくしの笑顔がひび割れたのが分かった。
それでも私は止めようとはしなかった。
「忙しいつくしが、司の面倒なんて見れるはずないよ。代わりに私がするから、つくしは何も心配しなくていいよ」
つくしの手は動きを忘れ、口に運ぶはずのマグカップが宙で止まっている。
「それに夜になれば、眠くなったら上司に構うことなく寝ちゃうしね。それでも怒られもせずブランケットまで掛けてくれて、司の仕事が終われば寝ててもちゃんと家まで送ってくれるんだから、もう至れり尽くせりで、こっちが申し訳ないくらいだよ」
「……そう……滋さんに無理させてるんじゃないかと思った」
取り繕おうとしても、今にも剥がれ落ちそうなつくしの笑顔は硬い。
「無理なんて全然! 大事にされてるから」
「……それなら良かった」
どう? つくし、胸が痛む?
これがどんなに辛いか、つくしには分かる? 何年もこんな痛みを抱えてきた、私の気持ちが。
私だって、本当はつくしを傷つけたりなんかしたくない。
だから、お願い。今だけだから、今だけでいいから、私の大事な領域に踏み込まないで。
✢
「何だよ、滋もう迎えに来たのか? まだ早ぇだろ。時間になんねぇと動かねぇかんな」
「分かってるってば! 無理に連れて行こうなんて無駄はしませんよ」
「分かってんならいい」
シャワーから出た司と滋さんの会話を背に、朝食の用意をするためキッチンへと向かった。
温野菜を器に盛りつけながら、さっきの滋さんの言葉が脳裏にこびり付き、血の気が引いたように指の先まで冷えていく。
────つくしには無理でしょ?
────司の面倒なんて見れるはずないよ。
全くの不意打ちだった。
妻として失格の烙印を押されたようで胸がちぎれそうに痛い。
返す言葉はみつからない。滋さんに跳ね返せるほどの何かを司の為にしたのか、そう自問しても答えは『否』しか持たないのだから、自分の至らなさに消えたくなる。
もっと妻らしくありたいと願っていた私には、滋さんの指摘は痛烈に刺さった。
私よりも、よっぽど滋さんの方が司を支えているのかもしれない。
そんな滋さんに優しく接してるらしい司。
いつも、寝てる滋さんを運んであげてるの? 私を運んでくれたように?
司の食事も終わり食器を洗っていると、ガタンと椅子が倒れた音と、
「ちっ、痛ぇ」
後から司の声も付いてくる。
慌ててリビングへと行けば、スーツの上着を引っ掛け倒れた椅子が司の足を直撃したらしい。
「大丈夫?」
「おぅ。それより、何か顔色悪くねぇか?」
「……そう? まだ眠いから、それでかな」
咄嗟に誤魔化した。
「昨夜付き合わせちまったからな。急ぎの案件が出来たからもう行くけど、俺が行ったら少し寝ろよ?」
「途中でしっかり寝ちゃったのにね」
笑みを作って玄関まで司を見送る。
「じゃ、行ってくるな。ゆっくり休めよ」
自分の方が寝てないはずなのに、私を気遣う司に微笑で了承を示した時、ある物に目が止まる。
「あっ、司ちょっと待ってて」
走って部屋の中に入ると、玄関から司の声が飛んでくる。
「つくし、どうした? もう時間ねぇんだけど。…………悪りぃ、もう行くぞ!」
急いではみたものの、
「行ってくるな、つくし!」
私が玄関に戻るより先に司が出ていく方が早くて、廊下に出た時には玄関のドアは閉じかかり、「行ってらっしゃい!」と辛うじて言うのが精一杯だった。
目に止まったのは上着の袖のボタンだ。多分、椅子に引っ掛けたのが原因だろう。ボタンが取れかかっていた。
直ぐに気付くだろうし、着替えなら会社のプライベートルームにわんさかあるんだから、何とかなるか。そう思い直した私は、手にした裁縫箱をまた仕舞いに踵を返した。
その日の晩。久しぶりにいつもより早く帰ってきた司は、出掛けた時と同じスーツだった。
「こんな時間に帰ってこれたの久しぶりだな。つくし、ワインでも一緒に飲むか?」
「いいね! じゃ、おつまみ作るから、その間にお風呂入ってきちゃって!」
「あぁ」
司が脱いだ洗濯物を仕分け、「ボタンに気付かなかったのかな」呟きながら司の上着に手を伸ばす。
裁縫道具を取り出し、司の袖口に目を向ければ────。
朝見た、取れかかりそうなボタンはなかった。
取れたのではない、逆だ。ボタンの裏側を見れば、不器用なまでに何重もの糸でくくり付けられている。
子供が付けたような、お世辞にも上手とは言えないそれは誰が付けたものなのか、考えるまでもない。
裁縫なんてしたことないだろう彼女が、一体どんな思いでこれを付けたのか。
朝の言葉が再び鋭さを増して心を突き刺し、目の前にあるボタンを見る私の中で、抑制しきれない感情が湧き上がってくる。
その感情に言葉をつけてしまえば余計に醜さの威力が増しそうで、己の思考の中ですら名を持たせなかったそれは、『嫉妬』だと認めざるを得なかった。

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