Secret 12
─────カンカンカンカ~ン!!
「起きてぇ、司! 今日も良い天気だよ!」
けたたましい音が響く、いつもと変わらぬ朝。
その中にありながらいつもと違うのは、
こうして元気に中華鍋を叩くつくしの振る舞いが、無理して作られているってことだ。
つくしの些細な変化など俺は夕べからとっくに気付いている。決して、気のせいなんかじゃなく。
昨夜、つくしの様子はどこかおかしかった。
怒っているのかと訊ねても、返ってくるのは否定のみ。
いつもと変わらないと強調するつくしだったが、俺が鵜呑みにすると思って言ってんなら、甘く見過ぎだ。
お前の様子が違うことくらい、俺が気がつかないわけねぇだろ。
なのにつくしは、頑なに何も語ろうとはしなかった。
ベッドに入ってからもそれは同じで、求めれば黙って俺に抱かれた。
「あ、起きた? うん? 何よ、そんなにじっと見て」
「今日は機嫌が直ってんのか、それとも無理して取り繕ってんのか、つくし観察してるところだ。邪魔すんな」
「ちょ、観察って……別に怒ってないし、機嫌も元々悪くないよ」
今日になっても何も言う気はないらしい。
「俺には何も言う気にはならねぇの? お前がいつもと違うことくらい分かってる」
「…………」
「つくし?」
「……ごめんなさい」
途端に笑顔を消したつくしは顔を伏せる。
そんな顔をさせたいわけじゃない。俺だって不安なんだ。
自分の気持ちを隠して無理して、うだうだと一人悩んじゃ、ろくでもねぇ結論に達する過去の経験則。それが嫌でも俺を不安にさせる。
「つくし、溜めてないで何でも言え。俺たち夫婦だろ? 言いたいことあんなら、俺に文句でも何でも言えばいい」
「……違うの」
消え入りそうな声で言うつくしは、ベッドに上半身を起こした俺の傍に座り胸に顔を埋めてきた。
そんなつくしを抱きとめ、手入れの行き届いた艶かな髪を撫でる。
「好きだから……」
顔を埋めたままポソリと言葉を落としたつくしは、やけに弱々しく、過去にはなかった姿だ。
昔のつくしは、男に守って貰うなんて嫌だと断言する強い女だった。
それが俺が帰国してからというもの、時折垣間見せる、俺が知らないつくしの一面。
その姿に一瞬戸惑うものの、それ以上に、惚れた女を守りてぇって男の気持ちを、きっとお前は知らない。
「で? おかしかった理由は何だ? 」
「だから、好きだから……それが理由なの。それ以上は答えたくない」
新たな一面は覗かせても、この頑固さだけは変わらねぇ。
答えたくないとここまで強調して言い切るなら、どんなに詰寄ろうとも口を割りはしないだろう。
「ホント、分かんねぇな」
「いいの、分かんなくて。好きってことだけ分かってて貰えばそれでいい」
「じゃあ、お前も忘れんなよ。俺がお前のことメチャクチャ愛してるって」
急に埋めていた顔を上げたかと思えば、厳しい視線を向けてくるが、喜ばれることはあっても、そんな顔される覚えはねぇぞ。
「もう一度言って! 」
強い目つきのままで、つくしはもう一度と言う。まるで信じていないような眼差しに、心外だとばかりに頬を軽く摘んでやる。
摘みながらも、伝えるものは嘘偽りのない溢れるほどの想いだ。
「愛してる」
「もう一回」
「俺にはつくしだけだ。どうしようもないほど愛してる」
本心を推し量ろうとでもしてるのか、俺の目をジーっと逸らすことなく見つめてくる。
かと思えば、次の瞬間には大きく息を一つ吐き出したつくしは、瞬く間に満面に笑みを咲かせた。
「ふふ、満足。もう機嫌直った、忘れる。ねぇちょっと、抓らないでよ……ねぇってば!」
やっぱ機嫌悪かったんじゃねぇかよ。
ぷにぷにと最後に頬を摘み回して指を離した俺の目に映るのは、取り繕ったもんじゃなく、昔から変わらない大好きな笑顔だ。どこにも翳りはない。
「焦らすじゃねぇよ。お前が一人で何か抱え込んでるかと思うと、俺だって不安になんだよ。お前、勝手に悩んで勝手に答えだすの得意だかんな。で? 忘れるって何をだ?」
「もう忘れたから教えられない。ただ、司を好きだから思ったことなの。だから放っておいて。言いたくないんだから。それより急がないと時間ないよ」
やはりつくしは何も言わないつもりらしい。
恐らくは、きっと何かを感じて不安にさせたんだろう。
昨夜、飲みに行ったのが、つくしにとって面白くないだろうことは、俺にだって想像はつく。
あれだけ早く帰って来いと騒いだのは俺だ。その俺が約束を蹴ってまで顔を出したことのねぇ社内の飲み会ってのに行ったんだから、当然、腹も立っただろう。
ただ、つくしが帰ってくるなり抱きしめた時。俺だけじゃなく、つくしだって求めるように、俺に一度はしがみついたはずだ。
それがいきなり振り払って距離を取ったのは何故だったのか、そこだけがどうしても分からなかった。
「つくし。ごめんな」
真意は分からない。けど、そう言わずにはいられなかった。また、それ以外の言葉も見つからなかった。
昨日の憂いは本当に取り除けたのか。俺の愛情は届いているのか。確かめるように、つくしを胸に強く抱く。
昨夜は、突き放すように距離を取った細い腕。今は、二人の隙間を埋めるように、俺の腰へとしっかり回された。
もっと伝わればいい。俺の想いが……。
つくしに伝わっている愛情なんて、多分、俺が抱え持つ想いの百分の一程度だ。
日に日に膨らむ溢れるこの想いを、甘くみられちゃ困る。
抱きしめるだけじゃ到底伝えきれない愛を、唇を通してつくしに注ぐ。
深く長く、つくしの中にあっただろう得体の知れない憂慮を溶かすように、二人の唇が熱を持ち痺れるまで、離れることなく注ぎ続けた。
✢
「司、新聞読んでないで早く食べないと滋さん迎えに来ちゃうよ?」
「あぁ」
「でも良く噛んで食べてね」
「子供かよ」
「うん、手のかかる大きな野生児」
ふざけんな、と笑う司と私の今朝は、いつもよりも時間がない。
気持ちを隠しきれなかっただけでなく、司に愛してると何度も言わせ心の安定を図ろうとした、私のせいで。
信じてないわけじゃない。司のことも、そして滋さんのことも。
なのに襲い来る不安を拭えなくて、抗えなくて。一緒にいるだけで香りは染み付くものなのかと猜疑心に呑み込まれた私は、前に見た滋さんの涙を思い出し、自己嫌悪に陥っていたのだ。
信じる気持ちも確かにあるのに、一方で、二人には何かあるんじゃないかと、夫を、友人をも疑ってしまう愚かな自分に。
それを隠し切れず、中途半端に態度に出ていた私を見て、司を逆に不安にさせてしまった。
いつからだろう。愛すれば愛するほど、臆病な自分が顔を出すようになったのは。
私はこんなに弱い女だったのだろうか、と自分でさえ戸惑う。
それでも、愛してると告げられ、いつもの香りだけに包まれ抱きしめられれば、凪いだ水面のように心は落ち着き、揺れ動いていた感情は穏やかさを取り戻す。それが出来るのは、この世でたった一人、司だけだ。
「どうした?」
「ううん、相変わらず綺麗に食べるなって思って見てただけ」
フッと笑うそれは、優しさ溢れている。だから、大丈夫。私は司の想いを信じていればいい。
気持ちの立て直しを確認した時、貴重な時間のタイムリミットを告げるチャイムの音が鳴った。
「ほら司。お迎え来ちゃったよ」
「三条じゃねぇのか? 」
「今日は夕方に打ち合わせだけだから、きっと滋さんだよ」
私は滋さんを迎えるべく玄関へと走った。
「司…………おはよう」
お茶を飲むくらいの時間はあるだろうと部屋の中へと誘えば、滋さんは司の顔を見るなり肩を縮こませ、申し訳なさそうに挨拶をする。
「ああ」
「あのさ……昨夜は迷惑掛けた、よね?」
「ったく、あんなに酔うか? 普通」
「だって! 入り込めない雰囲気だったし、知らない人ばかりだし頼れるの司しかいないし……」
会話を聞く限り相当飲んだらしいと分かる滋さんには、コーヒーではなくミントティーを用意した。
「どうぞ、滋さん。二日酔いみたいだからミントティーにしてみたの」
「ありがとう、つくし! もう頭がガンガンするのよ」
「自業自得だろ」
冷たく言い放つ司。
「だって、司はあんまし喋ってくれないし、他に話す相手もいないからさ、飲むしかないじゃない。それなのにね、つくし。そんな私を置いて司は帰ろうとするんだよ? それで一人になるの不安で司に抱きついたら、怒っちゃってさ」
抱きついた。それで……。
密かに胸を撫でおろす。
日頃の滋さんのスキンシップの図り方を思えば、有り得そうなことだった。
少なくとも、二人きりで香りの付く状況になった訳ではなかったんだ。……と、そこまで考えてハッとする。真っ先にそんな風に思ってしまった自分に。
仄暗い気持ちを持つ自分を恥じ、居たたまれずにそわそわと身じろぎした。
「怒るに決まってんだろ」
「はいはい、その胸はつくしだけのものだ! って言いたいんでしょ」
「分かっててやんじゃねぇ」
会話を続ける二人を視界の端に置きながら、気分を落ち着かせるために自分のマグにコーヒーを注ぐ。司の隣に座り、薫り高いコーヒーを飲んで幾分落ち着いた私は、言い合いする二人のやり取りに黙って耳を傾けた。
滋さんは話に一段落付けると、まだ冷めていないはずのミントティーを一息に呷って、慌てた様子で口調を早める。
「あー、司もう時間ないよ。ねぇ、私、先に車に行ってるから5分以内に降りてきて。もう二日酔いで化粧がちゃんと出来てないのよ。車で直してるから、早く来てよ」
一方的にそう告げた滋さんは、「つくし、ご馳走様!」と、ドタバタと駆けて行ってしまった。
「朝から騒々しい奴だな」
「ほら司も用意しないと、また滋さんの大きな声が聞こえてくるかもよ?」
「はぁぁ」
重そうな溜息を吐き出した司は、残っていたコーヒーを飲み干すと、やっと重い腰を上げ私が持ってきたジャケットに腕を通す。
玄関先で指輪を外し私を見る司。
「俺が抱きしめたいと思うのはつくしだけだ。じゃあな、行ってくる」
「うん……行ってらっしゃい」
今日二度目の熱いキスを交わし、その余韻と私の好きな香りを残して司は出掛けて行った。
一人になった玄関。司の外した指輪を眺めながら、今しがた言われた言葉にふと思う。
滋さんが抱きついたって話を気にかけて、あんな風に司は言ってくれたんだ。
ストレートな想いを言葉に乗せるのは昔からだけど、でも、私に気遣って言葉を紡ぐ司は、疲れたりしないのだろうか?
もっと言えば、世間に隠さなくてはいけない結婚生活なんて、一番、らしくない事をさせて、窮屈に感じてはいないだろうか。
それをカバー出来るほど、妻としての努めを私は何もしてあげられてないのに。
……結婚した今更になって、様々な思いが駆け巡って行った。
✢
化粧もせず帽子を深々と被り、黒縁のメガネをかけて散歩に出掛けたのは2時間前。
途中、立ち寄ったコンビニで誰にも気付かれずに買ってきたものは、一冊の雑誌だ。司の名前を見出しに見つけて思わず買ってしまった。
部屋に戻って中身を見れば、また新たな女性との華々しい恋愛が綴られていた。
私とのスキャンダルは、すっかりなかったことにされている。
良くもまあ次から次と。これを鵜呑みにする人だっているかもしれないのに。そんな人達からしてみれば、司は女にだらしない最低な男ってことになる。
司のことなんて何も知らないくせに、ろくに調べもしないで好き勝手に書いて……。
とはいえ、とことん調べられても困るのだから、腹立たしさもどこへを向ければ良いのやら。
気分の晴れない重い溜息が、一人でに落ちた。
時計を見れば既にお昼を大幅に回っていた。けれど、何かを食べようって気にはならなくて、お腹を空かせるためにも、気分転換するためにも、よしっ! の一声で立ち上がる。
こんな時は、掃除よ、掃除!
週刊誌を前に腐っていたって仕方がない。
元々、じっとしていられない質だ。良くも悪くも広すぎるこの部屋を、隅から隅までまで掃除機でもかければ、お腹だって空くだろうしストレス発散にもなる。一石二鳥だ。
早速、鼻歌交じりに掃除機を床に滑らせていった。
ソファーを動かし、スタンドライトを退かしながら、気分良く三曲目の鼻歌が終わった時だった。
「ぎゃーーーーっ!」
品の欠片もない悲鳴が自分の喉元を突き破る。突然に肩を掴まれたせいだ。
驚きに振り返れば、耳を指で塞ぐ、いるはずもない司がそこにいた。
「お前、うっせぇよっ!」
「えっ、何!? どうしたの?」
「何じゃねぇよ。さっきから何度も声かけてんのに気付かねぇし、鼻歌も音程ズレてるし」
「嘘、ごめん。掃除機かけてたから気づかなかった……てか、音痴なのは放っておいて! それより、どうしたの? 何かあった?」
「その前に、またあんな雑誌見てたのかよ」
あ、置きっぱなしだったか、と司が指を指すテーブルへと目を向ける。
「一応、言っておくが、なんもねぇかんな。あれは取引先の秘書で仕事で会っただけだ」
「うん」
何でもないのは分かっているけど、司の人権を無視して好き勝手書かれたのが面白くなくて、その上、私とのスキャンダルは、まるでなかったかのように世間が気にも留めないことに、少しだけ寂しさを感じただけだ。
「それより、こんな時間にどうしたの?」
見上げた司の顔が、幾分、元気がないように見えるのは気のせいだろうか。
「お前の顔見て伝えたかったから……今夜から急遽、NYへ行くことになった。10日位は向こうに居なきゃなんねぇ」
…………気のせいじゃなかったらしい。
「そうなんだ。でも仕事じゃしょうがないよね」
「寂しくねぇのかよ」
「そりゃ寂しいけど仕方ないよ」
「一緒に……行けねぇよな?」
本気で言ってるのだろうか。
私だって、行けるものならそうしたい。自分らしさを失いつつある今、一人になるのは正直嫌だった。でも……。
「無理だよ。仕事に穴をあける訳にはいかない」
「そうだよな、悪りぃ。なるべく早く片付けて帰ってくっからよ、ちゃんとお利口にして待ってろよ?」
「心配しないで! 司こそ、仕事も大変だろうけど、きちんと食事して睡眠もしっかり取ってね?」
「あぁ。つーかよ、結婚してから初めてだよな。こんな離れんの」
「うん、そうだね……」
結婚してからは、一日、二日お互いの仕事で会えない時はあったけれど、こんなに長いのは初めてだ。
司の立場を考えれば、今までの方が不思議なくらいで、もしかすると裏では、何らかの配慮があったのかもしれない。
いつの間にか司に抱きしめられ、この温もりが暫くお預けになるのかと思うと感じずにはいられない寂しさ。同時に、離れている間、司の傍らには滋さんがいるのだという現実を思い出し、過るのは一抹の不安だった。
────そして、この不安は見事に的中する。
司が帰国を予定していた十日後、またも司の記事が世間を賑わせた。
週刊誌に掲載された司の写真。それはいつもと違った。
朗らかな笑顔の女性に、無表情が常の司が穏やかな顔を差し向けている。
これは、私との熱愛報道を除けば初めてのことで、その相手こそが滋さんだった。
しかもこの出張は、早く帰るどころか3週間もNYに滞在となり、私の泊りがけの仕事とも重なって、結局、一ヶ月近くも会えない日々となった。

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