その先へ 7
「牧野さん、来て下さりお礼申し上げます」
西田の交渉に応じてくれるか否か。
静寂なメープルの執務室で一人、願いが届くようにと待った。
その待ちわびた人物が姿を見せた時。逸る気持ちを抑え、今度は私の番だと気を引き締めた。
チャンスはこの一度だけ。
もう次は訪れないし、彼女の意思を尊重しないわけにはいかない。
「どうぞ、こちらにお掛けになって」
ソファーへと牧野さんを促し、その対面に腰を下ろす。
向かい合う形で彼女を改めて見れば、流れた歳月を感じずにはいられない。
大人の嗜みとして施されたメイク。
決して、派手ではない。
私達の世界に生きる住民からは、地味と表現されるかもしれないけれど、嫌味なく仕上げられているそれは、彼女の清らかさが滲み出ている。
高校生の頃は、丸みを帯びた顔だった。
今はほっそりとし、綺麗に変化を遂げている。
目の前の彼女とあの時の少女が同一人物だとは、深い付き合いがあった者以外、直ぐには気付かないかもしれない。
「牧野さん、西田から聞き及んでいると思いますが、私に悪意はありません」
「……はい」
「そこでお尋ねしたいの。あなたには、先日の司がどう映って見えて?」
「……質問の真意が見えません」
幾ら悪意がないとは伝えても、ここに来るのには迷いがあったはず。
更には、先の読めない話に戸惑いを感じてるに違いないのに、真っ直ぐな瞳で毅然と返す彼女に、安堵すら覚える。
西田が、コーヒーを二人の前に置き、私の背後に立つのを待ってから、もう一度尋ねる。
「そのままの意味です。あなたには、今の司がどう見えたのか、と」
探るように黒い瞳を向けた彼女は、ワンテンポ置いて答えた。
「12年です。人が成長するに相応しい年月です。道明…………司さんも、高校生の時とは当然違うし、大人になっているとお見受けしました」
「ええ、そうね。暴れもせず、文句も言わずにただ仕事だけをこなす……、それが大人になった、と言うのならば」
「それこそ、あなたが望まれていた、跡取りとしての姿ではないのですか?」
迷いのない切り返しに、「そうだったわね」と過去との矛盾を苦笑し認め、一気に畳み掛けた。
「単刀直入に申し上げるわ。牧野さん、あなたをヘッドハンティングしたいの。司を救って下さらないかしら? 助けて頂きたいの」
彼女の目が一気に見開く。
想像もしていなかったのだろう。
私がこんなことを言うなんて。
私があなたにお願いをするだなんて。
それでも、この想いに耳を傾けて貰いたい。
「あなたの経歴を調べさせて頂きました。これは嬉しい誤算だったけど、あなたはインハウス(企業内弁護士)としてご活躍されている。その高い専門性を生かし、ゼネラル・カウンセルというポジションと、秘書的な仕事も兼ねて、西田と共に司のブレーンとなり力を貸して頂きたいの。あなたの能力を生かし、且つ、人間らしく生きられるよう、司をも救って欲しいんです」
「待って下さい」
声音を僅かに上げて、彼女は言葉を繋げた。
「私は、司さんの力にはなれません。それに、どうして私なんですか? 昔を思えば、こうして司さんと関わらせようとすること自体、正直、信じられません」
「当時の私は愚かだったわ。司の幸せが何かも気付かずに。あなたにも本当に申し訳ないことをしたと思ってます……牧野さん?」
「はい」
「あなたの中に、司に対する想いは、もう微塵もなくて?」
賭けだった。
12年も、それも自分を忘れた相手を、未だ想い続けている確率は限りなく低い。
とっくに、見切りをつけていたとしても当然だった。
それでも、聞いておきたかった。
高校時代の、あの怖いまでの純粋さに賭けてみたくて。
「…………ありません。司さんへの想いは、だいぶ昔に風化しました」
見逃さなかった。
一瞬、瞳をテーブルへと落としたことを。
「それでも、お願いさせて頂戴。不眠症の上に、食事も最低限でお酒だけ。いつ体を壊しても可笑しくない、あの子のために」
「ぇ……」
「あの子は体を壊しても何とも思わないでしょうけどね。寧ろ、それを待っているのかもしれない。もし、死を迎えるとなったとしても、司は笑うかもしれないわ。やっとこれで楽になれると」
彼女の瞳が揺れる。
それを見て、自嘲の笑みが無意識に溢れた。
「狡いわね、私は。あなたの優しさに付け込み、あなたの情にこうして訴えてるのだから。そこまでしても、あの子を救いたい。そんな人並みに母親らしいことを言ったら、あなたは笑うかしら…………」
「……私には無理です。彼を救うことは出来ません。力になんて絶対になれません」
「牧野さん、取り敢えず1年だけも良いの。 昔、無駄にはなってしまったけれど、私も、あなたに1年の猶予を与えたことがあったわ。今度は私に与えては下さらない? 結論は急がなくて結構よ。良く考えて、返事を頂けるのをお待ちしています」
私の合図で西田が名刺を差し出し、暫く考えたのちに受け取った彼女は、「……分かりました」とだけ言うと、スッと立ち上がり頭を下げる。
西田が開けた扉に向かう彼女は、潜り抜ける直前に振り返り、最後に言葉を残し去って行った。
…………そう、まだあなたの手元に。
そんなあなただから、救いを求めてしまうの。
これが私のエゴだと知りながら。
────『あなたを笑ったりなんかしません。あなたは、うさぎのぬいぐるみを大切に持っていた人だから。今も、私が預かっています』
***
「姉ちゃん?」
「わっ、ビックリした。帰ってたんだ」
リビングに立つ弟を見て、肩が跳ねる。
時計を見やれば、11時を少し回っていた。
そう言えば、と、食事を摂るのも忘れていたことに、今更気付く。
トレンチコートすら脱がず、帰宅して直ぐ取り出した物を手に包み込んでから、ずっとソファーに座ったままで。
「何度も声かけたのに……姉ちゃん、何かあった?」
「……うん、あったね」
心配そうに、覗き見ながらネクタイを外す進が、ソファーに座ると打ち明けた。
「実はね、1ヶ月前に見合いしたの。相手は道明寺」
「はっ!?」
「勿論、断ったけど。でも今日、道明寺社長に呼び出されて……」
「えっ、ちょっと待てよ。一体、何がどうしてそうなった?」
目を大きくさせ混乱してる進に、魔女からの話や思いの丈の全部を曝け出す。
「そうか……」
全てを話終え、進の呟きが落ちてからは、時計の秒針だけが音を作る。
互いに思い更ける時間が過ぎ、それを突き破ったのは、やっぱり進だった。
「引き受けたとしたら、もしかしてってこともあるよ? これ以上、近付くのはあまり……出来れば俺は、この話は断って欲しい」
「そうだね。でも、あの人は私だって気付いてないよ。それに、どちらを選択したとしても、もしもの時の覚悟は変わらない。そこに迷いはないよ」
「…………そっか」
「道明寺、バカだよね。寝ない食べない飲むだけって……ホント馬鹿。ホント何やってんだろ」
「姉ちゃん…………」
進の視線を痛いほどに感じる。
それとも、痛いのは見ている進の方か。
手に持つうさぎを見つめながら甦るのは、あのお見合いの日、角膜に焼き付けた道明寺の顔だった。
それから10日後。
名刺に記された番号を呼び出した。

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