Secret 10
司の怒り心頭という波乱の幕開けから始まった今日も、全ての仕事をやりこなし、終わりを迎えようとしていた。
類のところの撮影を終えたばかりの今は、控え室にて帰り支度をしているところだ。
予定より早く撮影が終わったのは幸いだった。
あれだけ早く帰って来いと念を押してきた司のこと。遅い帰宅になったりでもしたら、朝の再来とばかりに、恐怖の顔をまた拝む羽目になるかもしれない。
もっとも、早く帰宅したところで、花沢物産の仕事を受けた今日は、ブツブツと文句を並べ立てられるのは避けられそうにないけれど、それさえもどこか待ち遠しく、早く会いたいと願ってしまう私は、我がことながら始末に負えない。
「先輩、予定より早く終わりましたから、どっかで食事でもして行きません?」
「ごめん。今日はなるべく早く帰りたくて……」
「ふぅーん、道明寺さんに何か言われてるんですね?」
「べ、べ、別に?」
「まぁ、今朝の様子だと早めに帰った方が賢明ですね」
一体、どの口が言うのか。そもそも、あんなに機嫌を悪くさせたのは、桜子のせいなのに。
恨み節を含ませた眼差しを投げてみたけれど、クスっと笑み一つで簡単にあしらわれた。
何故か桜子は今朝、司の怒りに油を注ぎまくった。
きっと、鋼の心臓の持ち主だから、司をからって怒らせるのも、危険な遊びの一つとして楽しんでいるのかもしれないし、司を弄ることで、日頃の鬱憤を発散しているのかもしれない。けれど、それに巻き込まれ被害に合うは誰なのか、少しは私の身にもなって欲しいところだ。
「先輩、着替え終わったなら、そろそろ行きましょうか」
手帳をパタンと閉じた桜子が言う。
「うん」
辺りを見回し忘れ物がないことを確認して、さて帰ろう、とドアに向かった時だった。私のスマホの着信が鳴る。
画面を見れば司の文字。もしかして、もう終わったとか? と途端に胸が弾む。口元だって緩んでいるかもしれない。
「もしもし、司?」
「あぁ、つくしか。仕事はどうだ?」
「思ってたより早く終わって、これから帰るところ」
「……そうか……あのな、つくし。悪りぃ、実は滋の歓迎会を秘書課の奴等とやることになって、俺も顔出すことになっちまったんだ」
えっ? と上がりそうになった驚きの声は、辛うじて呑み込んだ。
初めてだ。だから、余りの驚きに声が出そうになった。
取引先との会食はあっても、社内での飲み会に出るなど、今まで一度だって訊いたことがない。
親睦を深めるという一般的な発想も協調性も持ち合わせていない司が、まさか歓迎会に参加するなんて、私自身も想像もしていなかった。
「つくし?」
「そっか、分かった。私のことは気にしないで?」
嘘だ。本当は誰よりも私が気にしてる。
朝から怒涛の一日だった体の疲れが、ここに来て一気に押し寄せてくるようだった。
「つくし、ごめんな。なるべく早く帰るようにすっから」
「無理しないで。司も滋さんも、あまり飲み過ぎないようにね」
仕方のないことだと頭では理解しても、自分の中の燻りは拭えず、気付かれないうちに通話を終えるしかなかった。
「先輩? 道明寺さん、遅いんですか?」
通話を終えた私を桜子が見つめる。
「うん、滋さんの歓迎会だって」
「大丈夫ですよ、先輩。あれだけ煽っておいたんですから。朝から道明寺さんの頭の中は先輩で一杯なはずです」
「え?」と目を瞠る。
煽ったって、まさか今朝のあれは、計算の上で油を注ぎ続けてたの?
「もしかして、わざと司に?」
「先輩、正直なところ嫌じゃありません? 他の女性が愛する人の傍にずっといるなんて。そんな状況、面白くなくて当然ですもの。それを先輩は我慢するんですから、道明寺さんに少しだけ意地悪したくなったんです。私だって滋さんのこと好きですし、問題なんてあるはずないですけどね、ちょっとしたイタズラです」
桜子は、私の中に潜む何かを嗅ぎとったのだろうか。
今朝の出来事が桜子なりの気遣いだったなんて、万に一つも考えもしなかった私は、桜子のその遠回しな優しさに、いつだって驚かされ、そして何度も助けられてきた。
昔から、自分でも気付かない私の気持ちを汲み取り、掬い上げ、桜子らしいやり方で支えてくれた。時には叱られたりもしながら。
「何だか、ごめん。鋼とか危険な遊びとか鬱憤とか」
「……なんですか、それ」
桜子は眉間に皺を寄せ、奇妙なものでも見るような目つきで私を見る。
「いや違う、そうじゃなくて……。ありがとう、桜子。感謝してる、いつも本当に」
「私が好きで仕掛けたイタズラですから、お礼を言われることじゃありません。でも先輩、今夜は覚悟したほうが良いですよ? きっと道明寺さんは獣と化すでしょうから。但し、それ以上のキスマークは勘弁して下さいね。上手く逃げて下さいよ」
「な、なに言ってんのよ!」
しんみりとお礼を告げたのも一変。やっぱりバレてたのか、と顔が火照る。
どこまでも目敏い桜子に、私は隠し事なんて出来ないのかもしれない。
キスマークの存在を指摘され顔は熱くなるのに、恐るべし桜子、と表情は引き攣るという、何とも奇妙な仕上がりになった時。控え室のドアが叩かれた。
「はい」
桜子が扉を開けると、
「まーきの」
透明感のある笑顔を湛えた類が、ドアからこてん、と傾げた顔を覗かせ、「類!」と声を上げた私は、手招きして部屋の中へと誘った。
「類、来てくれたの?」
類の笑顔に引きずられ、頬の強張りが解けた私も自然と笑みが広がる。
類だって忙しい身だ。撮影現場に姿はなく、今日は会えないと思っていただけに、こうしてわざわざ来てくれたことは、素直に嬉しい。
「良かった、まだ帰ってなくて。もっと早く来たかったんだけどね」
「無理しないで良かったのに。類だって忙しいんだから」
「俺が牧野に会いたかっただけ。それに今回はこっちのミスで牧野に迷惑掛けちゃったからさ、何かお礼でもさせてよ」
「お礼なんて気にしないでよ。皆さんのお陰で撮影もスムーズに進んだし、何も問題なかったんだから」
「じゃ、お礼じゃないにしても食事に行かない? それともまだ仕事ある?」
「仕事はもう終わったんだけどね……」
思わず言葉尻が弱くなったのは、今朝の司の様子が頭を掠め、少ながらず躊躇いがあるからだ。
「司のこと? もう司、帰ってきてるの?」
「ううん。今日から滋さんが司の秘書として働きだしてね、その歓迎会があるから、遅くなるとは思うんだけど」
「じゃ、いいじゃん。二人だと後で猛獣が煩いから、三条も一緒にどう?」
「私はついでですか? まぁ、いいですけどね」
桜子の言う『ついで』には、否定もフォローもしないまま、
「うん、決まり」
と、決定を下した類は、早速どこかのお店に予約を入れているのか、スマホを操作し始めた。
行くとも行かないとも言ってはないけれど、司も帰りが遅いのなら私だって、と反発にも似た思いが湧き、気持ちが傾く。
帰ったところで、司を待つ間一人そわそわとするくらいなら、どこかで気を晴らた方が、きっといい。
桜子も一緒なんだし、と言い訳が後押しし気持ちを切り替えると、司に連絡を入れるためにスマホを手に取った。
流石に黙っていくつもりはない。心配させたいわけじゃないのだから。
忙しいかもしれない司の電話を鳴らすのは避け、類と桜子と食事に行って来ると、簡潔な文章でメールに送った。
じゃあ、行こうか、と三人で歩き出した時、邪魔するように着信音が鳴る。まだ手にしたままだった私のスマホだ。
……見なくても分かる。
メールを送ってから1分と経たずに鳴るこれは、間違いない。司だ。
シンプルな着信音のはずが、「グルルル」と、唸るような威嚇に聞こえるのは気のせいか。
立ち止まったままの私に、出ないの? と注がれる二人からの視線を受けて画面に目を落とせば、想像通りそこには司の名があった。
仕方なく覚悟を決め、スマホを耳に宛てるや否や、
「もしも──」
『てめぇっ、何考えてるっ! 類と飯なんか行くなっ! 仕事終わったんなら、さっさと帰れっ!』
のっけから鼓膜が破れんばかりの怒声が飛んで来た。
スピーカーにしてるわけでもないのに、類や桜子にまで聞こえているだろう、司の怒り任せの声。
食事に行くとなれば、司の機嫌が悪くなることも、ましてや、類も一緒となれば、それは相当なものになるだろうことも予想はしてたけれど……。
でも、先に約束を反故にしたのは司だ。
みなぎる怒りのエネルギーに気圧されそうになるけど、それは余りにも癪だ。
私だけが文句を言われる筋合いはないと、スマホで繋がる向こう側に向かって、ムクムクと反抗心が顔を出す。
「いいじゃない、別に食事くらい行ったって!」
『だったら三条と二人で行け! 何で類なんだよ! 勝手につくしを連れ出そうとしやがって!』
「もう煩いっ! 司だって早く帰って来れないんでしょ? だったらいいじゃない。食事行くくらい何が悪いのよ! とにかく行ってくるから、じゃあね」
類が絡むと冷静でいられない司の電話を一方的に切る。
何よ! 頭ごなしに怒って。そっちが先に約束破ったんじゃない。
仕事なら分かる。いや、これも仕事のうちかもしれないけど、でも、だけど、と燻った何かが心に残る。
そんな燻りを消化出来ずにいると、またしても耳に入ってくるのは着信を告げる音。
思わず肩が跳ねるも、でもそれは私のものではなく、さっき私のものから聞こえていた怒声は、今度は類のスマホから漏れ聞こえてきた。
『類、てめぇ、どういうつもりだっ!』
「司、声でかい」
『っるせぇ、俺の質問に答えろ!っつうか、食事になんか行くなっ!』
「えー、やだ」
「てめぇ、ふざけんじゃねぇぞ! 俺に断りもなく勝手に食事になんか誘いやがって! つーか、つくしに必要以上に話しかけるな、触るな、笑いかけんな!」
「司、それ全部無理だから。じゃ」
私に引き続き、司の怒声は敢え無く強制終了。
司のあんな態度には慣れている類は、「今度こそ行こっか」と、何事もなかったように言うと、司に禁止されたはずの笑顔を惜しみなく向けて、先頭を歩き出す。
司がどんなに怒っても、いつだって類の反応は薄く、だから余計に司の怒りは倍増すると思うのだけど。
そんな司の気持ちは知りつつも今は慮る気にはならず、今度こそ私も控え室を出た。
きっとまた、怒りの抗議が飛んでくるに違いない。
人知れず溜息を吐いた私は、直ぐに応戦出来るよう、スマホはバックにはしまわず、手に持ったままその時に備えた。
望むところよ! 何度だって言い返してやるんだから!
しかし、手の中のスマホは音を奏でず、結局、その後もずっと沈黙したままだった。

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