Secret 8
「つくし久しぶり、元気だった?」
「はい、本当に久しぶり。滋さんもお元気でした?」
「うん、この通り元気だよ!」
何も変わらない滋さんの笑顔。私が過剰に意識しすぎていただけなのかもしれない。
玄関でそんなやり取りをしていると、ふと視線を横に向けた滋さんが、スタンドテーブルに置いてある物を指差し、素敵、と呟いた。
滋さんが指差したのは、リングピローだ。
ワイヤーで作られた、シンデレラに出てくるカボチャの馬車のようなシルエットのそれは、青と白のプリザーブドフラワーが敷き詰められ、そこにクリスタルのピンが二つ並んで挿してある。
悲しいことに私達は、出かける度に結婚指輪を外してピローのピンに掛け、また帰ってきてから、指輪をあるべき場所である薬指に収めている。
外していなければならない間も、二つ並べたリングが寂しくないよう、華やかに飾られたリングピロー。
このリングピローに指輪を飾らなくて済むまで、あと10ヶ月。
「ちょっと、先輩。いつまで私達を玄関先に立たせて置くつもりですか?」
リングピローに視線を落としていた私は、桜子の言葉で我に返り、慌てて二人をリビングへと通した。
「あら、道明寺さん。もうお帰りになっていたんですか?」
この時間帯にいるのは珍しい司に向かって、桜子が訊く。
「人の顔見た途端、第一声がそれか? 俺んちだ、いてもいいだろ」
「勿論ですよ。ただあまりにも早いご帰宅なんで驚いただけです。もしかして、マスコミに追われて仕事に影響でも出ました? 今じゃ、国民的スターのうちのモデルに手を出したんですから、しょうがないですけどね」
「て、手出したって…… 」
自業自得だと言わんばかりに、ニコリと笑う桜子に司は言葉を失っている。
何か反論しようものなら、2倍以上になって返って来るのは司も学習しているみたいで、私と司の二人がかりでも桜子には太刀打ちできないのは、今までの経験上、十分分かっている。
そのせいか、それ以上司は反論せず、誤魔化すように皆が来る前から飲んでいたワインに口をつけた。
そんな司に構うことなく、今度は滋さんが声をかけた。
「よっ、司! お邪魔させてもらうよ!」
「おぅ。ホントに邪魔だな」
「ちょっと、あんまりじゃない? 折角、滋ちゃんが遊びに来てあげたのに! そんなに迷惑だった?」
「当たりめぇだ。たまに早く帰って来たってのに、邪魔すんじゃねぇよ」
「司、なに失礼なこと言ってんのよ! 滋さん、料理も一杯用意しますから、遠慮しないで沢山食べてって下さいね!」
「ありがとう、つくし。しかし、毎日一緒にいてもまだ二人きりでいたいのね、司は」
「当然だろ。大体、俺たちはお互い忙しくて、毎日っていったって一緒にいられる時間は少ねぇんだよ」
子供のように不貞腐れる司に、少し安心を覚えたのも本当だけれど、これから秘書としてお世話になる滋さんと、ちゃんと向き合いたい気持ちも本当。
現実は現実として、自分の中で消化し受け止める。
いつまでもグズグズ悩むばかりじゃ、何も始まらないのだから。
「滋さん桜子、司も食事の準備出来たから、こちらへどうぞ」
先輩に促され、道明寺さんと先輩が並んで座るいつもの席の向かいに、滋さんと共に腰をかける。
道明寺さんが皆に振舞ってくれたワインのグラスを持ち、乾杯をしようとした時、先輩は真面目な顔つきで、改めて滋さんに挨拶をした。
「滋さん、これから司がお世話になります。宜しくお願いします」
「うわ、先に言われちゃった。こちらこそ、西田さんほど有能なじゃないけど精一杯務めさせていただきます!」
頭を下げた後に先輩を見た滋さんは、茶目っ気たっぷりに言った。
「安心して下さいね、奥様!」
全くこの人は鈍いのか天然なのか、先輩は、「奥様?」なんて不思議そうに首を傾げている。
「奥様って言ったら、お前しかいねぇだろ」
道明寺さんに額を小突かれながら言われて、やっと理解した途端、真っ赤に顔を染めた。
「いやー、ワイン飲む前からそんな顔赤くしちゃって、可愛いんだから!」
滋さんにからかわれれば、益々恥ずかしそうで。いつまでもそのウブなところは変わずだ。でも、ピンと来ないのも無理からぬことだ。
二人の結婚を世間に隠しているために道明寺邸に住むわけにもいかず、先輩の希望で使用人も置かない生活を送っているのだから、奥様なんて呼ばれたのは、初めてなのかもしれない。
奥様と呼ばれて当然の立場である先輩が、現実では息を潜めて暮らさなきゃならない状況は、親友としても辛いものがある。
一人の女性として、道明寺つくしとして、堂々と道明寺司の妻は自分なんだと、胸を張って言える日が早く来れば良いと願ってしまうのは、隣にいる滋さんの気持ちを知りながらも、変わることのない私の思いだ。
「もうやだ、滋さん。私、呼ばれ慣れてないんですから。今まで同様、つくしでお願いします」
「お前もそろそろ慣れろよ。道明寺の若奥様はお前なんだから」
道明寺さんまでそんなこと言って。
これじゃ、真っ赤な顔が戻るどころか、余計赤みを増すばかりじゃないですか。
まぁ、道明寺さんの場合は、そんな先輩の姿を見たくて、わざと言ってる節があるけれど。
モデルと言う職業を考えれば、いい加減その癖は直してもらいたいのが、マネージャーとしての思い。
「先輩、そのすぐ顔を真っ赤に染めるの、どうにかなりません?」
「そ、そんなこと言われても、自分の意思とは関係なく出ちゃうんだから、しょうがないじゃない。もういいから、ほら早く乾杯して食べよ!」
赤い顔のままの先輩の一言で、やっと皆で乾杯をし、先輩の手料理をご馳走になる。
「久しぶりだな、つくしの手料理。毎日、こんな愛情料理を食べられるなんて、司は幸せもんだね」
大きな口で料理を頬張りながら、何気ない感想を言う滋さんだけど……。
「そうしたいんだけど、毎日は作ってあげられなくて。一緒に食事が出来るのは、朝くらいなんです」
「そっか。つくしも忙しいもんね。私、余計なこと言っちゃったね。でも、司は、つくしを嫁にもらえただけで嬉しいんだから。ね、司?」
「あぁ。別につくしに飯作らせるために結婚したんじゃねぇよ。つくしだけじゃなく、俺も早く帰って来れねぇ方が多いしな」
優しく見つめる道明寺さんのその瞳は、先輩以外の誰かに向けられることはない。
「でもそのうち、嫌ってほど貧乏食を作ってあげるつもりだから」
「げっ、マジか」
「何よ、嫌なわけ? 嫌でも何でも責任持って食べて貰うからね。健康のためにもね」
ふざけ合い、からかいながらも、優しく微笑み会う二人。そんな姿を、滋さんはどんな思いで見ているのだろうか。
食事が済んだ私達を残し、コーヒーを入れるためにキッチンへと向かった先輩がいなくなると、滋さんは、静かに口を開いた。
「本当に二人とも幸せなんだね」
道明寺さんに向かい哀しく笑う滋さんの姿は、この場に先輩がいなくて良かった、と心底胸を撫で下ろすくらい、想いが複雑に絡み合った表情だった。
そんな滋さんを、気にも留めない様子の道明寺さんだけれど、それがせめてもの滋さんへの気遣いなのではないか、と思う。
でも、そんな気遣いが出来るのも、傍に先輩という女性がいるからこそだ。
滋さんは、先輩を愛してからの道明寺さんに惚れたのだ。
今の道明寺さんは、先輩と出逢った事で生まれ変わった人なのだから。
食事を終え、そろそろ頃合いの時間になると、私達は二人の新居を後にしようと席を立った。
玄関まで見送ってくれる先輩と道明寺さんにお礼を告げてから、明日の予定を簡潔に伝える。
「先輩、明日は花沢物産のCM撮影の予定ですからね」
「花沢物産だと? 類かよ!」
やっぱり反応しちゃいましたね。
先輩に告げたはずが、花沢と言う言葉で意図も簡単に自分を見失う道明寺さん。
「何だよ、その仕事。この前、類に仕事で会ったけど、そんなこと一言も言ってなかったぞ! あのヤロー、何で俺に黙っていやがった!」
「牧野つくしにオファーが来たんですからしょうがないですよ。しかも、破格のギャラですからね。なんでも花沢さんが先輩じゃないとダメだってゴネたらしくて。あ、それからついでに言っておきますけど、数ヵ月後には美作商事とのCMもありますのでご理解くださいね!」
「あいつらっ、俺の知らぬところでコソコソと! 三条、何でそんな仕事受けたんだっ!」
「そりゃ、日本を代表する企業のCMですし、ギャラも良い。うちにとっては、良いこと尽くめで断る理由の方が見つかりませんよ」
「あいつら勝手真似しやがって! 特に類だ! あいつだけは許さねぇーっ!」
怒りオーラ全開の道明寺さんは、私達のことなんかすっかり忘れて部屋の中へと戻って行ってしまった。
「全く道明寺さんも、相変わらず花沢さんで反応するんですから」
「桜子。あんた、それ知っててわざと言ったでしょ」
「だって、CMが世間に流れたらばれる話ですし、さらっと言っちゃった方が良いかと思って。さらっと聞き流しては貰えませんでしたけど」
そんな私の言葉の後には、部屋の中から道明寺さんの怒声が聞こえてくる。
『類、てめぇ、どういうつもりだ! 人の女を、違った、人の女房を勝手に!』
『んだとー? 何でこの前なにも言わなかったんだっ!』
『あーっ!? うるせぇっ!』
『てめぇは、つくしに会うなっ、分かったなっ!』
「明日の撮影場所は、道明寺さんには伏せておいた方が良いかもしれませんね。あの勢いだったら、現場に現れそうじゃありません?」
「桜子、あんたのせいでしょうが、あんたの……」
溜息をつき項垂れる先輩を見て、滋さんが静かに訊ねる。
「愛されてるね、つくし。ねえ……今、幸せ?」
何かを感じ取ったのか、溜息をついていた先輩は即座に顔を上げ、真っ直ぐな視線を滋さんに注ぎ、笑顔で言った。
「はい、幸せです。この幸せだけは絶対に手放しません。どんなことがあっても、絶対に」
いつもの先輩なら、照れが邪魔してこんな風には言わない。
でも今夜の先輩は違った。躊躇うことなく、強い意志を湛えた瞳で凛として答えた。
それは、女として、親友として、きっと全ての思いを込めての意思表示だった。
そして滋さんもまた、全ての思いを汲み取り、少し前に道明寺さんに向けたものとは違う、吹っ切ったような笑顔を見せた。
「つくし、幸せになんなね。いつか、誰にも遠慮せずに、もっともっと幸せに」
その言葉に「はい」と応じた先輩と滋さんの間には、同じ感情を持ち合わせるもの同士だからこそ分かり合える想いが、この瞬間、確かに存在した。
先輩達のマンションを出てからの帰り道。
「桜子。今日はつくしに会わせてくれてどうもありがとう。ありゃダメだわ! 誰一人としてあの二人の間に入る隙なんてないね!」
「えぇ」
「ねえ、あの二人。コーヒー飲んでるときにテーブルの下で手を繋いでいなかった?」
気付いていたんですか。
誰がいても触れていたいと思っている道明寺さんだから、隠してるかどうかは疑問だけれど……。
拒否もせずにそのままでいる先輩も、道明寺さんに感化されたからか、それとも、道明寺さんに負けず劣らず、相手を求めているせいか、今では珍しくもない光景だ。
「滋さん? 手を繋ぐぐらい可愛いものだと思っていた方が良いですよ?」
「あは、そっか! まぁ、それもしょうがないよね。今夜で免疫つけておいたし問題ないよ。でもさぁ、あんなにお互いを求め合えるような恋愛、私もしてみたいなぁ」
「そう言うことでしたら協力は惜しみませんよ? 仕事柄、色んな男性の情報はしっかり握っておりますから。いつでも提供させて頂きます」
「わぁー、さすが、桜子! 仕事もしながら、ちゃんと損のないように動いているって訳ね」
「当たり前です。それでなくてもあの二人を毎日相手にしてると大変なんです。これくらいの楽しみがあってもいいじゃないですか」
「そりゃそうだ! じゃあ、桜子。是非とも提供ヨロシクね?」
「ええ、了解しました」
楽しく過ごしたこの時間は嘘じゃないけれど、気持ちをリセットするには、やはり時間は少なすぎた。
滋さんが秘書となるのは週明けから。
そして今日までが、嵐の前の静けさ、だったのかもしれない。
果たして、恋愛にルールなんてあるのだろうか。
あったとしても、それは役に立つのだろうか。
────いや、きっと無理だ。
自分でさえコントロールの出来ない感情ほど厄介なものはない。
だから、これで良いんだと自分で勝手にルールを生み出し、茨の道でさえひたすらに突き進む。
感情は複雑に絡み合い、自分も、他の誰かをも傷付けるまで、それは止められないのかもしれない。
この日、確かにあった女の友情も、誰かを愛したが為に生み出されたルールによって翻弄されるのは、もう少し先のことだった。

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