その先へ 58【最終話】
『神島コーポレーションは、蓮見田カンパニーを買収する方向で取締役を派遣し、経営陣を一新して再建を進める方針である事を──────』
テレビのスイッチを切り、アナウンサーの声を遮断する。
流れていたのは、今日、世間に公表されたもので、朝から今の夕方に至るまで、どの番組でもトップニュースとして扱われていた。
これで少しは、ほんの僅かな胸の重石を取り除けた。けど、その肝心なアイツが捕まらねぇ。
仕方ねぇ、と諦め、取り出したスマホのアドレスから別の名前を引っ張り出しタップする。
耳に宛てれば、スリーコールで直ぐに繋がった。
『もしもし。道明寺さん、こんにちは』
「おぅ、進。牧野どうしてる? 午前中から電話してんのに、ことごとく無視されラインは既読スルーだ」
『すみません。本当に手の掛かる姉で』
苦笑含みの進の謝罪を訊いて、思った通りだと軽く息を吐き出す。
「おまえが俺の所に来たのを知って、混乱して俺を避けてんだろ?」
『だと思います』
「やっぱりか。おまえは殴られなかったか?」
『二、三発は覚悟してたんですけどね』
この言い方じゃ無事だったか、と結論付けるには早かった。
『殴られない代わりに、家の中にある有りとあらゆるものが、俺に向かって飛んで来ました。うちの姉、無駄に運動神経良いんですよ。コントロールも巧くて、ほぼほぼ俺に命中です。仕方ないので暫くは大人しく的になっていました』
…………それはまた悲惨な。
「…………悪かったな」
『いえいえ、大丈夫ですよ』
進には悪りぃが、我慢して怒りを呑み込むよりかはマシだ。
『それより、ニュース見ました。蓮見田の買収、これだったんですね。道明寺さんのやらなきゃならないことって』
牧野が裁判で戦うにしても戦わないにしても、恐らく、牧野の中に渦巻いていた思いは、巻き込んでしまうことになる蓮見田の社員達の今後だ。
牧野が裁判へと突き進めば、それが決定打となり蓮見田は一気に破綻の道を辿る。それだけ不安定な経営状況であることは、蓮見田の調査書を隈無く見れば明らかだった。
喩え、戦わないにしてもだ。
牧野のことだ。蓮見田親子の行き場を奪ったのは自分だ。蓮見田カンパニーの寿命を早めたかもしれない、犠牲になるのは社員達だと、自分のしたことの正義に胸を痛めてるに違いねぇ。
いや、端からそんな痛みも抱える覚悟で、牧野は正義を貫き通した。全ては俺の為に……。
極めつけは、蓮見田の父親が倒れたことだ。あんな冷酷な男までにも責任を感じるような女だ。
だからこそ、アイツの心痛の一つでも、取り除けられるもんは取り除いてやりたかった。
優しい女が抱えるには、重すぎる。尤も、優しすぎるからこそ、無駄に抱えちまってんだろうが……。
「俺がやるつもりが、結局は、神島の親父さんが手を貸してくれた。ともかく牧野が胸を痛めてる一欠片は取り除いた。あとは、どういう選択が自分に一番負担がねぇか、良く考えて決めろって伝えてくれ」
『道明寺さん……ありがとうございます』
「それと進、牧野と会えるように力貸してくれるか?」
『それなら今度の土曜日、姉を映画に誘ってるんです。その日なら映画館の前で姉を捕獲出来ますよ』
「土曜日だな。分かった。助かる」
弾んだ声の進から、場所と時間を教えてもらって、礼を最後に電話を切った。
フーっ、と長い溜息を吐く。
遣るべき最低限のことは片付けた。
本当なら蓮見田の会社なんて、跡形もなくぶっ潰してぇとこだが、その気持ちを封印して蓮見田を買収することに決めたのは、牧野と二人で話したあのホテルの一室で、散々暴れ倒した翌朝だった。
午前中から書類を読み漁り、必要なもの全てを頭に叩き込んで、そして、進が全てを俺に伝えに来てくれた後すぐ、俺はババァに連絡を取り、蓮見田買収への意向を伝えた。
道明寺にとっちゃ、何の旨味もねぇ買収だ。
完全に公私混同の、それを悟られねぇように取締役会で強引に捩じ込む算段。とは言え、捩じ込むにも限度がある。ある一定数の蓮見田側のリストラは避けらんねぇ。
そこで、買収の賛同を得ると共に、リストラになる社員達を受け入れて貰えねぇか打診するために、ババァに神島会長との会談のセッティングをも頼んだ。
ババァは、何も口を挟んじゃこなかった。
分かりました、と同意し、翌日には神島との会談も取り持ってくれた。
ババァが日本にいることが幸いし、夜の遅い時間帯に早速行われた密談は、俺とババァに神島会長。それと、全てを知ってるあきらも、リストラとなる社員を引き受けてくれることになり同席した。
『一体、何があったのかね? 道明寺ホールディングスにメリットがあるとは思えんが』
買収する旨と、リストラ対象者の受け入れ要請をした後で、神島会長は落ち着いた口調で確認してきた。
『完全な私の公私混同です』
俺は誤魔化すことなく答えた。
『公私混同…………だとすれば、つくしちゃんが絡んでる。違うかね?』
神島会長はババァと懇意の仲だ。見合いにも噛んでるし、何より牧野とも親しい。
牧野と直結させんのも、神島会長なら何ら難しいことじゃなかったんだろう。
『蓮見田が牧野を追いみ、牧野はそれを封じました。それによる影響を最小限に抑えたい。牧野の負担を少しでも減らしてやりたいんです』
『つくしちゃんの為なんだね?』
俺は強く頷いた。
『つくしちゃんを苦しめたのは、蓮見田社長かい?』
『元凶は息子、利用して脅迫したのが父親です』
神島会長の表情が険しくなり、俺達一人一人を見回す。
それは、牧野の身に何があったんだと探っているようで、俺達は目を伏せ口を重くするしかなかった。
幾ら神島会長だとは言え、無闇に口にするわけにはいかねぇ。
『よっぽどの事があったようだね』
思案するように続いた沈黙の後、神島会長が漸く口を開いた。
『司くん。買収したとして、つくしちゃんはそれで幸せになれるのかね』
『いいえ、それだけでは無理です。それ以前に、アイツは幸せになることを放棄してますから。だから分からせてやりますよ。幸せになる道は途絶えてなんかいないんだと、俺の生涯をかけて、アイツには絶対に分からせる』
神島会長は見極めるような眼差しを俺に突き刺し、やがて、鷹揚に頷き笑みを見せた。
『よし、良いだろう。つくしちゃんは、私達夫婦にとっては孫も同じだ。つくちゃんのことは、司くん? 任せたよ?』
『はい』
『但し、蓮見田は私が引き受けよう。うちが買収する』
予想もしていなかった方向からの発言に、俺達は驚きを隠せなかった。
『君達の様子を見れば分かる。よっぽどの傷をつくしゃんが負わされたんだろうとね。それを踏まえれば、恨むべき相手を司くんが引き受けるのは、精神的に良いとは思えない。つくしちゃんにとってもね。
それに、うちは蓮見田とも得意分野が重なってることも多い。メリットを生み出せる可能性が道明寺よりもある。何より、甥の力を試すチャンスだ。上手く行けば甥の力をアピールすることも出来る』
神島会長には子供がいない。現社長は、神島会長の奥さん側の甥だ。だが、敢えて甥を理由の一つに挙げたのは、牧野に必要以上に負担を与えないため。その為に付け加えた、優しい口実に思えてならなかった。
こうして話は一気に加速し、今日やっと公表するまでに漕ぎ着けた。
蓮見田守にしてみりゃ、渡りに船の申し出だったろう。父親は病に臥せ、自分の力だけではもうどうにもならねぇ、と苦心してるところでの買収話だ。
神島とは、友好的買収としてスムーズに話は纏まっていった。
ただの一人もリストラを出さなかった神島会長は、蓮見田守に対しても役職は解くが会社には残留するよう告げた。
それだけじゃねぇ。過去の過ちを反省し苦労を味わえと、僻地に飛ばすつもりでいるとも言ったらしい。
蓮見田守は反論もせず即答で『どんな重い職務でも全うします』そう答えたそうだ。
でも、牧野が裁判を目指せば話は別だ。
蓮見田守は塀の中に放り込まれる。執行猶予を取るのも難しいほどの罪だ。
この罪は非親告罪で、牧野が告訴しなくても公訴提起は出来る。しかし、事件そのものを警察が掴んでいない以上、牧野が警察に駆け込まねぇ限り裁判沙汰にはならねぇだろう。
そして牧野はきっと…………戦わない。
蓮見田の社員が守られたにしても、蓮見田守には、妻がいる。昨年、産まれたばかりの娘がいる。
自分の苦しみや痛みは我慢出来ても、他人の苦しみには堪えらんねぇ。そんな女だ、牧野は。
きっとアイツん中の戦いは、蓮見田と対峙した時に完結しちまってる。
弁護士の肩書きを持つ自分の判断は、これで正しいのかと悩みながらも、思いの秤は一方に片寄ってるに違いねぇ。誰かを巻き込むくらいの戦いなら、もう収めるべきだと……。
そんな不器用で頑固で、そしてどこまでも優しい、堪らなく愛しい女に想いを馳せた。
***
「あんた、まさかまた裏切ったの?」
キッと睨み付けた相手の進は、両手を上げた降参ポーズで後退る。
「裏切った言うなよ。俺が進に頼んだんだ。誰かさんが逃げまくるせいでよ」
進に誘われ観た映画も終わり外に出ると、そこには会いたくなかった道明寺がいた。
…………何で居るのよ。もう関わらないでよ! どんな顔すれば良いのかも分からないじゃない!
必死で心の中で絶叫する。
誰かさんである自分を見てるだろう道明寺と、目を合わすことも出来ない。
それもこれも全部、進のせいだ。
私の代理人として、翌日すぐに蓮見田と面会して来た進は、蓮見田守が全面的に罪を認めたことや、自首をして刑を軽くする行為には出ないこと。私の思うように動いて欲しい、全てを受け入れ謝罪したい、そう言っていたと教えてくれた。
それと、蓮見田社長が倒れたことも。
社会復帰は望めない体になってしまったことに、私が追い込んでしまったからじゃないかと芽生える罪悪感。
そんな私に追い討ちをかけるように、進は爆弾を投下した。
私の想いの全てを道明寺に打ち明けて来たと……。その告白に絶句した。
進だから、何でも話して来たのに。そんなこと伝えたら、道明寺が苦しむだけなのに。そんな姿だけは見たくないって、全部を知ってる進なら分かるでしょ? と、癇癪を起こした子供のように、泣きながら色んなものを投げつけて……。
その和解とばかりに、映画に誘われた今日。まさか、またしても道明寺と連絡を取っていたとは……。
全身に行き渡る怒りを眼差しに込めて、進を再び見る。
「姉ちゃん、怖いって。その顔」
全部、私を想っての行動だってことは、私にだって分かる。でも、それじゃ道明寺は幸せになんてなれない。私を守ろうとして道明寺が犠牲になってしまう。
「んな、カリカリすんな。話があるから行くぞ」
「この前、話したでしょ。私には話すことなんてもう何もない」
チラッと一瞬だけ窺った顔からは、最後に見た、傷付いて苦しんで泣きそうだった弱さを見つけることは出来なかった。
「話だ? あれは言い逃げっつーんだよ。一方的に喋るだけ喋って逃げやがって。今度は俺の番だ。っとに、往生際の悪りぃ女だな、おまえは」
「無駄な時間消費するだけよ」
「進、ありがとな。姉ちゃん借りてくぞ」
「はい、どうぞどうぞ」
私の意思を無視して話す二人に怒りは最高潮となった。
「進、あんたいい加減にしなさいよ。あんたを代理人にしたのが間違いだった。依頼人の意思を無視するなんて、弁護士としてどうなのよ!」
「姉ちゃんこそ、自分が一番正しいとでも思ってるわけ? 神にでもなったつもり? 人の話に耳も傾けないエゴの塊なら、弁護士なんて辞めちゃえよ」
「ッ!」
まさかの反撃に言葉を詰まらせ、油断していた私の手が道明寺に掴まれる。
「ちゃんと話を訊くべきだよ。姉ちゃん、行ってらっしゃい」
辛辣な言葉で刺し、そして、最後に進は優しく笑った。
引き摺られるように乗せられた車の中。
どこへ向かっているのかも分からないまま、隣に座る道明寺とは逆を向き、口を閉ざして流れる景色を眺めていた。
「進、逞しくなったな。昔は泥棒が入ってビビってたのによ」
ずっと無言を貫くのは、流石に大人気なく感じて重たい口を動かす。
「生意気になったのは、間違いないと思うけど……」
フッ、と笑った道明寺は、口を開いたのを良いことに「牧野? この一ヶ月どうしてた?」会話を繋げようとする。
「ボランティアしてた」
「ボランティア?」
「私と同じような境遇の女性対象に、無償で相談に乗ってた」
「…………そうか」
丁度良良い。この話の流れになったのなら、これに絡ませ理解して貰えば良い。
「道明寺、知らないでしょ? 被害者女性は、『泣き寝入り』って言葉にすら悔し涙を流すこともあるの。好きで泣き寝入りするわけじゃないのにって。何てことない言葉一つで心に傷を負うこともある」
「…………」
「だから恋愛だって上手くいかないことも多い。思う相手にすら不安が付き纏ったりもする。簡単に恋愛だって出来ないの」
だから、私のことは諦めて、と言外に匂わせたのに、
「不安にさせる男なんて無惨に捨ててやれ。そんな男相手なら恋愛なんてしねぇ方がマシだ」
俺は違うとでも言うように、逆に言外に含んできてバッサリ突き返された。
「着いた。降りるぞ」
失敗に終わり溜息を吐く私が降ろされたのは、懐かしい場所。春休みで生徒の姿も見当たらない英徳だった。
「どこ行くの? 非常階段?」
校内に入り階段を上る道明寺が足を止め、後ろを付いて歩く私をジロリと睨み見下ろす。
「なんで、おまえと類の思い出の場所なんか行かなきゃなんねぇんだよ」
面白くなさそうに不貞た顔を見せた道明寺は、また背を向け階段を上って行く。仕方なく後に続き着いた先は、屋上だった。
「…………何でここに?」
「別に、どこでも良かったんだけどよ。天気も良いし、外に出てぇ気分だったんだよ。近場で誰もいねぇ空気の吸えるとこって考えたら、ここしか思い浮かばなかった。
最近は息が詰まってたからな。誰かさんがお節介ヤローに頼むから、昼夜問わずに飯持ってあきらが顔出しやがる。西田の分も持ってくるほどの世話好きだ。何が悲しくてヤロー三人顔付き合わせてメシ喰わなきゃなんねぇんだよ」
良かった。進からは訊いていたけど、美作さんが今もちゃんと傍に居てくれて、食事の心配までしてくれていることにホッとする。
「示談にしたんだな」
柵に両腕を乗せた道明寺は、遠くを見つめながら唐突に話の舵を切った。
「うん。……私のためだよね? それで、蓮見田カンパニーの社員、守ってくれたんでしょう? ありがとう…………迷惑かけてごめんなさい」
心配していた蓮見田の社員の人達は、買収という形で守られた。そのことには感謝している。でも私が居ることで、こうして気を遣わせ迷惑を掛けてしまう。
「迷惑なら初めから動かねぇよ。そうしたいからしたまでだ。ババァもあきらも、それから神島のオヤジさんもだ。神島のオヤジさんは、詳細は知らねぇけどな」
「…………」
「家族を幸せにしろ、自分も幸せになれ。金銭的要求もせず受け入れも拒否。気持ちがあるなら、通ってた教会に寄付しろって、全く牧野らしい示談内容だな」
蓮見田の買収を知り、直ぐに示談に応じた。
弁護士としては、法に訴えるべきだったかもしれない。でも、もう充分だと思えた。
幸せであれば悪には手を染めにくい。幸せな家族が傍にいることで抑止力にもなる。そう信じたい。
「牧野、これで一区切りにしねぇか?」
遠くを見つめていた道明寺は向きを変え、柵に寄りかかりながら私を見る。
「これから先は、前を見て歩かねぇか。俺と一緒に」
「それは出来ない」
間髪入れずに返す。
「分かんねぇなぁ。お互い想い合ってんのに、何で離れる必要がある?」
進に事細かく話されてしまっていては、自分の気持ちを咄嗟に誤魔化せるだけの口実が見つからなくて、道明寺が傷付くと知りながらの台詞をわざと投げ付けた。
「…………あんたが道明寺司だからよ」
道明寺の顔が険しくなる。分かっていたけど、事実だからしょうがない。
普通とは違う。道明寺司だからこそ、色んな話題が付いて回る。私のせいで誹謗中傷だって受けかねない。
その矢面に立たされるのは道明寺だ。
「あんたは世間から注目される立場ある人間なの。それを引き立て寄り添ってくれる相応しい人が必ず見つかる。そういう人となら、絶対に道明寺は幸せになれる」
「その相応しい相手こそ、おまえだ」
感情が高ぶり声も跳ね上がる。
「そんなわけあるはずないじゃない! だってあたしは穢れ、」
「それ以上言ってみろよ。本気で怒るぞ」
穢れてる……そう続けようとした言葉は邪魔され、目を見た途端に口を噤むしかなかった。
本気だ。本気で怒らせた。怒るぞと言いながら、既に道明寺の双眸は怒りの色を存分に含んでいる。
「なぁ? おまえが量んのか、俺の幸せを」
「…………」
「おまえに分かるか? 勝手に線引きされる男の気持ちが。一方的に見限られ残るのは、悔しさや悲しみだけだ。喩え、俺を思ってのことだとしてもな。俺にそれを一生背負わせてぇか?」
「…………」
「いいか? 牧野の自己犠牲の上に成り立つ愛情なんて、俺は要らねぇからな! そんな傍迷惑なもん捨てちまえ!」
道明寺の怒声が響き渡りに、地面に視線を落とす。
道明寺は全力で落としにかかろうとしている。それが分かるだけに怖い。
「牧野、間違うな。おまえを理由に俺は不幸になんてならねぇ、絶対に。おまえを理由に幸せにはなってもな!…………牧野、俺はな、」
言葉を途切らせ、道明寺が声のトーンを落ち着かせた。
「過去なんて忘れちまえなんて、無責任に言ってやれねぇ。それほど深い傷だって分かってる。でもな、生きてて良かったって、自分の人生捨てたもんじゃねぇって思えるくらいには、ぜってぇ俺が幸せにしてやる。本当かどうか、おまえ自身が確認しろ。未来で答え合わせすりゃいい」
必死の説得に心が揺れる。でも、負けるわけにはいかなかった。道明寺は何も分かっていないのだから。
「そんな風に言えるのは、私をまだ手に入れていないからよ。付き合えるはずないじゃない。付き合ったとしても、いずれ絶対苦痛に感じる」
そして、やがて捨てられる。そんな道を辿った被害者女性を、私は何人も見てきた。
「どういう意味だ」
「怖くて性交渉が出来ないかもしれないってこと。…………私にはあの悪夢のような経験しかない。
男性と女性とでは体の仕組みも違う。いずれ他の女性を求めたくなるはず。それが普通だとも思う」
…………そんなの堪えられない。と、心で続けた私に、真っ直ぐと向けられていたはずの視線が外された。
当然だ。ずっと待てと言うのが酷な話だ。
これで分かったでしょ? そう思った矢先、
「1.5」
目を反らしたままの道明寺は、謎の数字を口にした。
「…………え?……なに?」
「これは言いたくねぇし、牧野に訊かせたくねぇけど」
そう前置きを置いた道明寺は、自棄になったように後頭部を掻く。
「…………1.5、俺の経験の数だ。人数じゃねぇぞ。回数だ」
開き直った道明寺が言わんとすることは分かるけど、聞かずにはいられなかった。
「……点5って、なに……その0.5は?」
「気持ち悪くて途中で放棄。だから1.5」
「え…………嘘……」
「嘘じゃねぇ。あんまりにも女に興味持てねぇから試してみたけど、やっぱり俺には無理だった。1.5回とも気持ち悪くて吐いた。それが二十歳(はたち)ん時だ。それ以来やってねぇ」
道明寺は31だ。なのに、二十歳からずっと?
驚愕で自分の目が見開くのが分かる。
「俺だって、惚れた女の牧野なら欲しい。でもな、気持ちが追い付かねぇなら、何年だって何十年だって俺は待つ。時間かけて一緒に乗り越えて行けばいい。
普通がどうとか、他の男がどうしたとか言うなよ? 俺には当てはまんねぇからな。実際、こうして遊んでねぇんだからよ。俺は浮気して、おまえを泣かせるような真似は絶対にしねぇ。俺が何より欲しいのは牧野の心だ」
道明寺の驚きの過去を突き付けられて、返す言葉も見つけられずに、気持ちだけがガタガタと揺さぶられて行く。
「おまえが色々悩むのも分かる。でもな、勇気を出せ。確かに、あの一時。おまえは人権を奪われた。けどな、幸せになる権利までは奪われちゃいねぇんだよ。幸せになることを諦めんな」
「…………」
「牧野が俺のことを受け入れれば、今より絶対おまえは幸せになれる」
どうしてそんなこと言えるのよ! 目に気持ちを乗せ見上げた道明寺は、子供のように笑った。
「牧野が居れば俺は笑っていられる。牧野が居れば俺は幸せになれる。惚れた男のそんな顔見れたら、おまえだって嬉しいだろ? 今より当然幸せなはずだ」
得意気な笑顔が眩しくて、だからこそ苦しませたくなくて……。
「跡取りの問題だってある。社長にだって申し訳ない」
「俺のバースデーカード、ババァから預かってくれたろ? あれな……、道明寺家の人間なら、欲しいものは自分の努力で掴み取りなさい。私は司さんの幸せを支持します、だってよ。それだけじゃねぇぞ。あれからババァの奴、何度も俺に電話してくんだよ。変わったことはねぇかって。今までそんなことなかったのによ、牧野が気になって仕方ねぇらしい。今日会うって伝えてあるから、今頃ソワソワしてんじゃねぇ?」
社長の想いに込み上げてくるのを感じて、必死に悪足掻きをして抑え込む。
「心ない人達がいるかもしれない。その度に道明寺は守ってくれるだろうけど、いつか疲弊する」
「バーカ! 甘えんな」
「ッ!」
「そん時は、おまえも戦うんだよ。俺と一緒に。そもそもおまえ、大人しく守られてる女じゃねぇだろが」
意表を衝いた返しに言葉を失う。思ってもみなかった返答に戸惑うしかない。
「俺が辛そうな時は、おまえが全力で守れ。おまえが辛そう時は、俺が絶対に守ってやる。そうやって、二人で支えあっていくんだ。だからな、牧野?」
「…………」
「一緒に過去に挑もうぜ!」
「…………挑む?……」
「あぁ。どんな苦しい過去があっても、俺達は、そんなものに負けねぇで幸せになれんだよって、それを未来で証明しようぜ? 心ねぇ奴らがいたら、迷わずそん時は戦え。俺が一緒に戦ってやる。おまえ戦うの得意だろ?」
道明寺が一歩近付き距離を縮める。
「出来るだろ? おまえ、雑草のつくしだもんな! 今までだって一人で戦って来たんだ。二人ならもっと強くなれる。任せとけ! 戦うのは俺も得意だ。しかも俺は強い!」
氷のように固めたはずの覚悟は、まるで灼熱の太陽に溶かされるように、力をなくしていく。
溶けて溢れる感情は雫となり、やがて下瞼を乗り越え重力に負け、コンクリートに染みを作った。
それを悟られたくなくて俯いた私は、自分に問い掛ける。
築き上げた覚悟を壊しても良いのかと。もう我慢しなくて良いのかと。
そんな私の脳裏に浮かんだのは、『自分が一番正しいとでも思ってるわけ?』辛辣な言葉と、優しく笑った進の顔で、それが私の背中を押す。
「…………なにが強いよ」
「んだよ、最強に強ぇだろ、俺は」
「進の前で泣いたくせに」
「なっ…………! 進のヤロー…………」
「進がなに言ったか知らないけどね、あの頃のような気持ちはないって、何度も言ってるじゃない」
もう、溢れ出る感情に抗う気持ちは消え失せて、だから……、
「っとに、おまえは素直じゃねぇ」
「あの頃の気持ちなんてあるわけないじゃない! あの頃とは比べものにならないくらい、あんたが好き!」
有らん限りの声で叫んだ。
「どうしてそう頑な…………あ?…………牧野……今、なんて?」
聞き間違えじゃねぇよな?
「牧野?」
俯いて動かねぇ牧野の足元には、臨界点を超えたらしい涙が零れ落ちていた。
「牧野、触れてもいいか? 抱き締めても大丈夫か?」
確かめるように訊ねれば、牧野は、体当たりするように胸に飛び込んで来て、俺は柔らかく包み込んだ。
「…………もう降参…………道明寺、しつこいんだもん……もう嘘つけないじゃない」
「嘘なんてつく必要ねぇ。自分の気持ち誤魔化すほど無駄なこともねぇだろ」
「…………負けたくない」
嗚咽に抵抗するように、牧野がはっきり言う。
「だから、 あたしの抱えてるもの……一緒に背負って貰ってもいい?……一緒に挑みたい」
「当たりめぇだろうが。その代わり覚悟しとけよ? おまえにも背負わせるかんな、俺の愛情を。しっかり受け止めろよ?」
牧野は、もう限界だったのか、激しさを増して泣きじゃくる。
そんな牧野を強く抱き締めても良いのか、探るように少しずつ力を込める俺に、
「イヤじゃないよ…………道明寺なら……怖くないよ」
途切れ途切れに伝え、俺は二度と離さないように強く抱き締めた。
「大切にしてくれたのに…………守れなくて、ごめんね」
過去の傷を謝ってんなら、そんなもん意味ねぇ。
「大切なものならここにある。俺の腕の中におまえがいる。それ以上に大切なもんなんてねぇよ」
それから牧野は、喉が枯れるまでに泣いた。今まで一人で抱えて来たもんを吐き出させるように、気が済むまで泣かせた。
牧野の慟哭だけが響き渡り、それでも確かに俺は訊いた。
「道明寺、愛してる」と。
しゃくり上げる中で漏らされる小さな声を、俺は強く強く胸に刻み付けた。
────────あれから二年。悪夢の時も時効を迎えた。
澄み渡る青空に浮かぶ太陽が眩しい光を放ち、新緑は風に揺れる、そんな休日。
教会の大階段の下には、互いの家族を始めとする支えてくれた多くの人達が、フラワーシャワーの時を待ち並び立つ。
そこには、会わなくとも心まで途切れちゃいなかった仲間達もいる。
何も言わなくて良い。二人のその笑顔があればそれで良いと、知らねぇ時間を探ろうとはしなかった。
そう言った友人達もまた、偽りのない笑顔に満ちていた。
俺達はこの二年。過去に挑む準備として、カウセリングにも通い一つ一つを乗り越えて来た。
そして今日。
漸く、長い旅路の一歩を刻む。
合図のように、大きな鐘の祝福の音が響き渡った。
それは、悪魔や不幸を追い払うと言われている、カリヨンの鐘。
その音に導かれるように、真っ白なドレスを纏った迷いない笑顔のつくしと一緒に、新たな一歩を踏み出す。
未来を創りに、幸せの答えを探しに、二人手を取り合い、時に戦いながらも歩き続ける。
暗い過去だけじゃない、まだ見ることのない幸せが待っていると信じて…………。
「つくし、行くぞ!」
「うん」
だから俺達は行く。
今を生き、幾つもの今日を重ねて生み出す、明日よりもずっとずっと遥か遠くの──────────────その先へ…………。
【 その先へ Fin. 】

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【その先へ】これにて完結です。
苦しく辛い展開のお話にも関わらず、最後までお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
後日、改めて御礼とあとがきをアップさせて頂きたいと思います。
最後にもう一度……。
読んで下さいました全ての皆様に感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。