その先へ 55
午後になり、調査部から蓮見田に関しての新たな情報が入ってきた。
それを受けても副社長は何も語ろうとはせず、手元のファイルに目を走らせている。
以前から用意してあったそれは、蓮見田に関する全ての詳細が書き込まれた調査書で、中島海が訪れる夕方まで、昼食を摂ろうともせず、ただ黙々と読み込んでいた。
「副社長、中島さんがお見えになったようです」
「応接室に通せ。ここには入れるな」
「畏まりました」
「西田、おまえも同席しろ」
「はい」
二人きりにはなりたくはないのだろう。
以前にも、副社長に抱きつく暴挙に出たお方だ。
隙を与えたくもなければ、自身も怒りで何をするか分からず、自制の意味もあるのかもしれない。
秘書課から中島海が応接室に入ったと連絡を受け、たっぷり10分は待たせただろうか。
漸くファイルを閉じ立ち上がった副社長は、応接室に向かうべく歩を進め、私もその後ろに続いた。
「待たせて悪かったな」
「う、ううん」
応接室に入った副社長は、中島海の対面のソファーに座ると、指でネクタイの結び目を緩ませ、足を組み、右腕を背もたれに乗せて優雅に座った。
「元気だったか?」
初めてだろう。
こんな風に中島海に対して、副社長の方から声を掛けられるのは。
しかも、副社長の口元は弧を描いている。
その笑みを見て、中島海の顔に赤みが差す。
「元気じゃなかったかも。あたし、ずっと道明寺のこと心配だったから。ずっと道明寺くんのことばかり考えてたの」
「そうか、悪かったな。俺も反省したんだ」
「いいの! あたしこそ、慰謝料払ってなんて、思ってもないこと言っちゃって……あれは本気じゃなくて、道明寺くんの傍にいられないのが悲しくて、つい……。
あたしは、道明寺くんのこと本気で考えてるよ? 道明寺くんにも、あたしのことだけ見て欲しくて……」
「あぁ、分かってる。分かってるから心配するな」
「分かってくれて嬉しい。こうして傍にいられるだけで、本当に嬉しいの」
副社長のいつになく優しい振る舞いに気を良くしたのか。中島海は、甘い声を出し、自分を最大限可愛く見せようとしているのだろう、少しだけ首を傾げ、上目遣いをしながら笑みを作った。
しかし、彼女は気付いているのだろうか。
副社長の口調が、いつもよりゆったりとしたリズムで刻まれていることを。
口元を引き上げながら、黒い影を宿した瞳の奥が、全く笑っていないことを。
「おまえの優しさに、俺もやっと気付いたんだ。メールも俺を思って心配して送ってくれたんだろう? 全部、分かってる」
「うん。信じて貰えないかもって思ったけど、居ても立ってもいられなかったの。つくしちゃんと蓮見田さんが一緒にいるところ見て、つくしちゃんが裏切ってるって、道明寺くんに早く知らせなきゃと思って……」
「そうか」
「うん。それにね?…………言いづらいんだけど…………」
もじもじしながらも、牧野さんの過去の傷に触れようとしているのが分かる。勿論、副社長も分かっているだろう。
言いづらいと口にしながら、結局は言おうとするおぞましさ。言わないという選択肢は、まるでないようだ。
牧野さん本人にまで言った女性なのだから、牧野さんの価値を下げるためならば、口にするのに抵抗を感じるはずもない。
副社長の気持ちが揺らぐことなどないのに、それに気付かない愚かさ。
寧ろ、自らの価値を救いようのない領域まで落としてるとも知らず、言い難そうに溜めを作る演出は、滑稽とも、哀れとも言えた。
「あのね……実は、つくしちゃんは、」
「俺の為に蓮見田から聞き出してくれたんだろ?」
最後まで言わせず副社長が言葉を被せた。耳にもしたくないのだろう。
突然遮られた上、事情を知ってる様子に、え? と、小さく驚く中島海には構わず、副社長は続ける。
「蓮見田がおまえに近付いて、俺のことを聞き出そうとしてたのも知ってる」
「あ、でもあたし、何も言ってないよ? あたしには、道明寺くんを裏切るような真似なんて出来ないもん」
何をぬけぬけと、と思うが、その考えは直ぐに打ち消した。
中島海は、本気で裏切ったつもりなどないのだ。それ以前の問題で、副社長の記憶障害が、会社に世間に、どれだけの影響を与えてしまうのか、働かせるだけの思慮を持ち合わせていないだけの話だ。
そういう配慮は出来ないのに、"あたしには" と、すかさず付け足し、誰かと対比させるように自分を持ち上げる狡さだけは持ち合わせているのだから、関わりを持った人からすれば堪ったものじゃない。
「蓮見田さんには、本当に何も言ってないよ? ただ、つくしちゃんのことが気になって……、道明寺くんに何かするつもりじゃないかって……。
だから、蓮見田さんに勇気を出して、つくしちゃんのこと聞きに行ったの。
道明寺くんも、もしかしてつくしちゃんのこと知ってた?」
「あぁ」
「そうだったんだぁ。まさか、つくしちゃんの身にそんなことがあったなんて驚きだし、本当につくしちゃんは可哀想だと思うけど……。でもやっぱり、そういうことがあると卑屈になったり、屈折しちゃうんじゃないかなぁ。だから、蓮見田さんとも密会して、平気で道明寺くんのことも裏切れちゃうのかも」
中島海の口は滑らかだった。
副社長の真意を探らず、人の上部だけを疑いもせずに受け入れる様は、素直と言うべきか。いや、やはり愚かなだけだ、と結論づける。
そんな中島海に「ホントに悪かったなぁ」副社長は低い声で、益々ゆったりと話始めた。
「本当に申し訳なかった。そこまで俺のことを考えてくれてたとはなぁ。
おまえの望み通り、これからは俺もおまえをちゃんと見るよ」
中島海の顔に、花が咲いたような笑みが広がる。
「おまえの面倒は全部俺が見る。住む場所も用意してある」
「そんな、そこまでして貰わなくても……」
言葉とは裏腹に、瞳は輝きに満ちていた。
「いいんだ、遠慮するな」
副社長は立ち上がり中島海に近付くと、一段と口の片端を引き上げ笑みを作った。
背筋が凍ったのは私だけだろう。
何も気付かない中島海は、自分が座るソファーの肘掛けに副社長が腰を下ろすと、うっとりするように見上げた。
「だってそうだろ? 全部、俺の為にやってくれたんだろ? 俺の記憶のこと、ぺラッと敵に教えちまったのも、元々は俺の為ってやつなんだよな? お陰で俺は、蓮見田に記憶のことで脅されたけどよ」
「え?」
中島海がキョトンとした顔付きに変わる。
「おまえは、俺の情報を簡単に敵に渡したんだよ。まぁ、いい。てめぇの空っぽの頭じゃ気付いてねぇんだろうけどよ、それも俺の為って大義名分なら仕方ねぇ。
だったら俺も、おまえにお礼しなきゃなんねぇわなぁ?」
ここに来て、漸く雲行きの悪さに気付いたか。中島海の顔が一気に青褪める。
「えっ……あ、あたしは……、」
「てめぇが俺の情報を流した謝礼は一万だったって? 随分と蓮見田に見くびられたもんだな? てめぇには、利用する価値もねぇって思われたんだろうが、それにしてもケチ過ぎんだろ。
俺は蓮見田みたくケチじゃねぇからよ。おまえにもっと金を使ってやるよ。
この先、ずっとおまえには監視をつけてやる。いつまた誰かに優しさを売って回るか分かんねぇからなぁ、その為の監視だ。監視する奴等の人件費だって俺持ちなんだから、蓮見田に比べりゃ上等だろ」
「ま、待って道明寺くん! 違うの! あたしの話を訊いて?」
「何も言わなくていい。さっきから全部分かってるって言ってんだろうが。何回も言わすな。
それにな? それだけじゃねぇぞ? また、おまえが優しさを売りに回ったら、おまえには住まいも用意してある。真っ白い部屋で食事も三食付き。柵があって外には出らんねぇが、面倒見てくれる奴等もいる。そいつ等になら、好きなだけ何でも話せよ。奴等も幾らでも訊いてくれんだろ。同情しながらな。ここがイカれて可哀想だってな」
副社長は、そう言いながら、自分の米神辺りを人差し指で二度ほど突いた。
「あ、その前に薬漬けにでもされて黙らされるかもしんねぇけどな」
副社長からは、クッ、と笑い声が漏れる。
それは、凍てつくほどの薄笑いで、中島海は肩を震わせた。
副社長の示す住まいが、閉鎖された病棟だとも理解したのだろう。
「…………っ! そ、そんなこと、」
「出来るわけねぇと思うんなら、今すぐにでも送り込んでやろうか?」
「い、いや……や、止めて……怖いこと……言わないで」
「俺もよ、ホントはそんなことしたくねぇんだよ」
薄い笑いを消さない副社長は、手を伸ばし中島海の首を掴むと「ひっ!」と、掴まれた本人からは小さな悲鳴が上がる。
「そんなことしなくても、ここでこの首へし折っちまえば済むもんな? 一分も掛からずに片付けられんのによ。かったりぃったらねぇよ。
それをギリギリ留めてんのは、俺の女が悲しむからだ」
恐怖で戦く中島海は、口をパクパクさせながらも「つ、つくしちゃん?」辛うじて声を絞り出した。
「他に誰がいんだよ。
知らねぇだろうから教えてやるけどな、脅迫してきた蓮見田から俺を守ってくれたのは牧野だ。自分の傷をも武器にしてよ。そんな大切な女に、おまえは昨日、更に傷口に塩を塗り込む真似してくれたみてぇだな? ペラペラとその軽い口でアイツの傷に触れやがって」
うっ、と呻き声が上がる。
「おっと、悪りぃ。無意識に力が入っちまったな。おいこら、逃げんなよ。またうっかり力入れちまうだろうが。まぁ、殺したら証拠を消せば良いだけの話だけどよ。…………おい、西田」
「はい」
「ここで何が起きても、牧野にはぜってぇ言うなよ? ここで見たことは墓場まで持ってけ」
「はい。承知しました」
そうか。私を立ち会わせたのは、恐怖を煽らせる片棒を担がせるためか。
どうやら副社長は、徹底的に脅しにかかるつもりらしい。恐怖を植え付け、二度と自分本意で牧野さんの傷を抉らせないため、触れ回らせないために。
もしも本気で仕留めるつもりなら、何も言わず、誰の言葉にも従わず、遣る時は本当に遣る。
それをしないのは、さっき副社長が言った通りなんだろう。牧野さんの存在が、副社長にブレーキをかけている。
完全に恐怖を植え付けられた中島海は、見る見る内にガタガタと体を大きく震えさせ、
「ご、ご、ごめん、なさい」
苦悶に眉を寄せながら、何度も途切れ途切れの謝罪を繰り返した。
そんな中島海を見下ろしながら、副社長は、一言一言に重みを乗せるようにスローペースで話す。
「謝るな。どうせ信じらんねぇし、俺も悪りぃ。こんな馬鹿女を近くに置いたのも、野放しにさせたのも俺の罪だ。それにこれ以上、自由にさせて世間におまえの馬鹿さ加減を笑われるのは、俺も忍びねぇしよ、不憫だろ。
だからな? これはおまえの為だ。
監視をつけるのも、病院送りにされるのも、うっかり俺に殺されたとしてもだ。それは全部おまえを思っての俺の優しさだ。
優しさってのは、こういうことで良いんだろ? おまえのことを思ってんなら、何をやっても良いんだよな? おまえが教えてくれたんだよ、相手の気持ちに構わず押し付けんのが優しさだってよ」
「っ…………お、お願い…………た、助けて」
掠れた弱い声だった。
苦しいと言うよりは、恐怖の前では出せる声量も限られているのだろう。
首に手を宛がえている副社長は、力を加減してるはすだ。
「いいか? おまえには一生監視をつけてやる。警察に言っても無駄だ。警視総監とはお友だちだからな。どこへ逃げようが、どこまでも追いかけてやるよ。俺がくたばるか、おまえが死ぬか、その日まで永遠にだ」
副社長の声が凄みのある低音に変わり、中島海に迫る。
「これから先、牧野のことを何か一言でも誰かに言ってみろよ。おまえから何もかも奪ってやる。おまえの人生はそこで終わりだ。終わりたくなかったら大人しくしとけ。言ってる意味分かるな?」
震えの止まらない中島海が、小刻みに首を縦に振った。
「俺はおまえを見てる。おまえの望み通り、一生ずっとな。忘れんじゃねぇぞ」
副社長が中島海から手を離した。
離した自分の右手を見ながら顔を顰めた副社長は、まるで汚れものでも見るような、うんざりとした目をしている。
その隣では、あまりの恐怖に声が出ないのか、中島海は震える自分の傷を体を抱き締めながら、涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
「行くぞ、西田」
「はい」
立ち去り際、副社長はジャケットの胸ポケットから取り出した財布から、一万円札を床に落とした。
「ここまで来て貰った今日のお駄賃だ。おまえの価値は一万だったな。その価値すらおまえにあんのか俺には分かんねぇけど。もしかしたら、俺もケチなのかもな」
小馬鹿にして鼻で笑った副社長は、振り返りもせず部屋を後にした。
「西田、あの女に分かるように監視をつけろ。いつでも見ているって分からせるように、気付かれるような監視をな」
「はい」
それきり口を開かなくなった副社長と共に執務室の前まで辿り着く。
執務室のドアを開ければ、そこには、
「おぅ、帰って来たか。待たせて貰ってたぞ」
美作専務がソファーで寛いでいた。
チラッと美作専務に視線を向けただけの副社長は、無言のまま洗面へと向かい、念入りに手を洗い出した。
それが終わるとデスクへ行き、またファイルを捲り出す。
「何だ、そんなに必死で手洗って。虫でも触ったのか? それより司。ちゃんとメシ食ってるか?」
何も言わない副社長に代わり、私が答える。
「今日一日、何も召し上がってはおりません。恐らく昨夜も」
美作専務は、聞かせるような溜息を吐きながら、肩を竦める。
「だろうと思ったよ。ほらこっち来い。鰻重の差し入れだ」
ソファーの前のテーブルには、盆の上に置かれた、お重や香物、お椀にポットまであった。
呼び掛けられた本人は、顔すら上げない。
そんな副社長にも慣れている美作専務は、真っ直ぐに視線を向けた。
「メシが喉通らない気持ちも分かる。けどな、そんな風におまえがボロボロになっちまうんじゃないかって、牧野は心配したからこそ、俺におまえを託したはずだぞ?」
副社長が視線を上げる。
「アイツはな、13年前に司を一人にしたこと後悔してんだよ。死んだように生きさせるきっかけを作ったって…………俺達も同じだ。
司、これ以上、牧野に心配掛けて後悔させるな」
視線を泳がした副社長は、軽く息を吐き出すと静かに立ち上がり、大人しくソファーへと移動し腰を落ち着かせた。
「ほら、食え」
美作専務はお重を副社長に差し出し、ポットの中身をお椀に注ぐ。
中身は肝吸いだったらしい。
「西田さんのもあるぞ」
「え? 私のもですか?」
「司の右腕は体力勝負だ。西田さんにも栄養つけて貰わないとな。倒れられたりでもしたら周りが困る。特に今は俺が」
笑顔でそう話す美作専務の気遣いに、礼を伝え頭を下げる。
「…………西田も座って此処で食え。元から世話好きな男なんだから、遠慮しなくていい」
やっと副社長が重たい口を開いたかと思えば憎まれ口で、今度は、詫びのつもりでもう一度頭を下げてから、美作専務の隣に座らせてもらう。
「世話好き言うな! でも待てよ? 牧野もそういう目で見てたから俺に連絡してきたのか?」
「それ以外に何がある」
「おまえら、揃いも揃ってふざけんなよ? 」
そう言いながらも、美作専務は優しく目尻を下げていた。
男三人でテーブルを囲む。
珍しい組み合わせでの食事は、合間合間に美作専務が会話を差し込みながら進んで行った。
「昨夜は、牧野に何か言われたか?」
「…………自棄になるな、牧野を忘れた罪滅ぼしだと思って約束しろ」
「そう言われたのか? また随分と牧野もエグイとこ衝いてくんなぁ。つーか、だったら約束は守れ! そしてもっと食え!
おまえがちゃんとしてなきゃ、今度牧野に会った時、俺が飛び蹴り食らうだろうが。そもそもなぁ、俺は猛獣使いは卒業したんだよ。二代目は牧野のはずだ。だから臨時を務める俺のためにも、早く連れ戻してくれよ?」
副社長も時折頷き返して、穏やかに時間は流れていった。
これも副社長を想って、美作専務に連絡を取ってくれた牧野さんのお陰だ。
その牧野さんは今、誰と居るのだろうか。
一人で苦しんでいるのではないだろうか。それこそ、食事も摂られていないのではないだろうか。
拭えない心配を胸に置きながら食事を終え、副社長達にお茶を出し、テーブルの上を片付けている時だった。
副社長のデスクにある内線が鳴る。
「はい、副社長室」
秘書課からの連絡に、慌ててソファーに座る副社長に視線を飛ばす。
「副社長、牧野さんの代理人である弁護士の方がお見えになってるそうです。どうなされますか?」
「直ぐにここに通せ」
「はい」
秘書課に指示を出し弁護士を待つ。
牧野さんの様子を知ることが出来るかもしれない。
私だけではなく、副社長も美作専務もそわそわしているようだった。
ノックが響き、秘書課の一人が扉を開ける。
「お連れ致しました」
そう言って後ろに下がった秘書の背後から表れた人物に、副社長は目を瞠り、勢い良く立ち上がった。
「っ!…………おまえ、弁護士だったのか!」
「はい。牧野つくしの代理人、牧野進です」
人の良さが滲み出た牧野さんの弟は、愛嬌のある笑みを浮かべて会釈した。

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