その先へ 54
着替えのスーツを片手に、ホテルの部屋のベルを鳴らす。
副社長が邸には戻らず、この部屋で一晩過ごされたことは、SPから報告済みだった。
牧野さんもまた、副社長との話し合いを一時間も満たずに切り上げ、SPの一人が自宅まで送り届けたと報告を受けている。
その報告を受けた時点で、副社長にとって思い通りの会話が出来なかった、と容易に察することが出来た。
それにより、副社長の様子がどうなっているのかも、手に取るように分かった。
副社長から応答はなく、スペアキーで部屋の中へと入る。
「失礼致します」
歩みを進めた先は、まるで台風の直撃でも受けたかのように、備え付けられてる様々なものが本来の形を無くし、足の踏み場もないほどに散乱していた。
「おはようございます、副社長。先ずは、シャワーを浴びてお着替えになって下さい」
副社長は、大きなベッドの角に座っていた。
包帯から血の滲んでいる手を組み、下を向き、ジャケットだけを脱いだ昨日と同じ服装は、ボタンが弾け飛んだのか、シャツからは胸元が覗き見れて、乱れている。
「…………西田」
「はい」
「調査部に、これまでの詳細を報告をさせろ」
顔を上げ私を見た副社長の目は、充血し、瞼は腫れ上がっていた。
「既に連絡を入れてあります。副社長が出社次第、調査部の佐野主任が報告にあがる手筈になっております」
「そうか。分かった」
立ち上がった副社長は、散らばるガラス片を踏みつけながら、バスルームへと向かう。
きっと昨夜は、一睡もしていないのだろう。あんなに瞼が腫れたお姿も、これまでに見たことがない。
当てどころのない怒りをこの部屋で発散し、牧野さんを想い涙を流され、長い夜を一人でお過ごしになられたに違いない。
一夜にしてやつれた様にも見える副社長の背中を見送りながら、副社長と、そして牧野さんの未来が、一つに重なる道筋が見付かれば良いと、心の底から願わずにはいられなかった。
***
「副社長、事後報告となり、申し訳ございませんでした」
調査部の佐野主任が頭を下げる。
「牧野の指示だろ。気にしないでいい。座ってくれ」
会社に出社し間もなくして、佐野主任は執務室に来た。
今日の副社長のスケジュールは、大幅に変更してある。
副社長のダメージを考えれば、通常通りに事が進められないのは想定済みだった。
それに牧野さんに関して、このままにしておくとも考えられない。
何より、副社長のやりたいようにやらせるよう、楓社長からのご指示もある。
自分が日本にいる間は、副社長の代わりを務めるからと。
「順を追って全部話せ」
副社長に促され、居住まいを正した佐野主任は、
「はい。昨年より中島海さんをマークしておりましたが、今年の仕事始めの日、蓮見田側から中島さんに接触があり、40分ほど話をされております」
手帳を見ながら、時系列を辿り詳細を説明し始めた。
それは、一月五日。
都内のホテルラウンジから始まる。
声をかけられ、戸惑いながらも蓮見田に簡単に付いていった中島海は、副社長について些細なことでも良いから教えて欲しいと頼まれ、何も話すことはないとしながらも、結局は饒舌に語ったらしい───自分がどれだけ副社長を想っているかということを……。
孤独な副社長を放っては置けずに、これまでずっと傍で支えてきたと話し、今は、誤解されているだけで、副社長に対する想いに変わりはないと……。
こうなったのは、牧野さんに騙されているせいで、そんな副社長に心を痛め、誤解を早く解き、これからも傍に居たい……そう、中島海は語ったらしい。
「牧野さんに関しましては、高校時代の副社長の恋人であり、副社長が記憶喪失になって、牧野さんだけを忘れたことを、未だに恨んでいるから何をするか分からない。寂しい女性なんだと話されまして、調べるなら牧野さんを調べた方が良いと助言をしておりました。
副社長の記憶につきましては、その情報を流してしまっていると言う自覚は、一切、なかったように思います」
自分が全て中心にあるあのお方は、自分を美化し、自分を主役にするために事実を脚色し、挙げ句、記憶喪失のことを無自覚で話すほどの幼稚さか。
その幼稚さが、牧野さんの傷を抉る発端になったのかと思うと、昨夜同様、また怒りという感情が芽生えてくる。
副社長も当然同じ思いだろうが、冷静を保とうと心掛けているのか、腕を組んだまま目を閉じ、ただ黙って耳を傾けているだけだった。
「それと捕捉ですが、中島さんは、謝礼として蓮見田側から一万円を受け取っております」
…………僅か一万。
仮にも副社長の恋人だと思われていた方が、一万ばかりの謝礼とは、蓮見田に中島海は馬鹿にされた格好だ。
蓮見田側にとって、もう用なしと判断された結果だろう。
そんな事にも気付きもせずに、易々と一万を受け取るとは……。呆れて言葉も出ない。
「中島さんが蓮見田と別れて直ぐ、中島さんと蓮見田が接触したこと、それにより、蓮見田側に副社長の記憶喪失の情報が漏れたことを牧野さんに報告しました。
牧野さんからは、中島さんの調査続行と、それからもう一つ。蓮見田側を徹底的にマークをするよう依頼されました。必ず他にも接触を図るはずだからと。
それは、牧野さん自身や反副社長派の取締役の可能性が高いと予想されておりました」
想像通りだった。
昨夜の流れからして察した通りに、牧野さんは、蓮見田と中島海の接触があってから直ぐに、警戒を強めていたのだ。
目を瞑ったまま何も語ろうとはしない副社長を、佐野主任が窺うように見る。
これでは進めにくいだろうと、佐野主任がスムーズに話せるよう、間に口を挟んだ。
「その時に、内密にするよう、牧野さんから重ねて指示があったのですね」
「はい。打ち返せるだけのカードは持っているから、と。だから今は、副社長にも知らせず動いて欲しいと頼まれまして。
その後、直ぐに蓮見田は牧野さんを調べ始め、それを追う内に私も、牧野さんが言うところのカードの意味を知り、牧野さんの意見を優先すべきだと判断させて頂きました」
カード、それは、牧野さんの過去の傷に他ならない。
自らの傷を、もうこの時から切り札として考えていたのだ。恐らく蓮見田社長が、この傷を狙ってくるだろうと予測して、逆に手札としたのだろう。
「自分に蓮見田が接触するような事があれば、遠慮なくマークして構わないとも申されておりました。事実、蓮見田守は、以前牧野さんが勤めていた会社の同僚の名を語り、電話をかけ接触を図りました。そして、牧野さんと会うことになったのは、既にご存知の通りだと思います」
「その時のだいたいの会話は、牧野さんが録音されたものを我々も訊いています」
「はい。ほぼ、蓮見田守の一方的な会話に対し、牧野さんは、言葉少な目に副社長の記憶のことをお認めになりました。
蓮見田が帰って暫くしたのち、牧野さんから私に電話があり、裏切っていると思えば直ぐに副社長に報告して構わないと言われましたが、蓮見田を油断させるための罠を牧野さんが仕掛けられたのだと思い、そのまま内密に調査を続行し、川島常務の証拠も掴みました」
油断させるための罠とは言え、牧野さんにとってはどれほど勇気がいったことか。
それでも迷いなく遂行してしまう牧野さんの信念に、13年もの覚悟を見る。
悪意ある戦いを挑まれれば逃げず、しかし、副社長を思えばこそ、ずっと傍にいる選択肢は早々に外したのだろう。
その覚悟を、副社長はきっと崩しにかかる。いや、崩して頂きたい。是が非でも。
それが出来るのは副社長しかいないと、私は信じて疑わない。
「中島海の動きはどうですか? こちらには、牧野さんと蓮見田守の写真を送ってきましたが」
牧野さんと蓮見田守が会っていた写真を送り付けてきた中島海だ。大人しくしているわけがない。
「中島さんは、蓮見田側が牧野さんを調べたのか、又、調べたのならその結果はどうだったのかが気になっていたようです。
自ら蓮見田側に連絡を取ろうとしていていたみたいですが相手にされず、牧野さんと蓮見田守が会ったあの日は、蓮見田守を中島さんが尾行しているのを、他の調査部員がマークしていました。
牧野さんと蓮見田守の写真を撮り、今度は、それを持って蓮見田社長にコンタクトを取り問い質しています。
蓮見田も面倒だったのでしょう。牧野さんが通っていた集会を教える代わりに、今後は連絡を取らないよう、邪険にあしらいました。その集会を調べて、中島さんは牧野さんのことを知ってしまったようです」
…………知ってるのか、中島海も牧野さんの傷を。
集会とは、昨夜、会話のテープの中で語られていた、被害者女性達が主宰するサークル的なもののことだろう。
それを知ったから、だから伝えたいことがあると、わざわざメールをしてきたのか。
二人を引き裂く為には、牧野さんの深い傷を明かすことも躊躇わず、同じ女性でありながら慮る気持ちの欠如に、怒りが更に上乗せされる。
「それから……、昨日ですが、牧野さんと中島さんは会われております」
「なに?」
思わず声が漏れ出た。
予想もしなかった驚きは副社長も同じだったようで、閉じていたはずの目を開けられた。
「昨日、中島さんは、会社の前にて待ち伏せをしておられました。そこへ、蓮見田との面会の為にメープルに向かう牧野さんが出て来られまして、中島さんが声を掛けられました」
説明する佐野主任を食い入るように見る副社長の様子から、昨夜、牧野さんとお二人でお話になられた時も、この話は訊かされてなかったのだろうと想像出来る。
「時間もなかった為、牧野さんも断りを入れている様でしたが、中島さんが引かなかったため、車でお送りしますと、咄嗟の判断で牧野さんに声を掛け、お二人には車内で話してもらうことにしました」
機転を利かせてくれたのだろう。
寧ろ、二人きりにさせるのを避ける為にも良い判断だ。
「お二人の会話を録音してあります。お聞きになられますか?」
佐野主任はボイスレコーダーをジャケットのポケットから取り出した。
「流せ」
副社長が短く指示を出し、ボイスレコーダーから二人の会話が流れ始めた。
『用件はなんでしょうか。時間がないので手短にお願いします』
蓮見田との面会でもそうであったように、牧野さんの毅然とした声だった。
『えーっと……あのね? 凄く言いづらいんだけど……』
『こちらの方は信頼の置ける方なので、遠慮なくどうぞ』
佐野主任を指しての発言だろう。
秘匿である立場の調査部員ゆえに、その名前を明らかにするのは避けたいところだ。
その判断が出来る牧野さんと、対等に渡り合えるとは到底思えない中島海の幼稚な声が続く。
『あのね……あたし、つくしちゃんが心配で…………』
『心配……ですか』
『うん…………その……つくしちゃんがね、襲われたって知って……』
…………言ったのか、本人に。
心配という、名ばかりの偽善を振りかざして。
『そうですか。それでしたら心配には及びません』
『あの……ごめんね。もしかして怒らせちゃったかな。でも、でもね? あたし本当に心配で……。
つくしちゃん大丈夫? 辛かったでしょう? 恐かったよね? 私も女だから分かるよ?
好きでもない人にいいようにされるなんて、考えただけで気持ち悪いもん。本当にゾッとしちゃう』
そのゾッとする傷を敢えてなぞる無神経さ。
女として本当に気持ちが分かるのなら、こんな事は言えないはずだ。
どんなに柔らかく話してるつもりでいても、言葉からは思いが滲み出てこない。
中身が空洞化した軽さだけが透けて見え、人の心を掴むはずもない。
『つくしちゃん? あたしね、つくしちゃんが苦しんでるなら、力になりたいなぁって思ってるの。
ほら、誰にでも話せる話でもないじゃない? でも、一人で抱え込むのは辛いでしょ? だから、あたしには何でも話してね?』
『…………』
『あたしに出来ることなら、本当に何でもしてあげたいと思ってるんだよ? でもね…………?』
『何でしょう』
『つくしちゃんを思うからこそ、言うんだけど……』
押し付けがましい偽善の薄っぺらな言葉を前置きした時点で、この後に続くのは自分本意な話なのだろうと予想がつく。
『ほら、道明寺くんは立場のある有名な人じゃない?だからその…………やっぱり誰でも良いってわけにはいかないと思うの。
つくしちゃんのこと、道明寺くんに知られる前に、距離を置いた方が良いんじゃないかなって。
あとで傷つくのは、つくしちゃんだと思うから』
『分かってます』
落ち着いた声だった。
『そんなことは私が一番分かっています。副社長には、相応しい人と幸せになって欲しいとも思っています。でも……、』
落ち着いたまま、しかし次には、はっきりと中島海に線を引いた。
『それは、あなたでもない』
『え? つくしちゃん、ごめんね。やっぱり怒ってるんだよね。こんなこと言ったから怒らせちゃったのかもしれないけど、でもね、これはつくしちゃんの為でもあって、』
『あなたの言う"誰かの為"は、いつだって根底に"自分の為"が隠れている。副社長には、そういう人ではない誰かと、幸せになって欲しいと願っています。
車を止めて頂けますか? ここからは歩いて行きますので、中島さんをお送りしてあげて下さい』
話の打ち切りだ。
もう、これ以上は無意味だと思ったのだろう。
『ちょっと待って、つくしちゃん』
『時間がないので、これ以上はごめんなさい。それに、何も心配することはありませんよ。私は今日付けで退職しますから。
あなたと会うことももうないと思いますけど、どうぞお元気で』
会話は終わり、ボイスレコーダーを佐野主任が止める。
じっとしたまま動きのない副社長に、「報告は以上になります」と言った佐野主任は、最後に付け足した。
「牧野さんに関しましては、調査部でも私と、信用の出来る私の部下の一人の計二人しか知りません。勿論、他言も致しません」
「佐野、感謝する。頼む」
副社長からお礼を言われ、恐縮しながら深々とお辞儀をし、佐野主任は部屋を後にした。
ソファーからデスクの椅子へと移った副社長は、背後の窓へと椅子を回転させ、背を向けた。
「西田」
「はい」
「中島海と直ぐに連絡を取れ。俺が会いたがってる、そう伝えろ」
感情の色を探れない、温度のない副社長の声だった。
「畏まりました」
背中を向けているために、その表情は窺い知れないが、私には分かる。
怒鳴り散らすような怒りを赤い炎とするならば、今は静かに燃える青い炎だ。
内部で静かに燃えたぎらせる高温の怒り。
それは、分かりやすい怒りよりも遥かに、残忍さを秘めた冷酷な怖さを漂わせていた。

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