その先へ 53
───とうとう、こんな日が来てしまった。
道明寺に待つよう言われたメープルの高層階の一室で、窓からの景色を眺め見る。
宝箱をひっくり返したように煌めく都会の街を見下ろしながら浮かぶのは、13年前のあの日だった。
道明寺と海ちゃんの、見たくなかった姿を目の当たりにした、13年前。
泣いて感情を露にして、勝手なことを吐き捨てて。
そして、逃げ出した私は……、私は────────────あの日、悪夢を見た。
絶望の中、彷徨い歩く途中に見つけた古いビル。
錆び付いた外階段を、一段、また一段と上った先。屋上に立った私は、全てをゼロにするつもりだった。
大切な思い出も、先の見えない未来も、諸共に葬ってしまおう。その思いに迷いはなかった。
前田先生に会うまでは……。
それからは、絶望と葛藤しながら模索し続けた、生きる道を。
少しだけ前を向けるようになり、その生きる道を見つけたのは、東京を離れて暫く経ってからのことだ。
武器を持とう。戦える強さになる、弁護士と言う名の武器を。
でも、その武器は使えなかった。
武器を得ても尚、戦えなかった私は、ただひたすらに願うしかなかった。
知らない誰かでも、神と言う存在でも、どちらでも構わない。すがりたい。道明寺の幸せを託せる誰かに。
─────どうか記憶を失ったまま、何も知らないまま幸せになって、と。
それはもう祈りにも近い願いだった。
願うと同時に、蓮見田側の動向にも、何時だって注意深く目を向けてきて……。
思えば、それだけの人生だった。
いや、それがあったから生きて来られた、と言う方が正しいのかもしれない。
彼の幸せを願い、蓮見田を注視し続けた日々。
このままで良い。何も起きさえしなければ。
だけどもし、私が危惧する何かがあれば、その時は迷わない。
何があっても戦うと心に誓って……。
その決意を一段と固めたのは、道明寺と再会してからだ。
投げやりに生きないで! 幸せになって! と、願いながら道明寺の側で働くようになったのに、海ちゃんの姿を見た時には動揺し、二人が抱き合っている所を見れば、道明寺に八つ当たりをしてしまう身勝手さ。
道明寺の幸せを願う気持ちに嘘はないのに、あの二人の光景は、トラウマのあの悪夢が蘇ってしまって、感情のコントロールが出来なかった。
そんな私を責めもせずに、道明寺は、初めてだろう自らで買ってきたドリンクを差し出してくれて……。
何も変わっていなかった、本質的な優しさ。
そんな優しさの一端に触れ、自分の心が回復していくのが分かった私は、この人だけには迷惑を掛けちゃいけない。何かあったら絶対に守る、戦う、そう一段と決意を固めた。
その決意だけは、今日まで一度だって揺るいだことはない。
どんなに道明寺に気持ちを伝えられようとも、それだけは揺るがなかった。
代わりに溢れ出てくるのは、罪悪感だ。
道明寺に愛される資格など、もうないのにって。道明寺の想いに触れる度に、苦しくて、苦しくて……。
何度、憎しみの黒い塊に呑み込まれそうになったか分からない。
もしあの時、あんなことさえなければ、そしたら、私は今も、あの大きくて強く優しい手を掴むことが出来たかもしれないのに。そう思う度に募る憎しみ。
果てには、道明寺と別れていなければ……、無防備に歩いていなければ……、と、何度となく分岐点を色んな『if』でなぞり、結局は、消すことの出来ない傷を持つ自分に絶望する。
そんな自分を立て直す術は、いつだって決まっていた。
憎しみや絶望に取り込まれてはいけない。感情まで乗っ取られたら、体だけじゃない。気持ちまで犯されたと同じだ。
気持ちまで奪われたりなんかしない。それがあの犯罪への唯一の抵抗だと、黒い塊に呑み込まれるギリギリのところで抗い、自分で自分を叱咤しここまで来た。
この先も道明寺の傍に居れば、何度となくこうして苦しい思いに苛まれる。
それでも、道明寺の傍を離れようとは思わなかった。そんな理由で辞めたりはしたくなかった。
私が会社を辞める時は、道明寺に不必要とされるか、或いは、私が戦わなければならなくなった時だけだ。
そして今日。その戦いの日はやって来てしまった。
戦う日なんて永遠に訪れなければ良いのに、私の願いはいつだって叶わない。
相手と戦うのに躊躇はないけれど、道明寺を苦しませてしまうことだけは…………、考えるだけで無意識に手に力が入る。
苦悶する道明寺の顔が浮かび、都会の景色を映す窓に、気付けば手を叩きつけていた。
せめて、記憶が戻らなければ……、私なんかを想ってくれなければ……、道明寺をこんなにも傷つけてしまうことはなかったのに。
懲りもせずに、たらればを繰り返し、自分の奥底に秘めた思いが口を衝いて出る。
傷付けたくなかった、道明寺だけは。
知られたくなかった。道明寺だけには。
それほどまでにあたしは、13年前からずっと道明寺だけを……
「…………愛してる」
窓を叩きつけた手から力が抜け、冷たいガラスの面を滑るように流れ落ちた。
***
「副社長、どうかご自身をお責めになりませんように」
牧野が待つ部屋の前。西田にそう言われても、俺はどうして良いのか分からなかった。
何も知らずに生きて来た13年。
その13年もの牧野の苦しみが一気に押し寄せて来たようで、胸が鷲掴みにされる。
俺が苦しみを受けて牧野が楽になれんなら、どんな苦しみだって引き受けてやる。
それが出来ねぇのが堪らなかった。
西田がドアを開け、一人中へと入っても、
どんな顔を向ければ良いのかも、何を話せば良いのかも分からねぇ。
そんな俺の存在に気付いた牧野は、夜景でも見ていたのか窓際に立ち、俺へと視線を向けると何事もなかった様に綺麗に笑った。
「道明寺、お疲れ様」
さっき迄の出来事がまるで嘘のように、普段と変わりのない牧野は、俺に近付くと今度は大きな声を出して騒ぎだした。
「疲れたでしょ?……って、あーーーっ! ちょっと、もしかして殴っちゃったの? うわ、道明寺も怪我してるじゃない!」
血がついた手元やシャツを見て騒ぐ牧野は、どこまでも普通を装っていた。
「全くもう! SPの方達にもお願いして人数増やしておいたのに、それでも暴れるってどんだけよ? 相変わらず狂暴なんだから」
小言をブツブツ言い終えると、フロントに電話を入れ消毒液などを頼んだ牧野は、俺の手首を掴みパウダールームへと引っ張って行く。
「消毒する前に洗い流さなきゃ」
ジャケットを手際よく脱がせ、袖を捲り上げ、
「ちょっとまさか! …………殴り殺してないわよね?」
すげぇ怖い顔で俺を睨み付けて。
「…………まだ殺してねぇ」
部屋に入ってから初めて形を成した言葉を吐き出せば、背中を思い切り叩かれた。
「まだじゃない! これからも絶対に駄目だから! 」
手早く優しく血を荒い流してくれた牧野は、それから程なくして届けられた消毒液で、
「滲みるかもしれないけど……」
ソファーに座り、ひび割れた拳の手当てを始め、世間話でもする様に約束した会話を切り出した。
「驚かせちゃったよね? そうは思っても、なかなか言える話でもないじゃない? だからね、本当のこと言えば、道明寺の記憶が戻らなければ良いなって、ずっと思ってたんだ」
前にも記憶の話には触れたことがある。
牧野の誕生日のことだ。
失くした記憶なんて気にしなくていい、気にしたってしょうがない、そう牧野は言っていたはずの、裏の思いを初めて知る。
「あんたって見かけによらず繊細だからね。 私のこと思い出して、こんな話知っちゃったとしたら、絶対に苦しめちゃうなって分かってたから。それだけは、どうしても嫌だったの」
「…………俺はおまえを救えなかった。牧野だけは絶対に守ってやりてぇって、」
「はい、ストップ! ほらね、そんな風に私を見ないで? 私は誰かに何かをして欲しいだなんて望んでない。
確かに、当時は苦しんだし辛かったけど、もう何も持ってなかった女子高生じゃないよ。戦い方も充分知ってる」
喩えそうだろうと、あの時のおまえは、俺に助けを求めたんだろ?
牧野だけを忘れた俺を、それでもおまえは窮地の時に思い出し呼び続けたんだろ?
恐怖の中、どれだけ怯えていたか、その姿が俺には分かっていた。
かつて、牧野の気持ちが俺には向かず、コケにされたとやり場のないイラつき抱え、暴力という間違った表現で訴えたことがある。
…………同じだ、俺も蓮見田と。
無理やり襲いかかり、怖がる牧野に構わず唇を奪って……。
泣きながら、お願い、止めて、と怯えながら言った、あの日の高校生だった牧野の顔が、牧野の過去を知ってから、ずっと頭に浮かびこびりついて離れねぇ。
「道明寺? 私は大丈夫だよ? 大丈夫だからね?」
何が大丈夫なんだよ。
「もう13年も前の話だしさ。言いたくないけど、私ももう30だし? この歳になると図太くなったって言うかさ、」
大丈夫じゃねぇから、だからおまえは、夏でも肌を出せねぇんじゃねえのか。
背後から声かけられると、驚くほど肩を跳ね上がらせるのも、傷を塞ぎきれてねぇからだろ?
牧野の誕生日に、昔の俺達の関係を問い質した時だって、
『────そこまで大事にしてくれたのに、何を怖がってたんだろうね。勿体つけずにあげちゃえば良かったよ」
おまえは、どんな思いで口にした?
おまえが無理して振る舞ってるって、俺が気付いてねぇとでも本気で思ってんのかよ。
それをおまえに言えねぇのは、傷付けんじゃねぇかって、怖ぇからだ。
「いつまでも泣いている子供じゃない。向こうがあんな行動に出るなら、私も黙ってるつもりはないくらいには大人だよ。だから、戦える準備だって万全にしてたわけだし」
心に溜まる疑問を言葉に乗せちまえば、こうして必死に普通を装ってる牧野を傷付け、追いこんじまうんじゃねぇかって、脳裏に焼き付く怯えた顔と共に俺を怯ませる。
「戦うのは昔から得意なの、道明寺も知ってるでしょ? だから……、」
消毒を終え、ガーゼを宛て、包帯を巻き付けた俺の右手を、牧野が優しく両手で包み込んだ。
「だから、お願い。そんな、泣きそうな顔しないで?」
「…………」
「ありがとう。私の為に怒ってくれて。もうそれだけで充分。これから先は私の問題。今後のことは弁護士と相談しながら考えてくつもり。ほら私、犯罪とか専門じゃないからさ」
牧野は、そう言ってまた笑った。
「…………会社辞めて、俺とはもう関わらないつもりか? 過去が原因なら、そんなの関係ねぇからな!」
「道明寺? 世の中には悪意ある人達がいる。今夜、そんな場面を見たばかりじゃない。私が道明寺の傍にいれば、立場ある道明寺に、また迷惑かけてしまうかもしれない。
悪意だけじゃない。時には善意の方が怖いことだってある。私が言われる分には構わないの。そんな覚悟はとっくに出来てるから。でも、私のせいで誰かを巻き込むのだけは絶対にイヤ」
「迷惑? 俺はそんなに柔じゃねぇ! そんなもん幾らだって俺が撥ね付けて、」
「それだけじゃない!」
俺の言葉は最後まで言わせて貰えなかった。
「私も疲れたって言うかさ、少しはのんびりしようかなって思って。
この13年、蓮見田をずっと追ってきた。息子は勿論だけど、どっちかって言うと、父親の方をずっと警戒し続けてきたから、疲れたっていうのも本音。ちょっとこの辺りで仕事を休んで、一休みするのも有りかなって」
「だったら、会社辞めても俺と連絡断つのだけは止めろ」
牧野は、困惑を隠せない歪な笑みを携えたまま言い澱む。
暫く待っても黙ったままで、答えは貰えねぇと諦め、質問を変えた。
「……なぁ? おまえが俺のもんになんねぇのは、蓮見田のことがあるからじゃねぇのか?」
「それは違う」
さっきとは打って変わり即答だった。
「前にも言ったけど、あの頃のような気持ちは、私にはもうない。ごめんなさい」
澱みなく語られるそれは、まるで、答えを決め待っていたかのように、不自然なほどに迷いがなかった。
「道明寺? これだけは約束して?」
「…………」
「これからも、投げやりな生き方だけはしないで。もう大丈夫だよね?」
「…………」
「絶対に自棄になんてならないで。これは、私だけを忘れた罪滅ぼしだと思って約束して」
「ずりぃな、おまえは…………」
「そりゃそうよ。有効手段があれば使わなきゃね。弁護士になって学んだの」
そう言って笑みを重ね続ける牧野は、俺から手を離すとバッグを掴み立ち上がった。
「おまえは、いつだってそうだよな。一人で決めて、勝手に答え出しやがって」
「道明寺、幸せになってね。最後に迷惑かけちゃって、ごめんなさい。でも、道明寺と再会出来て嬉しかった。ありがとう」
「勝手に話を片付けてんじゃねぇ!」
「道明寺。じゃあね、バイバイ!」
「行くな、牧野! 行くなって言ってんだろうがっ! 俺の傍にいろ! 牧野っ!」
過去を知った以上、力付くで止めるのに躊躇し、有らん限りの声で牧野を追う。
それでも、牧野の足は止まることはなく、
「牧野! 頼むから行くなっ!牧野ーーっ!」
どんなに叫ぼうと、振り返りもしなかった牧野は、俺を残し部屋を出て行った。
「っきしょーーーっ!」
怒りや哀しみ、ない交ぜになった色んな感情の矛先を、ソファーにあったクッションに乗せ投げつける。
窓ガラスに当たるクッションを睨むように見ていた俺の視界に、ふとあるものが入り込んだ。
立ち上がり窓辺に近付く。
そこは、俺が部屋に入っていた時、牧野が立っていた場所で、曇り一つなく磨かれているはずの窓ガラスに、それは残されていた。
「牧野……」
牧野の身長よりも高い位置に見つけた、小さな手の跡。
もっと低い位置なら、景色を見るのに手を添えてたって考えも出来るが……違うだろ、これは。
指先の間が開かれた、くっきり残る手のひらの形。そこから続くのは、先細りになる曇った跡で……。
これだけ指の間が開いた手跡がハッキリ残るとなれば間違いねぇ。力を入れてたとしか思えねぇ。
…………アイツは叩きつけたんじゃねぇのか、自らの手を。
俺がクッションを投げつけたように。
苛立ちを、苦しみを、吐き出せねぇ感情を、この小さな手のひらに乗せて……。
怒りが沸々と体の奥底から迫り上がり、喉元を一気に突き破る。
「あぁぁぁぁぁぁぁーーーっっ!!」
部屋中の倒せるもんを片っ端から薙ぎ倒し、投げつけ、抑えらんねぇ怒りが叫びとなる。
それは、牧野の苦しみを拭ってやれなかった、不甲斐ねぇ自分自身に対しての怒り。
鎮められぬ感情をそのままに、漲る怒りで体力が燃え尽きるまで、暴れ倒し、出鱈目に咆哮し続けるしかなかった。

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