その先へ 51
蓮見田側は押し黙り、牧野さんが次は何を言い出すのかと、警戒を強めている様だった。
「聴いて頂きたいものがあります」
副社長と繋がれていた手を、片方の手で優しく二度叩いた牧野さんは、自らのをそこから引き抜く。
そして、テーブルの中心を空けるように、蓮見田守の前にあった灰皿を手前に退かし、タブレットをそこに置いた。
「ここに、蓮見田専務とお会いした時の会話を落としてあります」
「……まさか、録ってたんですか?」
血色が全くなくなった青白い顔で、蓮見田守が愕然としたように言う。
「被害者が加害者と会うんです。何もせずに丸腰で会うはずがありません」
撥ね付けた牧野さんは、タブレットの画面をタップした。
『…………牧野つくしさん、ですよね』
『えぇ』
こうして二人の会話は流れ始めた。
メールで送られて来た写真の場面が浮かび上がって来るように……。
『牧野さん…………、貴女だったんですね。あの時の女の子は』
『…………私から離れて端に座ってください』
認めたに値するこの言葉一つで、蓮見田守と二人で会うのが、どれほど怖いことだったかが窺い知れる。
そうまでして会おうとした牧野さんの決意に喉の奥が詰まり、今もそれを表情にも態度にも刻んでいないことが、余計に胸を苦しくさせた。
『牧野さん、本当に申し訳ありませんでした。信じて貰えないかもしれませんが、何てことをしてしまったんだと、ずっと、本当にずっと後悔していたんです』
『…………』
『まさか、牧野さんがあの時の子だとは思わなくて……。パーティーでも気付かなくて……。牧野さんは、僕だって気付いていたんですよね?』
『…………』
『赦して下さいなんて、虫の良い話なのは分かってます。あなたを傷つけ苦しめたこと、謝っても謝りきれないって。
だから、せめてこれ以上、貴女を傷つけたくないんです。
…………貴女を傷付けた僕が言うのもおかしいですが、父は、道明寺副社長を調べてる内に、貴女が受けた傷を知ってしまった。
貴女が通っていた病院を突き止め、そこでは守秘義務の壁に手出しが出来ませんでしたが、被害者の女性らが主宰する、サークル的なものに牧野さんが顔を出していたことを知ってしまったんです。
父は、きっとそれを利用する。父はそういう人です。
それにそれだけじゃない。
ある方から訊きました。副社長は記憶喪失であると。それも、恋人だった貴女だけを忘れ、今でも彼を憎んでるために貴女は近くにいて、復讐の機会を窺っているのだと。
もしそれが本当で、道明寺副社長の記憶喪失を、元恋人である貴女が認めてくれたら、道明寺と契約に持ち込める可能性があるんです。契約にさえ漕ぎ着けられれば、父はそれ以上の手出しはしないはずです。貴女を利用することなく守れる。
牧野さん、本当のことを教えて下さい。調べれば調べるほど、訊いた話が事実としか思えないんです。だから貴方は、』
会話は途中だったが、充分と判断したのか。そこまでで、牧野さんはタブレットを操作し音源を止めた。
やはり、記憶のことを蓮見田側に流したのは、中島海だと確信を持つ。
憎んでいると、復讐などと色を乗せた偽りの話まで付け足して。
「これでは、何に対しての謝罪か分かりません」
向こうの弁護士の苦し紛れの弁にも、
「そ、そうだ!」
同調する蓮見田社長にも、
「そうですか」
牧野さんは冷ややかだった。
俯き黙ったままの蓮見田守を見ながら「これは」そう繋いだ牧野さんは、自身のトートバッグから、封筒の挟まったクリアファイルを取り出した。
「私の診断書です。被害を受けたその日に受診しています。被害者が受けるべき必要な検査も全て行っています。内診は勿論、性病や妊娠への対処、そして、」
蓮見田守の肩が分かりやすく縮こまる。
「体液を採取し行ったDNA鑑定です」
牧野さんの隣では、今にも人を殺しそうな目付きで暴れだしそうな副社長を「司、堪えろ」と、美作専務が肩に腕を回し懸命に押さえつけていた。
「蓮見田守さん、あなたが認めなくてもDNA鑑定すれば分かることです。私の手元にある鑑定書と一致するか否か」
あっ、と漏らし顔色を変えたのは、相手の弁護士だった。
「まさか、吸い殻……」
退けられた灰皿に視線を向けた弁護士は、直ぐに苦々しい顔つきとなった。
…………これも牧野さんの計算の内だったのか。
灰皿の中に吸い殻が残されていないのは、弁護士の表情を見れば明らかだった。
タブレットをテーブルに置く時に退かし、皆に二人の会話を聴かせている間に、牧野さんは吸い殻を手に入れたに違いない。DNA鑑定に回せる証拠として。
その証拠を入手するために、副社長達を予定の時間より遅れさせることで相手の苛立ちを煽り、禁煙であるにも関わらず灰皿を用意して……。
全ては計算しつくした上で、今日の面会は行われていたのかと、改めて愕然とする。
計算された一つ一つ。そして最後に向かうべきところも、初めから決めていたのだろう。
最後は、自らの傷を切り札にしようと……。
「わ、分かった。どうも守が犯人だと勘違いしてるようだが、私達が君に非礼な態度を取ったのは確かだ」
声を上げたのは蓮見田社長だった。
弁護士の様子を見た蓮見田社長は、自分達の逃げ道がないことに漸く気付いたらしく、今までの態度を翻した。
「数々の非礼は詫びよう。道明寺副社長や美作専務にも、もう何もしないし、牧野さんには慰謝料も支払わせて貰う。だから赦してはくれないだろうか」
都合の良い謝罪だった。
最大の罪は受け入れず、あくまで非礼を振る舞った詫びとして、金銭で揉み消せるだろうという浅はかな算段。
「守! おまえが誤解させる真似をしたんだ! こんな恥をかかせて何を考えとるんだ!」
どこまでも息子の罪を認めず、牧野さんが負った傷を労るでもなく、恥を掲げて迫る父親に怯えを見せる蓮見田守は、よっぽどその存在が恐いのか、
「…………ぼ、僕は犯罪者じゃない」
小さく震えた声で否定する。
情けない気弱さを露呈した蓮見田守は、だが、次の瞬間。顔を上げ、牧野さんへ叫ぶように大声を浴びせた。
「もう時効は過ぎたはずだっ!」
語るに落ちた、だ。と思うと同時、
「不用意な発言は控えて下さい!」
「おかしいですね。時効までご存じだなんて」
慌てて止めに入る相手方の弁護士と、挑発する牧野さんの声とが重なる。
加害者だと決して認めなかったのに、時効なんてものを知る矛盾。
蓮見田守は、ハッと我に返ったように、また顔を落とした。
なるほど、と蓮見田守の様子に思う。
父親にも逆らえない気弱さだが、追い込まれると、日頃、自分を抑えているだけに、突発的に感情が弾ける不安定さを持っているのではないか。今、牧野さんに向かって声を荒らげたように。
父親の威圧的な言動や強い者の前では怯み、立ち向かえない精神の脆弱さ。その脆弱さの中で生まれた歪みの上に、牧野さんは犠牲になったのではないか。
心の弱い身勝手な男の犠牲に……。
全身の血が逆流しているようだった。
頭に血が上るのを実感しながら、その犠牲になったのは何時だったんだと考えを巡らす。
副社長や牧野さんが高校生の頃に調べたものは別として、我々の調査書には、牧野さんのプライベートに関しては何も記されておらず、過去の傷に関しても掴んではいなかった。
当然だ。学歴や職歴意外は、何一つとして調べなかったのだから。
プライベートを調べるのは、牧野さんに対してすべき誠意に反する行為、と楓社長が必要以上のものは調べさせなかったのだ。
過去に牧野さんにしてしまった事を悔やんでるだけに……。
もし、先に分かっていれば……いや、だとして何が出来たと言うのか。
消したくても消せない傷を、どうしてあげられたと言うのだろうか。
「本当か? 本当に時効なのか?」
必死に探るのは蓮見田社長だ。
息子を案じてではあるまい。
被害者の牧野さんを前にしても、こうして時効を気にする辺り、全ては己の保身ゆえだ。
息子や牧野さんを交互に見て確かめる蓮見田社長に、頷きを返したのは息子だけで、鮮やかに無視をした牧野さんは、
「前田先生、ですよね? 私の記憶が正しければ」
矛先を変え、紹介すら交わさなかったはずの、相手弁護士の名を口にした。
「私は、昔一度だけ先生に会ったことがあります。まさか、こんな形で再会するとは……これも運命なんでしょうか」
「……昔?」
身に覚えがないのか、弁護士は怪訝に牧野さんを見つめる。
「13年前のあの日。ボロボロになった私は、適当なビルの屋上に登り、そこで煙草を吸われていた先生と会いました」
「……13年前」
苦し気に掠れた声を落としたのは、副社長だった。
…………もしかして、13年前なのか。牧野さんが被害に遭われたのは。
だとしたら、牧野さんはまだ高校生だ。
副社長と付き合っていた頃なら、私達にもその情報が上がって来ていたはず。となると、別れた後か。
副社長が記憶を失くされ、且つ、こんな目にまであって…………牧野さんの受けた傷の大きさにこうして触れ、心が耐えられなくなる。
副社長にしても、どれだけの悔しさと後悔の念に苛まれていることか。
二人を思い、考えれば考えるほど、辛い過去に目を反らしたくなる。
「貴方は、私に戦い方を教えてくれました。直ぐに病院に行き証拠を残し、それが、いつか戦いたいと思った時には役に立つからと。それと、裁判で戦うだけが全てじゃない。自分の心を守りなさいと、そう言って下さいました。今、決めなくて良い、ゆっくり、ちゃんと生きる道を考えなさいと」
「貴女があの時の…………」
弁護士も過去の記憶に思い当たったのだろう。
驚いたように牧野さんを見る。
「先生のお陰で、私は今もこうして生きています」
「…………」
「先生に会っていなければ、私はあの日、あのビルから身を投げ出していました」
「牧野……」
項垂れる副社長の、遣りきれなさにまみれた声が、儚く空(くう)に混じる。
「遅くなりましたが、あの時は、ありがとうございました。苗字しか聞いておらず、今までご挨拶出来ずにすみませんでした」
暫く頭を下げていた牧野さんは、顔を上げると同時に、また弁護士として振る舞った。
「今後は、依頼してある弁護士が私の代理人として対応します。私への直接交渉はお止めください」
それから、と続けた牧野さんは、蓮見田社長を見ながら、手元にあるボールペンを立てて見せた。
「今日の会話も全て録音してあります。くれぐれも、これ以上の悪足掻きはなされませんように」
ずっと手元に置いてあったボールペンは、ノック一つでスイッチが入る、ペン型のボイスレコーダーだったらしい。
蓮見田守と二人で対峙した時も、これで録音したのかもしれない。
会話を記録させ、既に弁護士にも依頼し、どこまでも牧野さんは用意周到だった。
「それと、気になされているようなのでお答えします。蓮見田守さん、貴方の時効はまだ成立していません」
きっぱりと言い切られ、蓮見田社長に明らかな動揺が走る。
蓮見田守は、名を呼ばれて顔を上げただけで、もう反論する気力はないのか、直ぐにまた顔を下に向けた。
「前田先生、先程の会話には続きがあります。時効を迎えていない証拠。加害者だから分かる、秘密の暴露に値するものが。後程、ご確認下さい」
そう弁護士に言い残し、タブレットだけをテーブルに置いたまま、他の物をバッグにしまった牧野さんは、立ち上がると頭を下げた。
「社長、副社長。私的事で会社の不利益に繋がる状況に陥らせてしまい、申し訳ございませんでした。美作専務、巻き込んでしまい、本当にすみません」
「牧野に謝られることは、何一つとしてないぞ」
本音だと思える、美作専務の柔らかな声だった。
もう一度、三人に向け頭を下げた牧野さんは、
「お世話になりました」
と、踵を返し内扉へと向かう。
「牧野さん」
扉まで後僅かのところで、呼び止めたのは楓社長だった。
楓社長は立ち上がり牧野さんへと歩み寄ると、優しく抱き包み込んだ。
「生きていて下さって、ありがとう。よく頑張ったわね」
「……社長」
「同じ女性として、貴方を誇りに思います。堂々と生きなさい、これからも」
「社長…………こんな形になり、本当にすみませんでした。短い間でしたが、お世話になりました」
腕を解いた楓社長に、唇を噛み締め深く牧野さんが頭を下げれば、
「西田」
かなりの努力をして、今まで堪えていただろう副社長から声が掛かる。
「はい」
「SPに、キープしてる部屋まで牧野を案内させろ」
「畏まりました」
副社長は、苦しい表情を拭えないまま、牧野さんを見た。
「牧野? 話、するんだよな? 約束だろ?」
牧野さんは少しだけ口元を綻ばせた。
「うん。約束だもんね」
「部屋で待っててくれ」
「うん、分かった」
今度こそ扉へと足を踏み出そうとした牧野さんの足が止まる。
よろよろと、蓮見田守が近付いて来たからだ。
牧野さんを隠すように、すかさず間に割り込み壁になる。
「牧野さんに近付かないで頂きたい」
その場に立ちすくみ、私の背後にいる牧野さんを見つめる蓮見田守は
「本当に……、本当に、すみませんでした」
その場にくずおれ、額を床につけた。
「……あの時の僕は、どうかしてたんだ。駄目な奴だと、弱い男だと罵られ、追い詰められて、」
「その理由や言い訳は、弁護士の私に言ってるんですか? それとも被害者としての私に?」
蓮見田守の言葉を遮り、質問で返す。
「…………傷つけてしまった貴女に、」
「だったら…………、そんなの訊かない! どんな理由であれ、私は絶対に犯罪を認めたりなんかしない!」
ここに来て初めて感情が零れ、牧野さんが声を張り上げた。
気持ちを鎮めるように、牧野さんは呼吸を一つ吐き出すと、次には口調を落ち着かせた。
「でも……、貴方がこの13年、毎週教会に通い懺悔して来たことも知っています」
蓮見田守が顔を上げ、驚いたように目を見開く。
「だから今日のこの面会も、父親に自らの罪を話し、貴方の中にある良心で潰してくれないかと、心のどこかで期待もしていました」
「…………」
「いつまで父親の顔色を窺い、支配されながら生きて行くおつもりですか? 貴方ももう、子を持つ一人の父親ではないのですか?」
「…………」
「…………いつか貴方の良心が、父親に打ち勝てる日が来ることを願ってます」
蓮見田守から嗚咽が漏れる。
牧野さんは、もう見向きもしなかった。
今度こそ、扉を開け外へと繋がるドアへと向かい、私もその後に続いた。
真っ直ぐに伸ばした小さな背中。
この小さな体で、13年もの過去を背負ってきたのだろうか。
DNA鑑定という証拠を持ちながら戦わず、なのに、蓮見田守が教会へ通うのを知っているほどには過去を見つめ続け、そして、道明寺が狙われれば、躊躇わずに傷を切り札として突き付けた決意。
その決意の裏には、どうしても副社長の存在を感じずにはいられなかった。
「西田さん、最後にご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
外へと繋がるドアの一歩手前。牧野さんが私と向き合う。
「迷惑なんて、今のこの瞬間までにも、一度だって掛けられたことなどありませんよ」
「西田さん……。私が言うのもおかしいですけど、副社長のこと宜しくお願いします」
「辞められる決意は変わりませんか? 牧野さんのお力を貸して頂きたいと思ってるのは、私だけではないはずです」
牧野さんは、困ったように笑みを作り、首を振った。
「いつまでもお待ちしていますよ。牧野さんのお気持ちが何にも縛られずに自由になられることを願いながら、その時が来た時には、また一緒に副社長のサポートを出来ることを、私はいつまでだって待っています」
込み上げるものがあったのか、隠すように頭を下げた牧野さんは「すみません」消え入るような声を残し背を向けた。
SPに託した牧野さんの姿が消えて見えなくなるまで、私は、その小さな背中を見送り続けた。

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