その先へ 50
これほどまでに哀しみに暮れた副社長の顔を、未だかつて私は見たことがない。
当然だ。この世で一番愛しく、大切にしたい人の身に起きた悲劇。
身が引き千切られるほどの傷みに襲われ、払い除けられるはずもない。
楓社長さえも目を閉じ、美作専務は唇をきつく噛み締め、組んだ両手に力が入っているのが分かる。
ただ一人。牧野さんだけが動じていなかった。
蓮見田社長へと戻した眼差しからは、動揺の一端すら窺えず、感情を捨てたようにしか見えなかった。
「道明寺副社長の元恋人がレイプ被害に合ってたなんて、世間が知ったらどう思いますかな。同情があがる一方で、好奇な目で見られるのは牧野さんだ」
蓮見田社長の忌々しい言葉に奥歯に力が入る。
牧野さんの過去を調べ、知った上でその傷を抉ろうとするのか。
己の利益のためなら人権さえも無視して、心を踏みにじると言うのか。
体に受けた傷に止まらず、精神(こころ)の苦しみは、時を経ても深く刻まれ残ると言うのに。
「てめぇ、本物のクズだな。地獄に堕ちろよ」
日頃の穏和な顔を脱ぎ捨て、そう吐き捨てたのは美作専務だった。
私も気持ちは美作専務と同じだ。
いつもは容易く出来るはずの感情のコントロールが効かない。
自覚せずにはいられない、怒りの発露。
固めた拳の震えを止めるのさえ、今は難しかった。
「地獄ねぇ。堕ちるにしても、牧野さんが先になるかもしれませんな? 世間の目の晒し者になる、日々の生き地獄にね。
それも全てはそちらの対応次第だ。
私も牧野さんには同情してるんですよ。可哀想にとね。まだまだ未来がある身。こんなことが世間に知れたら、将来にだって影響を与えかねない。
どうしたって道明寺副社長の元恋人って肩書きは、面白おかしく世間の興味を引いてしまうのは避けられない。それだけ道明寺司の名はブランドですからな。有名人の副産物に巻き込まれて、本当にお気の毒な話だ」
殺意を覚える嗤い声が、また響き渡る。
「さぁ、どうしますかな?
道明寺副社長にとっては、元恋人であり、今も想い人。美作専務にとっても、高校時代の可愛い後輩だ。
あなた方は、彼女の未来を守るのか、それとも、レイプの被害だけでなく、心因性の病まで患って、この上、世間から注目を浴び、辱しめに合う彼女を、」
ドスンと、ソファーを相当な力で殴り付けた音で蓮見田社長の言葉が止まる。
「条件を言え。全部呑んでやる。但し、それ以上、余計なことを一言でも言ってみろ……、」
今にも切り刻みそうな鋭利な眼差しで射貫く副社長は、一度言葉を飲み込むと、怒りを存分に含んだ、地の底を這うような低い声を震わせた。
「おまえ、殺すぞ」
あまりの迫力に居竦められ、蓮見田社長の顔が強張る。
「……こ、こちらの条件さえ呑んで頂ければ、何も言いやしませんよ」
普通を装ってるつもりらしいが、先程より声のトーンは弱い。
それだけ副社長は殺気立っている。悪魔のような男を萎縮させるまでに。
だからだったのか、と紙片を手の中で握り締める。
だから牧野さんは、SPを増員したのだ。
副社長の怒りの導火線に火が点くのを危惧して。
確かに、いつ引火し爆発してもおかしくはない。それを二人のSPだけで押さえられるか? と考えれば、私も無理だと判断せざるを得ない。いっそ、打ちのめしてやりたい、と普段なら抱かない感情を、理性で打ち消しながら。
「美作専務はどうなされますかな? 可愛い後輩の……、」
「そのだらしない口を塞げ。黙って条件だけ提示しろ」
美作専務も尖った視線と言葉を投げつけた。
蓮見田社長が、弁護士に向かって顎をしゃくる。
弁護士は頷くと、黙ってビジネスバッグから四枚の書類を取り、副社長と美作専務の前に二分ずつ差し出した。
恐らく、当事者双方が保管する分で、蓮見田の署名捺印が既にされている、強引な内容の契約書だ。
それに目を通した副社長は、再び蓮見田社長に剣呑な一瞥をくれると、ジャケットの胸ポケットからペンを取り出す。
「拝見させて下さい」
契約書に副社長がペンを走らす直前。牧野さんが書類を自らの方へと引き寄せる。
牧野さんの、フッと嘲笑う声に、副社長に倣うようにペンを取った美作専務も、動きを一旦止めた。
「この時とぞばかりに、随分と盛りましたね」
内容までは見えない。見えないが、相当なものなのだろう。
淡々と話す牧野さんの皮肉に、どこまでも腐りきった蓮見田社長が返す。
「またとないチャンスなんでね。しかし、流石の私も後が怖い。血の気の多い道明寺副社長に何をされるか分からない。穏やかだと言われていた美作専務にもね。そこでだ。楓社長、あなたには、私共の身の安全を保証して貰う。あなたの全力で私共を守らねば、どこで牧野さんの情報が漏れるか分かりませんぞ?」
弁護士が、また一枚新たな紙を出したのは誓約書だろうか。
その紙を渡された蓮見田社長は、それを楓社長の前に置いた。
黙って楓社長がペンを手にした時、カシャリと機械音が鳴り、その発信元へと皆の視線が集まる。
その発信元は牧野さんの手元────牧野さんは、契約書をタブレットのカメラに収めていた。
「何をなさってるのですか」
蓮見田側の弁護士が、直ぐ様、牧野さんに問い質す。
「裁判になった時の証拠は、一つでも多い方が良いですから」
平然と答えた牧野さんは、言うや否や、その契約書を二つに切り裂いた。
「どういうつもりだ!」
声を荒らげる蓮見田社長を意にも介さず、牧野さんは別に視線を向ける。
「美作専務、そちらも必要ありません。勿論、楓社長のもです」
まだ予備があるのだろうか。向こうの弁護士が鞄を漁るのを、即座に片手で制した。
「無駄になるだけですから、出さなくて結構です。然るべき場所で、証拠として提出して下さるのなら話は別ですが」
蓮見田社長の眉間の皺が深みを増す。
「蓮見田社長、何か勘違いをされておりませんか?」
「なに?」
「脅しとしては成り立ちませんよ? 私は、自分の身に起きたことを隠すつもりはありませんから」
表情に驚きを貼り付けたのは、蓮見田社長だけじゃない。
副社長も美作専務も同様だった。何かを言いかけようとしたものの、蓮見田社長を見据えたままの牧野さんは、右手一つで二人を封じ込めた。
「ま、まさか君は、泣き寝入りするつもりはないと言うのかね?」
「ええ、そうです」
蓮見田社長は、動揺の色を隠せないまま畳み込む。
「聡い女かと思えば、どれだけ愚かな女なんだ! 君は自らを傷物だと世間に曝す気か!」
怒りに染まった顔の副社長が立ち上がるより先に、牧野さんが音量を上げた声を出す方が早かった。
「貴方のような悪意ある人もいるでしょうね。所謂、セカンドレイプです。ですが……、」
ハッキリと牧野さんは続けた。
「そんな覚悟、疾うの昔に出来ています」
全くぶれない声音だった。
気持ちをへし折ったつもりの悪意は、牧野さんの前では、傷にもならないと見受けられた。
少なくとも、傷付いた様を見せるつもりはないらしい、牧野さんの頑ななまでの意志が感じられる。
「最初に言ったはずです。戦う準備は出来ていると。それと、戦う相手は、あなた方だともね。あなた方の方こそ、覚悟は出来ているんでしょうか?」
「な、何を言ってる」
「分かりませんか? 分かりますよね?」
意味深に話す牧野さんは、唐突に隣に座る副社長の左手を握った。
突然で驚いた様子の副社長は、それでも離さないとばかりに、すかさず指を絡めてしっかり繋ぎ直せば、突如、牧野さんは矛先を変えた。
「蓮見田守さん。貴方なら分かるはずです」
水を向けられた蓮見田専務の目は、明らかに動揺が浮かんでいる。
…………まさか!
一つの仮定が頭に浮かび、握り締めてる拳の中が汗ばむ。
「何のことだ!」
思いが至らぬらしい蓮見田社長の怒声に、牧野さんは告げた。
「蓮見田守さんこそが加害者なんですから」
「……ッ!……おまえが?」
冷たく光った副社長の眼が蓮見田専務を捉え、小さな声が転がり落ちる。
…………不味い!
慌てて扉を開けSPを入室させる。
「おまえが牧野を…………蓮見田ーッ!てめぇっ!」
割れんばかりの怒声を放ち、繋ぎ止めようとした牧野さんの手をも振り切って、怒り任せに副社長が立ち上がった。
「赦さねぇ!」叫びながら蓮見田専務に飛びかかろうとする副社長を、美作専務が必死で止めようと押さえ、SPも加担したところで、離れた手を牧野さんは、もう一度両手で包み込んだ。
「この件においては、私が当事者です。私の発言を優先させて下さい」
振り上げた右手の拳を頭上に置いたまま、苦し気に歪む副社長は、冷静に話す牧野さんを見下ろす。
座ったままの牧野さんもまた、ジッと副社長を見上げていた。
牧野さんから譲る気のない固い意思を感じ取ったのか「クソッ!」と吐き捨て拳を下ろした副社長は、繋がれた手を牧野さんに引かれて、乱暴にソファーに座った。
しかし、いつまた殴り掛かるかは分からない。
いや、殴り殺す可能性が高い。
その気持ちは充分理解は出来ても、させてはならぬと理性を働かせ、ソファーの背後で待機するよう、SP達に視線でサインを送った。
「な、何をいい加減なこと抜かしてるんだ! 守、おまえもなに黙っとる!」
「ぼ、僕は……」
「はっきり言え! 守、おまえはそんなこと仕出かしたのか! どうなんだ! やってないとはっきり言え!」
「ぼ、僕……じゃ……」
首を小刻みに振る青醒めた息子を見て、蓮見田社長の罵声は牧野さんへと向かう。
「不利になったからって、証拠もなくでっち上げる気か! こんな言いがかりつけて、ただで済むと思うなっ!」
「ただで済まないのはあなた達です。私が、済ませたりなんかしません。絶対に」
今、はっきりと分かる。
この面会が始まってから、牧野さんは一切の感情を捨てたように見えた。
弁護士と言う名の鎧がそうさせるのか……。
違う。そうじゃなかったのだ。
悲しみを、怒りを、憎しみを、全ての負の感情を圧殺し、闘う意思を固めた証だ。
それは疚しさのない強みでもあり、昨日今日の覚悟ではないことを窺わせる。
しかし、この覚悟を得るまでに、どれだけの苦しく険しい時間を重ねたのか、想像を絶する。
そして、この覚悟には、もう一つの側面があるのではないだろうかと思わずにはいられない。
声を上げ、泣き、叫び、荒れ狂う心情のままに受けた苦しみをさらけ出してしまえば、抑えの利かない感情が吹き荒れ、今以上に苦しむ人がいる。この場所には……。
それをさせたくないが為、冷静な声で当事者は自分だと、必死に踏み込ませないようにしているのではないか。
副社長を想う気持ちこそが、今の牧野さんを支えているのではないか。
自分は大丈夫だからと、落ち着いてと、そう伝えているようにしか見えない、副社長の手を握り締める光景が酷く哀しく、痛みが胸の奥を貫いた。

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