その先へ 49
お話を読んで下さいます皆様、いつもありがとうございます。このお話の回より、注意書きをさせて頂いた内容が含まれます。まだお読みになられていない方様は、先ずこちら『その先へをお読みになる前に』をご確認頂きましてから、お話にお進みになられますよう、宜しくお願い致します。
部屋の中に、蓮見田社長の豪快な笑い声が響き渡る。
「飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこの事ですな。元恋人でもあり、今や側近として働き、貴方の思い人でもある者の裏切り。貴方は彼女に相当怨まれてるようだ。牧野さん? 今後必要とあらば、取締役会や株式総会でも、このことを証言して下さいますかな?」
「えぇ。証言致します」
耳障りな嗤(わら)い声が広がる中で私が目にしたのは、氷のような冷たさを纏った牧野さんの横顔。
真っ直ぐと正面を向いているその顔は、微塵とも崩れない。
いや、牧野さんだけではない。
道明寺サイドは、誰もが動きを見せないままだ。
この状況を、どのように有利に生かし、何を要求してくるのか、黙って見守るしかやるべきことはなかった。
やがて、蓮見田社長の気が済むまで続いていた嗤い声も収まり、
「さて」と、いよいよ無理難題な要求を迫って来るかと身構えた時。
「但し、私の証言が生かされる場があれば、の話です」
感情を覗かせない毅然たる牧野さんの声が、しわがれた蓮見田社長の言葉の先を突然に遮った。
「そんな場は、永遠に訪れることはないでしょうけどね」
更に不敵に言葉を重ねる。
…………やはり牧野さんは牧野さんでしかない。
牧野さんの発言に気持ちが騒いだ。
皆の注目が、また一身に牧野さんに集まる。
端から見れば気付かない程度の驚きを表情に乗せ、今度は副社長も牧野さんを見つめていた。
先程の、耳障りな品のない嗤い声を披露したばかりの蓮見田社長は、不満気に両の口端を下げ、眉間を寄せ目を細めている。
その顔は、心の澱みを反映したように悪人面そのもので、この男に尤も相応しいとも言えた。
対して、この男の息子とは思えない蓮見田専務は、そわそわと焦りを感じている様子だ。
蓮見田社長が牧野さんを眇め見る。
「ほぅー。君は私達の味方だと思っていたのだか、違ったのかね?」
「笑えない冗談ですね。心外です」
「なっ! そんな……」
牧野さんの冷ややかな切り返しに、気弱に言葉を詰まらせたのは蓮見田専務だった。
恐らく、中島海が送って来たメールの写真は、蓮見田専務と牧野さんの密会を写したものだ。
その場において、道明寺を陥れる為に、牧野さんを取り込もうと画策したのも間違いない。
そして、それが失敗に終わったのだと、今この場で知らされての焦りだ。
尤も、蓮見田側の話に、牧野さんが敢えて乗ったように見せた可能性が高い。
「牧野、こっちに座れ」
副社長も状況を把握したのだろう。牧野さんを直ぐ様呼び寄せる。
はい、と返事をして、手帳等を片手に持ちながら立ち上がった牧野さんは、バッグを掴む態で皆に背を向けた一瞬に、周りが聞き取り不能な声で
「西田さん、これを」
折り畳んだ紙片を私の手元に忍ばせた。
素早く黒のトートバッグを空いてる方の手で掴んだ牧野さんは、ソファーへと進む。
道明寺サイドの一番手前に「失礼します」と言って、足元にバッグを置き腰を下ろせば、
「あきら、場所代われ」
この様な場面でも、自分以外の隣は認めないらしい副社長が、美作専務を押し退け、牧野さんが座った横を陣取った。
「ま、牧野さん! 貴方は分かったと言ってくれたじゃないですか! 私共と手を組むと!」
落ち着きを無くした蓮見田専務の騒音をバックに、紙片を開きサッと目を走らす。
…………扉の向こうにSPを五人配置しています。必要とあらば、直ぐに入室させて下さい。
五人?
警備計画書は、念のために頭に入れてある。
内扉の前に二人、外のドアに二人。そして廊下やエレベーターにそれぞれSPを配置し警備をさせている。
私が座る場所から直ぐの扉の向こう、内扉前には、二人のSPだけがいるはずだった。
それが増えている。牧野さんに付けたSPの数の分だけが。
もしかすると、自身にSPを付けさせたのも、増員させるための計画的なものだったのではないか。
だとしたら、それだけ危険な状況に陥る可能性があると言うのか……。
廻る思考は牧野さんの発言により寸断させた。
「確かに『分かりました』と言葉にはしましたが、何か思い違いをさせてしまったようですね。言葉を付け足し忘れたのかもしれません」
「…………ぇ?」
「昔、独り言の癖がありまして、仕事柄、かなり努力して治したんです。
それが効を奏したのか、今度は口に出したつもりが出ていなかったのかもしれません。
頭を下げる貴方に、『分かりました。貴方がそこまで仰るのであれば…………戦う準備は出来ています』そう続けたつもりだったのですが」
言葉を出せないでいる蓮見田専務に、更に付け加えた。
「勿論、戦う相手はあなた方です。あなた方と相容れるはずもないですから」
蓮見田社長は、忌々しげに己の息子に吐き捨てる。
「だからおまえは甘いんだ! 女一人口説き落とせないでどうする! おまえなんかより、よっぽどこの弁護士先生の方が役に立つ。私の側近にしたいくらいだ」
「貴方の飼い犬になったら、遠慮なく噛み付きますよ」
数分前に、副社長を侮辱した揶揄で刺し返し、牧野さんは蓮見田社長もぶった切った。
苦虫を噛み潰したような顔の蓮見田社長に、牧野さんは続けた。
「そもそも、副社長の記憶に関しては、脅しにもなりません。
副社長が仕事に就いて以来、そのことで仕事に影響を来したことはありませんし、数々の実績も作りあげておられます。
正当な理由には値しない。解任要求なんてするだけ無駄でしょうね。
第一、可決の過半数なんて取れるはずもありません」
確かに難しいだろう。
道明寺HDの筆頭株主は、静養中の道明寺会長であり、道明寺の人間はそれぞれに大株主でもある。票を集めるのは難しい。
「仮に奇跡が起きて可決したとしても、総会決議取消裁判で争うことになるでしょう。その時は"証言"しますよ? あなた方の脅迫も含めて」
それと、と続ける牧野さんは、脅しに使った材料を一つずつ潰していく。
「反発する役員になら情報を売れると、尤もらしいことを仰ってますが、おかしいですね。
蓮見田社長? 貴方は既に弊社の川島常務と、何回かの密談を重ねておられますよね?」
道明寺サイドの目が険しくなる。
質問を投げ掛けられた蓮見田社長は、口を一文字に結んだままだ。
川島常務とは、副社長に反発する急先鋒。
それと密談をしていたということは……。
「貴方は、副社長の記憶障害でこちら側に脅しををかける一方で、裏では既にこの情報を川島常務に渡している。売ったのではなく、今後、自分達が優遇して貰えるよう金銭まで渡して。違いますか? 川島常務が副社長の辞任を要求して失脚を仕掛ける前に、川島常務の進退が問われるかと思いますが」
上乗せさせられた質問にも返答はない。
「結構です。貴方がお話にならなくても、一時間ほど前から調査部では、川島常務の聞き取りを開始しています。そろそろ全てが明らかになっている頃かもしれません」
「間違いねぇのか?」
副社長が牧野さんに確認を取る。
「はい。調査部で証拠も掴んでいます」
「西田、確認を」
楓社長の指示より先、画面に呼び出していた番号をタップする。
直ぐに繋がり、調査部より状況を得た。
「川島常務が、1000万の受領を認めたようです」
報告を伝え嘆息する。
1000万で、あっさり蓮見田に付いたのか、川島常務は。
これで解任か、良くて辞任となるだろう。
「貴方もお認めになりますか?」
牧野さんの問いに、またも返事はない。
しかし、牧野さんは一体、どこから蓮見田の動きを掴んでいたのか。
調査部との連携を見れば、やはり中島海と蓮見田が接触を試みた時点で、牧野さんには連絡が行っていたと考えるのが妥当だろう。
中島海は、副社長の記憶に関してを知っている。恐らく、蓮見田側に記憶障害のことを伝えたのは彼女だ。
それを知った牧野さんは警戒を強め、急いで調査部に依頼したのではないか。
中島海だけではなく、蓮見田の動きも調査するようにと。
以前より、蓮見田のことを知っていた牧野さんのことだ。必ず知り得た情報に付けこんで仕掛けてくると踏んだはずだ。
副社長を陥れたくば、蓮見田が接近を図るべく相手も自ずと導き出せる。
それは、副社長の失脚を狙う者────川島常務だ。
自らにも近づいて来た蓮見田を、敢えて油断させた牧野さんは、副社長の敵を炙り出し、排除するつもりだったのではないか。
全ては…………副社長を思うが故に。
しかしそうだとして、何故、副社長に事前にお話にならなかったのだろうか。そこだけが解せない。
「これは参りましたなあ」
やっと口を開いたかと思えば、ふてぶてしい物言いだ。
この余裕はどこから来るのか。
「そうは見えませんが、もう一つ、ご存知ないようですので申し上げておきます。副社長の記憶云々に関しましては完治しており、病院でも異常なしと診断されております。このことに関してのこれ以上の脅迫、及び吹聴はお止めください」
「慌てて医者に見せましたか」
「いいえ。そちらから面会を求められる前。1月31日に受診しています。調べれば分かることです」
慌ててではないものの、これもやはり、牧野さんの計算の内だろう。
念のために病院で診てもらった方が良いと、予約も牧野さんが取り付けたことを思い出す。
この時点で記憶のことが漏れたと知っていたのなら、記憶障害をネタとする脅迫を、撥ね付けるだけの証拠となる。
「蓮見田社長。そろそろ、貴方が本命とするものを提示して頂けませんか? 初めから幾つかの材料を用意してるのでしょうから」
色のない声で牧野さんが言い放つ。
やはりまだ何かあるのか。
それを牧野さんは、どこまで掴んでいる?
「賢い方だ。全部、お見通しってわけですかな?」
「貴方は、法に触れる悪事を働くことが好きなようですしね。美作専務の同席を望まれたことからも分かることです」
確かに、副社長の記憶障害で揺するだけなら、美作専務の同席の意味がない。
つまり、牧野さんのいう本命とやらで、道明寺だけならず、美作専務もを巻き込み、脅しにかかる腹積もりか。
「悪事と知っていながら、どうして貴方がお止めにならないのか、本気で理解に苦しみますが」
牧野さんが、視線と共に話の矛先を向けた相手は、蓮見田側の弁護士だった。
「私のことはお構いなく」
ポツリ返した弁護士に
「残念です」と一言だけ告げると、また牧野さんは、目線の照準を蓮見田社長に合わせた。
「本当に気の強いお嬢さんだ。しかし、道明寺副社長や美作専務はどうかな?」
垂れ下がった頬を引き上げた蓮見田社長は、厭らしい笑みを浮かべる。
「言いたいことあんなら、さっさと言え。拗れた年寄りに、いつまでも付き合ってらんねぇんだよ」
副社長の挑発に蓮見田社長の目尻が険しく吊り上がる。それに構わず、美作専務も後に続いた。
「あんた、事と次第によっては、後がないと思えよ?」
「喧しい! どっちが大人しくなるか見物だな!」
「しゃ、社長! もう、や、止めましょう。行き過ぎです!」
挑発に乗り声を荒げた蓮見田社長を止めたのは、意外にもその息子、蓮見田専務だ。
だが、迫力とは程遠いその言い方は、到底抑止力になるとは思えない。
「煩い黙れ、この役立たずが! 役に立たぬのなら、せめて大人しくしとけ!」
見当通り、息子の抗議にも耳も貸さず睨(ね)め付け黙らせると、不敵に口角を上げた蓮見田社長が、牧野さんに視線を固定させた。
「さて、牧野さん。牧野さんは、どちらが大人しくならざるを得ないと思いますかな?」
「決まってます。あなた方です」
この面会が始まってから、一貫して感情を刻まない牧野さんは、真っ直ぐに蓮見田社長を見ながら平坦な声で言い切った。
普段なら、副社長相手に感情を露にして怒鳴ることもある牧野さんが、その片鱗すら見せない。
「ほほぅ。どこまでも気の強い女性だ。その調子じゃ、もう病気の心配はないようだ」
それは、突然に突き付けられた。
一瞬、聞き間違いかと思うほどに動揺が走り、心に不穏の影をきざす。
牧野さんが病気?
そんな話は訊いていない。
副社長と美作専務も驚いた様子で、二人揃って牧野さんに体ごと向く。
「牧野、病気って何だ」
副社長の口調には、心配と焦りの色が滲んでいた。
「お気遣いなく。貴方に心配されることは何もありません」
それは、副社長にではなく、見据えたままの蓮見田社長に対して返答したもので、
「牧野、大丈夫なのか? どこが悪いんだ? 本当に平気なのか?」
心配を隠しきれない副社長に目を向けない牧野さんは、口を閉ざした。
「流石に牧野さんも答えにくいようだ。道明寺副社長、私から教えて差し上げましょう」
副社長が鋭い眼差しを蓮見田社長に向ける。
「道明寺副社長? 牧野さんは、心の病気を患っていたんですよ」
「なに?」
「レイプにあったせいでね」
「ッ!」
衝撃が心を襲う。
まさか、そんなことが…………。
「ッ……う、嘘……だよな? 牧野……」
副社長の声が震えている。
蓮見田社長を黙って見ていたままの牧野さんは、ゆっくりと副社長の方へと首を動かした。
苦しそうに顔が歪む副社長に、牧野さんは静かに告げた。
「本当です」
咄嗟に声が出そうになる。
しかし、開きかけた口元は、結局、何も言葉を選べず閉じるしかなかった。
今のこの時に何が言えると言うのだ。
受け入れ難い、この悲痛な事実を前に、一体何を……。
私達は、誰もが言葉を失った。

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