その先へ 46
何とか酔っ払い牧野に酒を止めさせ料亭を出る。
スマホを取り出し車を呼び出そうとするも、
「歩いて帰ろーよー!」
「はぁ? おまえ歩けねぇだろ」
「らいじょーぶ! ど~みょ~じ~、おんぶ!」
酔っ払い牧野は、やりたい放題だ。
何が歩いて帰るだ。俺だけが歩くんじゃねぇかよ。
こっからだと、牧野ン家まで30分ちょいくれぇか。
「早くーおんぶー!」
騒ぐ牧野にあっさり折れ、牧野のバッグを持ち腰を屈める。
「わーい、高ーい。よし、歩けッ!」
俺様気質があったらしい牧野を背負い、素直に命令に従う俺は健気だ。
牧野の望みなら何でも叶えてやりてぇって思っちまう。
「牧野くれぇだぞ? 俺にこんなことさせんのは」
「ふふふっ」
「こら、暴れんな! 落とすぞ!」
ブランブランと両足をぶらつかせ、どこまでも自由に動きやがる。
「どーみょーじは、絶対に落とさないでくれるもーん」
「分かんねぇぞ? 油断すんなよ、この酔っ払い」
「酔っ払いにさせたのは、だあれー? このいじめッ子!」
「おまえが可愛いから遂な、からかい過ぎた。にしても酔いすぎだろーが! って、痛ぇっ! 叩くな!」
牧野が頭をバチンと叩く。
「忘れろー!」
裸のことを言ってるらしい。
やっと思い出したってのに、これから先は、どんな些細なことでも忘れっかよ。
「ヤだね。これからは、勿体ねぇから絶対に忘れてやんねぇ」
「なにそれー! じゃあ~、前にもおぶってくれたのも覚えてるぅ?」
「カナダでだろ?」
当然、覚えてる。即答だ。
「ピンポーン! 正解! ホントに思い出したんだねぇー」
「命の恩人だろ、俺は。おまえの為なら何だってやってやるから、早くまた惚れろ」
「あー、眠くなってきたぁ~」
「てめっ」
散々、騒いでたのに、肝心なところはスルーかよ!
けど、本当に眠かったのか力尽きたのか、牧野の体からするりと力が抜けた。
やがて聞こえてきたのは、俺が巻いているマフラーに顔を埋めた牧野の、一定のリズムを刻む静かな寝息。
肩から胸へとだらりと腕は下がり、安定のなくなった牧野を落とさぬよう、ゆっくりと慎重に歩く。
住宅街に入り静まり返る夜道。
こんな夜も悪くねぇ。牧野が居るなら…………。
ずっと歩いてたって構わねぇくらいだ。
「…………道……明寺」
「ん? 起きたか?」
小さな声を辿って、見辛い角度で牧野を見遣れば、その目は閉じられたままで。
無邪気な寝顔に口角が上がる。
…………寝言かよ。
寝言で名を呼ぶくれぇには、おまえン中に俺が居るって思ってもいいか?
「安心しきった顔で寝やがって、犯すぞ」
出来もしねぇことを嘯き、それでも起きねぇ俺の宝物を大事に大事に運ぶ。
こいつだけは、もう傷付けたくねぇ。
俺のもんになろうがなるまいが、牧野は俺の全てだ。愛することを止めらんねぇ代わりに、最大の愛を注ぐ。
それが俺が俺で居られる証だ。生きる意味だ。
背中から伝わる温もりを噛み締めながら、わざと倍の時間を掛けた冬空の下、心が満ちた静謐(せいひつ)な夜道を歩いた。
***
「おはようございます。顔色は、」
「待て」
道明寺の誕生日翌日。
いつものように出勤し、いつもの手順で挨拶をして体調チェックを始めようとすれば、大きな掌を突き出され先を封じられる。
「人の顔色心配してる場合か。つーか、なに出勤してきてんだよ」
「社会人たるもの、二日酔いで休むなんて許されません。失格です」
今朝、白い目で見られた進から、今日は休むようにとの道明寺からの伝言は聞いていた。
だからと言って、それに甘えて休むなんて出来るわけがない。ポリシーに反する。
「顔色悪りぃだろうが。頭、相当痛いんじゃねぇ? 気持ち悪くねぇか?」
いつもとは逆に、道明寺からの体調チェックが入る。
「大丈夫です」
正直に言えば、頭はガンガンするし、胃がムカムカするけれど、それを言えば、無理矢理にでも即刻退場させられるのは目に見えている。
「ホントかよ。あれだけ酔ってりゃ二日酔いも酷ぇはずだ。記憶だってねぇだろ?」
「……い、いいえ?」
「目泳いでんぞ」
…………確かに、飲み始めて一時間が過ぎた辺りから、殆どの記憶が行方不明だ。
「俺におんぶさせて帰らせたのも覚えてねぇだろ」
怒ってる風ではないし、寧ろ、嬉しそうに笑ってはいるのだけれど、迷惑を掛けたのは確かだ。
「…………す、すみません」
「家に着いた途端起きたと思ったら、靴脱がせろって、背負われたまま蹴り上げた足が、弟の鳩尾にクリーンヒット。見事に決まってたぜ?」
今朝の白い目は、そのせいか…………。
一先ず、進のことは置いておくとして、道明寺にこれ以上の失態を突き付けられるのは居たたまれず、仕事があるからと逃げ出した私は「絶対に無理すんな」と、道明寺の言葉を背に受けながら、早々に執務室を後にした。
飲みたい気分の夜だった。
笑って騒いで、そのひと時だけを楽しめる程には酔いたかった。
他のものなんて何も考えられないくらいに…………。
その希望通りに飲んで、酔って、予定以上に酔い過ぎたけれど、一つだけボンヤリと覚えていることがある。
大きくて、広くて、泣きたくなるほど伝わってくる背中からの温もり。
もう二度と、この温もりに触れることはないのだと、散りゆく記憶の片隅で思った。
***
電話を貰ってから10日後。
私は指定した大きな公園にいた。約束の時間までは、まだ30分程ある。
ベンチに座ると、開いた手帳を膝に置き、ボールペンを手にしたまま、目の前の光景をぼんやりと眺め見た。
芝生が敷き詰められたこの公園には、哀しみに暮れている顔など見当たらない。
小さな子供を連れた家族で賑わい、暖かな雰囲気を湛えてる。
誰もこんな場所でこれから交わされるだろう話なんて、想像もつかないだろう。
どうせ話す内容なんて決まっている。
だったら、人の多い少しでも暖かみのある場所が良かった。
私が以前勤めていた会社も、そこで仲の良かった同僚の名も分かっていたところからしても、私の全てを知ったのだ。
だからこそ、私を呼び出した。
そして私もまた、こういう日が近い内に訪れるだろうと予測もしていた。
座る左側から、段々と近付いて来る気配に気付く。
徐々に距離を無くし、やがて目の前に影が出来ても、立ち上がりはしなかった。
ボールペンをノックし、手帳に挟んで閉じると、膝に置いたまま、ゆるりと視線だけを持ち上げた。
「…………牧野つくしさん、ですよね」
「えぇ」
────どれ程の時間が経っただろうか。
時間の経過も考えられず一人ベンチに座ったまま、頭の中は、一方的に展開された言葉の切れ端で埋まる。
『────本当は、憎んでいるんじゃないですか? 道明寺さんを』
ポーカーフェイスを装いながら、奥底に沈む黒い塊を飲み下すのは、想像以上に難しかった。
『自分も幸せになれたかもしれないのにって』
隠している憎悪を刺激され、押し止める理性との葛藤が苦しかった。
『──────認めるんですね? 牧野さん、絶対に牧野さんを悪いようにはしません。信じて下さい。決して、自分の保身だけじゃありません。牧野さんの為でもあるんです。牧野さんを、これ以上傷付けたくはないから、だからお願いです。証言をしてくれませんか? 手を組んで下さい。一生涯、生活の保障もさせて貰いますから』
必死に頼み込む様に、
『…………分かりました。貴方がそこまで仰るのでしたら……』
そう返せば、深々と何度も頭を下げ、帰って行った背中を見遣りはしなかった。
それからベンチに座ったまま一人。
身動き一つしなかった自分の体が、強くなってきた風に晒され、冷えきっていることに漸く気付く。
手帳をバッグにしまい、代わりにスマートフォンを取り出すと、悴(かじか)み赤くなった指先で、登録してある番号を呼び出した。
「もしもし───」
一際、吹き荒(すさ)ぶ風に、体だけじゃない。心の芯までもが冷え、凍てついていくようだった。

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