その先へ 45
「おはようございます」
淹れたてのコーヒーを道明寺の前に置いて、直ぐに顔色を窺った。
「顔色は…………大丈夫そうですけど、頭が痛いとかないですか? 風邪も引いたりしてません?」
昨日の今日だ。
記憶を取り戻して混乱していたことを考えれば、一夜明けて変化はないかと内心心配だった。
「なんも問題ねぇよ」
確かに顔色も悪くないし、気持ちも浮上している様に見える。
それを裏付けるように、急に立ち上がった道明寺は、ジャケットを脱ぎ捨てると、満足そうに笑みを刻んだ。
「どうだ?」
「えーと、副社長?」
どうだと言われても意味が分からず首を傾げる。
「分かんねぇのかよ。どうだ? 似合ってるか?」
「え?…………あ」
漸く理解した私は、本当に嬉しそうな道明寺に引き摺られるように笑み崩れた。
道明寺の腰には、昨日あげたベルトが、早速巻き付けられていた。
「似合ってる。うん、凄く」
「おぅ。これから毎日着けるからよ」
それは止めて! と直ぐ阻止にかかったけれど、
「牧野がくれたモンだ。毎日身に付けておきてぇだろうが! 俺の好きにさせろ!」
道明寺は聞く耳を持たない。
「毎日使ってたら、直ぐに傷んで駄目になるかもね」
「っ!」
何とか道明寺を封じ込め、更には、一応、病院の手配をしたから受診するようにと告げれば、
「牧野の頼みなら仕方ねぇ。行ってやる」
昨日の姿は嘘のように、完全にいつもの道明寺だ。
記憶を失くした傷に囚われず、道明寺らしい道明寺にホッと胸を撫で下ろす。
道明寺は、変わらなくて良い。
何事にも囚われず、今のままで、そのままで────。
道明寺が病院に行ってる午後になって、美作さんがやって来た。
秘書課の入り口から、こっちへ来いと手招きをしている。
「美作専務、お疲れ様です」
「おう、お疲れ。それより牧野、昨日は大変だったな」
嬉しさを口許に描いた美作さんを見れば、道明寺の記憶のことを知っているのは明らかだ。
「訊きました? 記憶のこと」
近くには誰も居ないけれど、念のために声を潜める。
「あぁ。司から連絡あった。まさか昨日いきなり思い出すとはなぁ……。で、司の奴、相当落ち込んでたろ。死にそうな顔してたもんな」
「ああ見えて、副社長は繊細ですからね」
「牧野に関しちゃ特にだな。けど、もう大丈夫なんだろ? 電話でも普通に元気だったし」
「大丈夫だと思います。朝から偉そうにしてたくらいですから」
「やっぱ俺様は俺様か」
そう言って目を細めた美作さんは、穏やかに続けた。
「まぁ、大切なものを忘れて自分を責めたくなる司の気持ちも分かるが、いつまでもそうしてたって仕方ねぇよ。本当に大切なのは過去じゃない。今や、その先の未来だ。司にとっても、牧野にとっても、な!」
私の肩をポンと一回叩いた美作さんは、私の言葉を待たずに「じゃあ、またな」と言って、プロジェクトチームの元へと行ってしまった。
────その先の未来。
そこには何があると言うのだろうか。
私の未来に大切な何かがあるとは、どうしても思えなかった。
「牧野さん、お電話です」
美作さんの背中を見送ったまま、誰も居なくなった廊下で一人佇んでいた私に、秘書課の人から声が掛かる。
「すみません。今、行きます」
「藤和物産の桑田さんと言う方からです」
「ありがとうございます」
藤和物産は、前に勤めていた会社だ。
同期で同じ部署にいた桑田さんは、可愛らしい女性で、藤和物産にいる頃は、頻繁にランチを共にする仲だった。
会社を辞める時も本気で寂しがってくれて……、そんな彼女に、辞めてから一度も連絡を入れていない薄情さに今更ながら気付く。
デスクに戻り受話器を取る。
「もしもし、お待たせしました牧野です」
「もしもし───」
女性じゃない声を訊いた瞬間、背筋が凍り、受話器を持つ手に力が入る。
普通に考えれば分かるはずだった。
スマートフォンに掛けてくるはずだ───本物の桑田さんなら。
反応を示さない私に構わず、必死に頼み込んでくる相手の声を、感情を飲み下し黙って聞く。
『────お願いします。一度会って頂けませんか?』
たっぷり逡巡する時間を置いたあと、淡々と告げた。
「…………場所と時間は私が指定します。それ以外は一切応じません」
『はい、結構です』
「では連絡先を。決まったら、こちらから電話します」
秘書課の人達に聞かれないように声を落とし、受話器の向こうから告げられる番号を素早くメモに書き込むと、それをスーツのポケットに忍ばせた。
「検査の結果はどうでした?」
病院から戻って来た道明寺に、お茶を差し出しながら訊ねる。
「何も問題ねぇって」
「そっか、良かった」
手にしていたトレーを胸に抱き安堵する。
…………それなら、大丈夫かな? 誘っても。
「あの、副社長?」
「ん? 何だ?」
「今夜、空いてます?」
「……今夜?」
昔の様に、誕生日パーティーは開かれていないことは知っていた。
だけど、誕生日当日だ。既にプライベートで予定が入っているかもしれない。
それならそれで仕方ない、と断られる覚悟で聞いてみる。
「もし、予定がなければ食事に行きませんか?」
「行くっ!」
凄い食い付きで間髪入れずの即答だった。
「え? 大丈夫なんですか? 他に予定とか───」
「予定なんか入ってねぇよ。入ってても、牧野を優先すんに決まってんだろ! 第一、おまえから誘われるなんて初めてじゃねぇかよ! 何を差し置いてでも行くっ!」
「仕事はきちんとなさって下さいね!」
この調子じゃ投げ出しかねないと念を押す。
「…………分かったよ。ちゃんとやる。但し、」
道明寺がジロリと睨む。
「ぜってぇ、逃げんじゃねぇぞ。こんだけ喜ばしといて、黙って逃走してみろ。今度は暴れまくってやるからなッ!」
「うっ……」
経った3分を待たずして逃走を図った、以前のことを言ってるらしい。
もし、逃走でもしたら……。
やる。この男なら絶対にやる。暴れまわるに違いない。
「だ、大丈夫よ! 今度はちゃんと終わるまで待ってるから。だから、きちんと仕事を終わらせてね?」
「おぅ。大人しく待っとけ」
ご機嫌な道明寺に頷き返し、執務室を出ようと背を向ける。
ドアを潜り廊下に出たその瞬間。
「よっしゃあーーーッ!」
道明寺の雄叫びが上がり、秘書課にまで聞こえるんじゃないかと、急いでノブを引っ張りドアを閉めた。
***
「道明寺、おめでとう」
「おぅ、サンキューな」
二人でグラスを合わせてから一時間。
人目を気にしないで済む料亭の一室で、昨日の暗さから一転、楽しく会話が弾んでいた。
それこそ、記憶の話に触れても大丈夫な程に。
「それにしても突然だったよね。急に頭が痛くなって思い出したんでしょう?」
「頭が痛くなって思い出したっつーより、昔と同じシチュエーションで刺激されたんだろうな」
「同じシチュエーション?」
「あぁ。ショーの演出なのか、船ン中で急に照明が落ちたんだよ。昔もあったろ、そんな同じ状況。で、頭が痛くなったと同時に、断片的にその同じ状況の映像が頭に浮かんだ」
何時のことだろう、と記憶を手繰り寄せる。
「……あ」
心当たりを見つける。
夏の熱海だ。
「思い出したか? おまえがファーストキスを俺に捧げた時だ」
得意気な顔してるけどね……、
「捧げてないから!」
「その他にもあったろ?」
ねじ曲げられた事実への抗議はさらりと流された。
その他にもってなんだろう、と思案にくれる。
「分かんねぇの? 次に俺の頭に浮かんだ映像はだな、」
ニヤリと笑う顔は、いじめッ子の少年そのもので、何となく嫌な予感がする。
「おまえの裸だ」
「なッ!」
「無人島に向かう船ン中で停電になったろ? まさか忘れてねぇよな?」
…………思い出した! 忘れてない。忘れてはいないけど忘れたい!
「な、何んでよりによってそんな場面思い出してんのよ! 変態!」
「変態とはなんだよ」
「そこだけもう一度忘れて! 永遠に思い出さなくて良いから!」
「そりゃ無理だ。しっかり脳内にインプットしてある。何度でも思い浮かべられるぜ?」
信じらんない!ニヤニヤしちゃって!
「今のおまえの裸見せてくれんなら、記憶を塗り替えてやってもいいけどよ」
「誰が見せるかっ!」
「つーか、おまえ顔チョー真っ赤!」
笑顔満載の道明寺はどこまでも余裕で、
「やべぇ。牧野の裸思い出したらムラムラしてきた」
「ッ! ムラムラすんなっ!」
人を追い込むのを楽しんでいるらしい。
そんな辱しめ攻撃に逃げる手立ては一つしかなくて、
「バカ! 照れたからって一気に飲むなっ!」
さっきとは打って変わって慌てる道明寺を無視して、元々酔いたい気分だった私は、目の前のグラスを水を飲むように煽った。
「ど~みょ~じぃ~。かんぱーい!」
「何回乾杯してんだっつうの」
「13回目! 今日はめれらい日なんだから~」
「呂律回ってねぇし。もう止めろ。ほら、水飲め」
「今日は飲みたいの~」
「牧野、何かあったか?」
「なーんもなーい!」
道明寺が隣に座って、心配そうに水を差し出し甲斐甲斐しく世話してくれてるのは覚えているけれど、
「やだーーーっ! まだ飲むーーっ!」
「へべれけだろうが。気持ち悪くねぇか?」
「らいじょーぶ、らいじょーぶ! 酒ッ!」
道明寺の言うことも聞かずに飲み続けた結果─────記憶は薄れ、遂にはブラックアウトした。

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