その先へ 44
突然に抱き竦められ、逃げ場のない腕の中で体が硬直する。
「少しでいい。このままでいさせてくれ……頼む」
首筋に顔を埋めた道明寺が泣いてるようにも感じて、昔から変わらない香りに包まれ、自然に力がスーっと抜けていった私は、黙って身を預けた。
息が僅かに苦しくなる程の強さで抱き締められ、やがて、道明寺はポツリポツリと話し出した。
「…………めでてぇよな」
「…………」
「あれだけ惚れた女、身勝手に忘れて」
「…………」
「再会したら、また好きだって騒いで。めでてぇ自分に吐き気がする」
辛そうに紡がれていく言葉は、僅かに震えている。
「記憶がないって知ってても、何も分かっちゃいなかった。俺達には、滋の島での想いがあったのによ。何でそんな大事なもん忘れんだよ……」
詰まらせた道明寺は、一段と私を抱く腕に力を込めた。
「あの日のおまえの涙が頭から離れねぇ」
「道明寺、それはもう……、」
自分を責める道明寺を庇うように発した言葉は、先を赦しては貰えず、
「あの日だけじゃねぇよ。おまえだけ忘れて辛く当たって、なのに、あの女を近くにおいて……。
あの女と付き合ってるって思ってたんだろ? どんだけ牧野を泣かせりゃ気がすむんだよ」
まるで、昨日の出来事のように、道明寺は自分を追い詰めていった。
「今更すぎて、もう仕方ねぇって思ってる。おまえが二度と俺のもんにならなくても。それでも…………、」
遣るせなさを背負った声音が、一際、儚く落ちる。
「…………それでも、好きでごめん」
「道明寺…………」
「牧野しか愛せなくてごめん」
抱き締められ、ストンと落ちたままだった両腕を広い背中にそっと回せば、ピクリと揺れる肩。
それは、怯えてるようにも思えて、安心させるように抱き締める腕に力を乗せる。
自分の行動に内心驚きながら、なんでこの場所は、こんなにあたしの体に添うんだろう────不意に浮かんでしまった思考は直ぐに遮断した。
「謝るのは私の方。そんなこと言ってもらえる資格、私にはないよ。だって私、決して良い彼女じゃなかったもの」
「そんなことねぇ」
「ううん。本当にそうなの。付き合う前から散々傷付けた挙げ句、記憶を失くした道明寺を、いらないって思ったんだよね、私。道明寺は、どんな私でも真っ直ぐに向かってきてくれたのにね」
道明寺が病院に運ばれたあの時を思い出す。
ガラス一枚隔てた先にいる道明寺が、もう手の届かない遥か遠くへ連れて行かれてしまうかもしれない恐怖。
あの時、私は確かに願った。
「道明寺も訊いてるでしょ? 道明寺が病院に運ばれて、ICUで一度心臓が止まったって」
「あぁ」
「あの時ね、神様にお願いしたの。どんなことになってもいい。連れて行かないでって」
苦し気に私の名を呼ぶ道明寺の吐息が首筋にかかる。
「願いは叶って助かってくれたのにね。それなのに、何がどんなことになってもいいよね? 忘れられたからって、もういらないだなんて、よっぽど私の方が身勝手で傲慢。
あの時、記憶を失くして一番混乱していたのは道明寺だったのに、道明寺を思いやることすら出来なかった。ごめんね、道明寺」
「違ぇ。そう思わせたのは俺だ。それだけ牧野を傷付けたってことだ。だからおまえは……、」
そこまで言って、何故だか道明寺は言い澱んだ。
「道明寺?」
止まってしまった先を促せば、言いにくそうに道明寺は口を開いた。
「…………だから、失くした記憶なんて気にすることねぇって、忘れろって言ったんじゃねぇのか? 散々、傷付けちまったもんな。
おまえに取っては、思い出したくねぇ忘れたい過去だったんだろ?」
私の誕生日の時のことか、と思い当たる。
確かに言った。
言ったけど、意味合いは全く違う。
記憶を取り戻して欲しくないとすら思った私の真意は、全く別のところにある。
「それ、違うからね?」
真意を隠し意識して明るく紡ぐ。
「好きで思い出せない訳じゃないんだから、気に病むことないよって意味で言ったのよ?」
思い出したところで、所詮、あの頃には戻れない。
こうして平然と嘘を吐けるほど大人になってしまった千切れた時は、決して結ばれることはない。
「でも、やっぱり思い出してくれて嬉しいかな。
頑固で意地っ張りで可愛げなかったけどさ、それでもあの頃、17の私は、私の精一杯で道明寺を好きだったし、あんなウブな時代は二度と戻らないもんね。
…………そんな純粋な頃のあたしを、一番良く知ってるのは道明寺だから……、だから、かけがえのないあの時を、やっぱり思い出してくれて、ありがとう」
無邪気で、感情に赴くままで。
間違いも一杯あったけど、澱みなく純粋で輝いていられたあの頃。
あの頃とは、何もかもが違う。
嘘を吐きながら、今も本心を織り込ませられるくらい、器用な大人になってしまったのだから。
それにね、と回していた腕を解き、道明寺の胸を両手で押して、顔が見れるように距離を作る。
「忘れちゃったよ」
探るように見つめる道明寺から、目を逸らさずに続けた。
「苦しいとか辛いとか、そんな痛い気持ちなんて、もう忘れちゃった。
今も残ってるのは、大切な思い出だけ。
道明寺と付き合えたこと、ちっとも後悔なんてしてないもん。
だから、そんなに気にされたら、私が困るの! 折角の大事な思い出、そんなにどんより暗いものにしないでよね!」
「……牧野」
「それとも何? 俺が悪かった私が悪かったって、二人揃って辛気臭い時間をこれからも過ごしたいわけ?」
道明寺は、思い切り頭(かぶり)を振った。
「道明寺に合わせて、私までメソメソした方がいい?」
「駄目だっ! そんな風にさせたい訳じゃねぇ!」
「はい、だったら、この話はお仕舞い!今は、大切な友人として、こうして近くにいるんだから、ね?」
顔を伏せた道明寺が、
「……そうだな」
弱い声を落とし、自嘲的な笑みを浮かべる。
「あーぁ、お茶冷めちゃったね! 淹れ直してくるね」
立ち上がりかけた私の腕を道明寺が掴んだ。
「いい、これで。勿体ねぇだろ」
そう言って冷めた紅茶に口をつけた道明寺は、次の瞬間には顔を遠慮なく顰(しか)めさせた。
「ジンジャーティー、口に合わなかった?」
「い、いや、大丈夫だ」
言葉とは真逆に、顰め具合がもう一段引き上がる。
無理して飲んでいるのが丸分かりで、クスッと笑み溢せば、道明寺も微かに笑う。
全部飲み干しティーカップを置いた道明寺は「ご馳走さん」の後に、辛うじて聞き取れる位の、本当に本当に小さな声で、
「ありがとな」
そう言うと、時計を確認して立ち上がった。
つられて私も壁時計を見れば、時刻は長短の針が一つに重なったところだった。
「遅くまで悪かった」
私の頭をポンポンと叩いて玄関へと向かう。
玄関で靴を履くその背中を見ながら、突然思い出した私は、
「あぁーーーっ!」
「うぉっ! どうした?」
「ちょっと待ってて!」
夜中に相応しくない叫び声を発し、驚く道明寺を置き去りにして踵を返した。
自分の部屋に駆け込み、閉まっておいた物を手にすると、急いで玄関へと引き戻る。
「どうしたんだ?」
後ろ手に持ってきた物を隠したまま、笑顔で道明寺を見上げた。
「道明寺、お誕生日おめでとう!」
「…………あ、そういや日付変わったっけか」
誕生日を迎えていたことに気付いた道明寺に、隠し持っていた一つを差し出す。
「これ、お正月に社長から預かってたの」
渡したものは、楓社長からのバースデーカードだ。
「…………ババァから?」
「うん。直接渡せば良いのにね? 当日は日本に居ないから渡して欲しいって。来月も日本に戻ってくるんだし、その時にでも渡したらどうですか? って言ったんだけどね。圧ある視線に負けて頼まれちゃいました! 社長、照れてるんだね?」
複雑そうな表情で道明寺がカードを開く。
そこに何が書かれているのかは分からないけれど、複雑なものから口端を僅かに引き上げ変化した表情をみると、母親の気持ちに少しは触れることが出来たのかもしれない。
「それと、これは私から……。何でも持ってるだろうから気に入るか分からないけど、よかったら……」
一瞬だけ驚いた顔を見せた後、道明寺の表情が、じわじわと嬉しさを滲ませた笑顔に変わる。
「開けてもいいか?」
「うん」
用意したプレゼントは、ブランド物のベルトだ。
靴で有名なそのブランドは、革の評判も良く、ダブルガンチーニのバックルが付いているベルトのレザー部分は、リバーシブルになっている。
ビリビリと破かれていく包装紙を苦笑しながら受け取る私に、赤い箱を開けた道明寺は、少年のように弾けた笑みを向け、
「すっげぇー、嬉しい!」
言うなり、空いてる手で肩を抱き寄せられ…………固まった。
「っ!」
突然に触れる感触。
それは、本当に一瞬のことで、何があったのか、脳が受け入れるのにも混乱する程の早業で……
「今のもプレゼントってことにしとけよ」
そう言われて初めて、やっぱりそうなんだと、身に起きたことを知る。
「大切にする。ありがとな」
此処に来た時と同じ人物とは思えないほどの満面の笑みで「じゃあな」と、颯爽と玄関を出て行った道明寺に、私は何も声を掛けられなかった。
唇に指先を押し当てたまま、13年ぶりのキスを受けた私は、道明寺が居なくなっても尚、暫く玄関で立ち尽くしたままだった。

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