その先へ 43
夜も10時を回り、進と一緒にリビングで寛いでる時だった。
突如として来訪を告げるチャイムが奏で、二人で怪訝に顔を見合わす。
「誰だろ、こんな時間に」
「俺が出るよ」
立ち上がり、来客を映す画面の前に行く進を目で追う。
「 道明寺さん!」
画面を見るなり進が声を高くした。
全くもう! 連絡するとは言ってたけど、まさか家に来るとは……。
相変わらず非常識なんだから。
「道明寺さん、こんばんは。どうぞ、上がって下さい」
画面の向こうに声をかけた進は、何の躊躇いもなくエントランスのオートロックを解除した。
「姉ちゃん、何か様子がおかしかったよ?」
振り返った進の言葉に、まさか酔ってるとか? と眉間に皺を寄せつつ、仕方なく玄関へと向かう。
鍵を解錠し、ドアを押し開け道明寺を待つ。
その姿を捉えた瞬間、なるほど、と眉間の皺を元に戻した。
「…………牧野」
弱々しい声に「良いから中に入って」と、この行動の意味を一瞬にして察知した私は、腕を掴んで玄関に引き入れた。
「進! お願い、バスタオル持って来て!」
部屋に向かって声を張り上げる。
目の前の道明寺は立ち尽くしたままだ。
直ぐにバスタオルを持って来てくれた進も、道明寺を見て唖然としている。
パーティーに行った時の出で立ちのまま、道明寺は、頭から爪先まで全身ずぶ濡れだった。
外は土砂降りだ。そんな中を歩いて来たのだろうか。
「どうしちゃったの? 立派なクルクル、こんなに伸ばしちゃって!」
努めて明るく振る舞い、ふざけるように髪の毛を軽く引っ張ってみても何も言わない。
進から受け取ったバスタオルで、顔やら髪やら拭いても、道明寺はされるがままだ。
「体も冷えきっちゃってるじゃない! 取り敢えず、お風呂に入って? このままじゃ風邪ひいちゃう!」
「…………牧野」
「うん?」
道明寺の力を失った眼差しが私を映す。
「…………思い出した。全部……記憶を」
「うん、だと思った!」
クスッと笑って見せると、道明寺は口元だけ「え」と形どり、驚いた表情で見つめる。
背後にいる進は、道明寺の告白に驚いたのか、詰まるような声を漏らし、それ以上は押し止めたみたいだった。
私が動じなかったのは、最初に道明寺を見た時に分かったから。道明寺の様子で全てを察したから。
あぁ、この人はとうとう思い出してしまったんだ、と。
髪の毛から滴る水滴も気にせず、肩を落とした道明寺は、普段よりも一回り小さく見えて……。
鋭さが消えた瞳には哀傷の色が宿り、醸し出す雰囲気からも、その表情からも、全てが彼の傷と後悔を滲ませているようだった。
ただただ落胆しているところを見れば、考えられるのは一つだけ。
────失くした記憶の回復。
若い頃は滅茶苦茶なこともした人だけど、本質はピュアで優しい人だ。
それ故に、空白の時間の全てが痛みとなり受け止めてしまってるに違いない。
「牧野、俺は……、」
「はいはい、話は後でね! お風呂が先よ! 進、悪いけど着替え貸してくれる?」
「あ、うん。新しいスウェットあるから。今、持ってくるよ」
「ほら、道明寺早く!」
靴を脱がせ、水を含んだ衣類のせいだけではない重くなった体を、後ろから押して風呂場へと案内した。
「狭いけど、まだ誰も湯船に入ってないし綺麗だから、ちゃんと肩まで浸かってね? 温まるまで出てきちゃダメだからね? それと、西田さんには、ここに来ること言ってきた?」
道明寺が小さく首を振る。
やっぱり。そもそも、この格好だ。
自宅にも帰らず、ここに来ることしか考えられなかったのかもしれない。
「きっと心配してるだろうから、電話入れとくね!」
バスタオルとタオルを渡し、
「そんな顔しないの! ちゃんと話も訊くし、ね?」
頼り気ない眼差しの道明寺に告げて、その場を後にした。
道明寺は、パーティーの最中に頭痛に襲われたと言う。
心配してるだろう西田さんに、直ぐに電話を入れ訊いた話だ。
苦痛に歪む道明寺を、抱えるようにして美作さんが車に運んだまでは良かったけれど、暫くして信号に捕まり停止した車から、一人勝手に降りてしまったらしい。
探しても見つからず、電話を鳴らしても応答がないままで、私にも連絡するところだったと、西田さんは安堵を滲ませ教えてくれた。
『記憶を取り戻したみたいなんです』
静かにそう告げれば『そうでしたか』と、西田さんは納得したようだった。
『牧野さん、こんな時間に申し訳ないのですが、司坊っちゃんの話を訊いてあげては貰えませんか?』
道明寺を副社長とは呼ばなかった西田さんに『はい、勿論です』と即答した。
それから、着替えを直ぐに届けると言った西田さんは、近くに居たのか、道明寺がお風呂から出る前に服を持って現れた。
車には、常に道明寺の着替えが一式揃えてある。
とは言え、こんなに早く届けられたのは、よっぽど心配して、私の所にも訪ねるつもりでいたのかもしれない。
部屋に上がるよう勧めても断った西田さんは、車の中で待っているからと、頭を下げ玄関を出て行ったのは五分前のことだ。
「姉ちゃん? 道明寺さん、記憶……、」
「思い出しちゃったみたいだね。まあ、近くに居すぎるから、記憶が戻っても戻らなくても同じかもしれないけどさ」
キッチンでお茶の準備をしながら黙ったままの私を、進がチラチラと気に掛けているのには気が付いていた。
何か言いた気なことにも……。
「姉ちゃん!俺は……、」
「見たでしょ? 道明寺が塞ぎ込んでる姿」
意を決したように力の籠った進の声を阻む。
「考えは変わらない。絶対に」
「…………姉ちゃん」
「何も言わないで。お願い」
進の顔を見ずに、一方的に会話を断ち切った。
沈黙が降りた中、リビングの扉が開く音がしてキッチンから顔を出す。
扉の前では、道明寺が突っ立ったまま動かないでいる。
「ちゃんと温まった?」
「…………あぁ」
道明寺の傍に行き顔を窺えば、来た時よりも血色は遥かに良い。
「ほら、ソファーに座って?」
道明寺の手を取りソファーへと誘導する。
「着替え、西田さんが持って来てくれたんだよ? 心配してたんだから。車で待ってるって」
「…………」
「今、お茶持ってくるね」
無言のままの道明寺を置いて、またキッチンへと戻ると、入れ替えに進が道明寺に近付き、話しかけるのが聞こえて来る。
「俺、席外しますから、ゆっくり二人で話して下さい」
「…………すまない」
「大丈夫ですから! 気にしないで下さい!」
人懐っこい声で返した進は、そのままリビングを出て行き、少しすると玄関からドアの閉まる音がした。
「はい、お待たせ! これね、凄く温まるの!」
道明寺と自分にも用意した紅茶には、すり下ろしたしょうがと蜂蜜を少しだけ入れてある。
差し出した紅茶には目もくれない道明寺は、膝の上に肘を置き、組んだ手元一点だけを見つめていた。
トレーを端に置いた私は、自ら道明寺の隣に座り、覗き込むように声を掛けた。
「道明寺? まだ頭痛む?」
「…………痛くねぇ」
「念のため、明日病院に行こうね?」
「……大丈夫だ」
何とか短い会話を為し、ゆっくり顔を上げた道明寺は、私と視線を重ね合わせる。
「牧野…………ごめん。ごめんな」
喘ぐように絞り出された声。
これ程までに、苦渋に満ち悲痛にまみれた声を聞いたことがない。あの、雨の別れの時でさえも……。
経験がない分、殊更に胸を抉られる。
「道明寺、そんなに気にしないで? 急に思い出して混乱してると思……ッ!」
言葉は継続出来なかった。
それは、あまりにも唐突で、抵抗する間もなくて……。
強い力によって腕を引かれた私は、広い胸へと倒れこみ、道明寺に抱きすくめられた。

にほんブログ村