その先へ 36
射し込む一筋の光に照らされ、瞼を開ける。
…………良く寝た。
まだ、はっきりと覚醒しなくても分かる。
昨日までの気だるさが微塵も感じられないほど体は軽い。
安眠へと導いてくれたのは、間違いなく小さな手だ。
その小さな手の持ち主の姿は、当然もういない…………が、どうしてだ?
「なんでおまえが居んだよ」
隣にいる返事をしない相手に何度も瞬きをしてみる。
暫く呆然としたあと、ベッドサイドにあるスマホを確認すれば、西田から今日は休んでいいとのメールが入っていた。
時間は午前10時40分。
いつの間にか点滴も外されていた俺は、シャワーを浴び、急いで身支度をした。
ネクタイを結び終え、もう一度、隣で一緒に寝ていたらしいヤツに目を向ける。
「分かんねぇ」
何度見てもコイツ───ガキの頃に持っていたウサギの縫いぐるみが、何故こうして此処にいるのか分からず、首を捻りながら部屋を後にした。
***
私と西田さんは驚きで目を見開き、そして、直ぐに同時に溜息を吐き出した。
立て直しを図った西田さんが、私達を執務室へと促しドアを閉めたところで、溜息を吐かせた張本人を、改めて見ながら仕方なく訊ねる。
「副社長、今日はお休みのはずですが?」
「おぅ、仕事はしねぇから安心しろ」
「訊きたくはないのですが、では何故出社を?」
「決まってんだろ。牧野とのランチの時間だからだ」
ソファーにドカッと腰を下ろした道明寺が当然の様に言う。
下を向き米神に指を押し宛てる西田さんを見て、項垂れそうになる自分に叱咤した私が、今度は会話を引き取った。
「まさかとは思うけど、それだけの為に?」
「まぁな」
「誰にも言わずに、SPの方達も付けずに来ちゃったの?」
「おぅ、忘れてた」
…………忘れてたじゃない!
何度訊いても悪びれた様子はなく、寧ろ、笑顔でご機嫌にすら見える、我が上司。
本来なら、体調不良で休みの手筈になっていたのに、何故かこうして現れた。
朝のミーティングでも、秘書課全体にその旨は伝えてあっただけに、突然、昼前に姿を見せたことに、その場に居た全員が何事かと驚き、目を丸くさせたのも無理はない。
しかも、誰にも言わず、西田さんにさえ知らせもせずに、だ。
「あのね、体調が優れないからの休養でしょ? 会社に来たら意味ないじゃない。今日は戻ってゆっくり休んで!」
「夕べは、飯食わねぇと体調戻んねぇって言ってなかったか?」
「言ったわよ、言いましたけどね? 動き回ってちゃ、良くなるものも良くならないでしょ? 食事ならお邸で食べなさいよね!」
「やだね」
そっぽを向いた聞き分けのない大きな子供を相手に、私まで具合が悪くなりそうだ。多分、西田さんも。
「仕方ありません。今日は副社長がお休みだと思って昼食の用意はしておりませんでしたので、これから買いに行って参ります」
早くも諦めの境地に身を置いたらしい西田さんを止める。
「でしたら、私が買ってきます!」
申し出た私に、西田さんは小さく左右に首を振ると、サインを送るように副社長へと視線を向ける。
それを辿るように、道明寺に目を流せば…………。
「何で西田さん睨み付けてんのよ!」
早く行けとばかりに、西田さんに鋭い睨みを利かせていた。
「牧野さん、平和的解決する為にも、私が行って参ります」
「はぁ……どんだけワガママ坊っちゃんなのよ」
盛大に息を吐き出す私に、低い声が向けられる。
「坊っちゃんだと?」
発信元はこちらです、と縋るように西田さんを見れば、サラリと視線を外され、「行って参ります」と、身を翻し上手く逃げられた。
道明寺と二人きりになり、またも勝手に漏れる溜息。
「おまえも座れ」
「いやいいよ。西田さんが帰ってくるまでの間に、少しでも仕事進めときたいし」
「いいから座れって」
人の話を訊かぬ道明寺は、私の手を取り強引に座らせた。
「これで良いんだろ? おまえが一番好きなの」
何やら横を向いてガサコソさせてると思えば、隣にある袋から取り出した物を私の前に置く。
それは、一階にあるカフェで買って来ただろう物で、前に好きなドリンク名を訊かれ、道明寺が手帳に書き込んだのと同じ物だった。
「また買ってきてくれたの?」
「おぅ。これで合ってんだろ?」
…………どうしよう。
ダメだ。どうしても道明寺が犬に見えてしまう。
尻尾をブンブン振って、どうだ凄いだろ、褒めてくれ! と言わんばかりの得意気で。
どうにもこうにも笑みが溢れて、これは気持ちに応えてあげるべきなんじゃないかと思わずにはいられなくて、
「うん! そうコレコレ! ありがとう!」
そう返せば、更に尻尾の振り幅を大きくさせたように、道明寺は満面の笑みとなった。
「そう言えばよ、おまえが居た時、俺の枕元に縫いぐるみあったか?」
ドリンクを飲む私の傍らで道明寺に訊ねられたのは、ウサギの縫いぐるみのことだ。
昨夜は、道明寺が眠りにつくのを待って、繋がれていた手を何度も離そうと試みたけど、寝ているはずの道明寺は、なかなか離してはくれなかった。
起きてるのかと疑うほど、離そうとすればするほどに力が加えられて……。
何とか離れることに成功した後で、ウサギの縫いぐるみを枕元にそっと置いて道明寺の部屋を出てきた。
「あれね、私がずっと預かってたの。だから昨日、返すのには丁度良いかなって。
元々、社長が持ってたんだよ? 12年前、道明寺が病院に運ばれた時、社長があの縫いぐるみを持って来たの。ずっと大切に取ってあったんだね」
如何にも怪訝そうに道明寺の眉間に皺が寄る。
「ババァが?」
「そう。分かりづらいけどさ、社長は道明寺が思うよりずっと母親としての愛情を持ってるってこと。道明寺に取っては受け入れがたいかもしれないけどさ、 少なくとも私の目には、そう映ったかなぁ」
しかめ面なのは、社長に対しての不審からなのか。それとも、大の男としては、母親の愛情を語られ気持ちの据わりが悪いのか。
不器用な親子関係はもどかしいけれど、他人が取り成せるほど単純にはいかないのが肉親というものだったりする。
ゆっくりで良い。秘められた愛情の側面ににだけでも、目を向けられる日が来ればと願わずにはいられない。
「想いの深い大切なものだと思ったから、責任もって大事に預からせて貰ってたの。…………ってまさか、縫いぐるみ捨てたりしてないわよね?」
表情を変えぬまま「あぁ」と道明寺が続ける。
「部屋で留守番してる」
留守番って……。
意外な言葉のチョイスに思わず吹き出す。
道明寺の帰りをちょこんと座って待ってるウサギの姿までも想像して、笑いが止められなかったけど…………。
私が余裕でいられたのはここまでだった。
暫くした後。昨夜、言われた『──覚悟しろよ』の意味を思い知らされることとなる。
「ちょ、な、なんなのよ!」
ソロリソロリと然り気無く距離を取ろうとする私と、にじり寄って来る道明寺。
西田さんが調達して来てくれた、お弁当を食べる時になってからのことだ。
いつもなら向かい合って座るのに、何故か今日は隣から離れない。それもピッタリくっつく程に。
「惚れた女の隣に居てぇと思うのは普通だろ」
平然と言い退ける道明寺は、「た、食べづらいでしょうがッ!」と私が反論しても全く動じなくて……。
「なぁ、今日は喰わせてくんねぇの?」
余裕顔でグイグイ押してくる。
「なぁ、牧野。喰わせて?」
甘い声で囁いてくる。
ひたすら無視を決め込み、掻き込んで食事を終わらせれば、
「おまえ、眠くねぇ? 夕べは俺の看病で帰り遅かったろ?」
「大丈夫。全く問題ないから」
きっぱり否定したのに……。
「膝枕してやろうか」
「…………」
「それとも……」
「…………」
「添い寝してやろうか」
そう言って私の髪を一束掬い取り、指先で撫で遊ぶ。
どうやら昨夜の宣言通り、この男は有言を実行しだしたらしい。
覚悟しとけ、と確かに言われた。その前に、体調が良くなったらとも言ってたはず。
だとしたら……
「西田さんッ!」
立ち上がりドアを開けると、助けを求め押し付けた。
「副社長はセクハラ出来るほど体調は万全みたいなので、直ぐにでも仕事を与えて下さいッ!」
深い溜息と共に呆れ顔の西田さんに任せ、その場は何とか逃走に成功したけれど、こんなことで諦める男じゃなかった。
それからと言うもの、ランチの時に隣に座るのは当たり前。電話やLINEは一日何回も来るようになった。
師走の忙しい時期なのに食事の誘いも増え続け、何とか今のところは逃げ果せている。
クリスマスイブは、私はミチさんと先に約束をしていて、神島家に招待されていたから悩むまでもなく断わり、クリスマスはラッキーなことに、同伴の必要のないパーティーに、道明寺が参加しなきゃならなくて難を逃れたけれど…………甘かった。
仕事納めの28日。
いつもより早く帰宅した私は唖然とする。
玄関を上がりリビングへと続くドアを開ければ……。
そこには笑顔の道明寺が居た。

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