Precious Love 2
あれから直ぐに優紀さんに連絡を入れ、先輩と優紀さんが住むマンションへと来ていた。
優紀さんと二人、息を潜めてソファーに座り、私達がいるリビングから繋がる一室のドアの向こうにと想いを馳せる。
その部屋からは、何かが落ちる音や、何かを叩く音、何かが割れる音が響いていた。
止めに入りはしなかった。
我慢させる方が不健全に思えて……。
やがてそれらの音は消え、先輩の慟哭だけが哀しく響く。
立ち上がりそうになる優紀さんの手を押さえ、首を左右に振った。
「今は、存分に泣かせてあげましょう」
そう言い添えて。
眉を下げ瞳に涙を浮かべる優紀さんは、遣りきれなさを滲ませ俯く。
私も気持ちは同じだ。
何でこんなことになったのか。
二人の関係だけは容易く壊れたりなんかしないと信じていたのに。あろうことか、知らない他の誰かと結婚したいだなんて……。
私達にとって、先輩と道明寺さんは、憧れであり希望の光だった。
それだけに、何本ものナイフが突き立てられたように胸の痛みも激しい。
私でさえ、こんなにも痛くて苦しいのに。そう思うと、余計に痛みの深さが増す。
出来ることと言えば、邪魔をせずに感情を吐き出させてあげることだけ。
それが傷を負った心の自浄になると信じるしかなかった。
ドアの向こうに静けさが戻ったのは、暫くしてからだった。
泣き声が止み5分程経っただろうか。
優紀さんと確認し合うように頷きあって立ち上がると、部屋の前へと進みドアをノックする。
ガチャ、と静かに向こう側からドアが開かれ、先輩の顔を見るなり優紀さんが息を呑む。
「あー、スッキリした! あ、桜子も来てくれてたの?」
先程まで泣き叫んでいた人物とは思えないほど、不自然に笑顔を取り繕っている姿が痛ましい。
そんな笑顔の先輩に動揺を悟らせないよう、全身に素早く目を巡らした。
「えぇ、お邪魔してます」
「ごめんね、心配かけて。でもさ、何か暴れたらスッキリしちゃって」
「へへ」と笑う先輩の部屋を覗き込めば、本は散乱し、乱れたベッドの下にはガラスのフォトフレームが割れ落ちている。
誰の写真かは確かめるまでもない。
「なんかさ、昔、道明寺がよく暴れてた気持ちが少しは分かった気がするよ」
暴れたからって、直ぐに気持ちが浮上するはずないのに、この人はこうやって気を遣い笑顔を作る。
…………道明寺さんの名前を出してまで無理をするのなら、気付かないふりをして、とことん先輩の調子に合わせるしかないじゃないですか!
込み上げて来るものを抑え、言えない思いを胸に据え置く。
「随分と派手にやらかしましたね。まぁ、たまには良いんじゃないですか? 但し、その顔は何とかして下さい。顔に血をつけて笑顔見せられても、ハッキリ言ってホラーですよ、ホラー。優紀さん、驚いちゃってますよ」
反応の鈍い先輩に「それが原因ですね」と、視線で原因を指し示す。
私の目の動きを追いかけた先輩は、たった今気が付いたように「あ……」と呟きを溢した。
血の付いた先輩の顔を見た瞬間、優紀さんが息を呑んだ様に私も血の気が引いた。
ただ良く見れば、そこが出血元じゃないと分かり、怪我の場所と状態を直ぐに確認するように、全身を見回して見付けたのは左手の傷。
それは、親指と人指し指の間が数センチほどが裂けていて、色を赤く染めていた。
フォトフレームの割れたガラスの破片で切れたのか、その手で拭ったのかもしれない瞼の下には、ひと刷毛(はけ)したように血が付いていた。
「そう言えば痛いかも……」
「先輩、病院行きますよ。ザクザク縫って貰った方が治りが早いですからね」
敢えて大したこともない風を装う。
「ザクザクって……怖いんだけど、桜子」
「麻酔するから心配要りませんって」そう言ったところで私のスマホが鳴り、
「優紀さん。ガーゼで先輩の傷口宛ててもらえますか? それと、先輩の顔もついでに拭いてあげて下さい」
頬の血だけではない、目も鼻も真っ赤にした先輩を優紀さんに任せ、二人が洗面室に向かったところで、花沢さんと表示されたスマホに出た。
「類、ごめんね。迷惑かけて」
「大暴れしたって訊いたけど、何人と戦ってのその傷? 被害者はいない?」
「た、戦ってないからッ! 部屋でちょっとモノに八つ当たりをしたら、ドジっちゃって……」
尻窄みになる先輩に、花沢さんがクスッと笑う。
心配で駆けつけた花沢さんは、先輩のマンションの下から私に電話をかけてきたらしい。
事情を説明すれば、「乗せてく」と言ってくれた花沢さんの車で、こうして病院へと向かっている。
優紀さんは、先輩が戻ってきたら直ぐに休めるよう、部屋を片付けておくからと留守番を買って出たけれど、恐らく、泣いてしまいそうで堪えられなかったのかもしれない。
先輩に合わせて、花沢さんも私も軽い掛け合いで応じる暗い夜の道のり。
この暗い夜が少しでも早く明けるようにと願った。怪我と一緒に、心に受けた傷も早くに塞がるようにと、笑みを保ちながら願い続けた。
「……道明寺さん、本当に結婚するつもりなんでしょうか。別の女性なんかと」
病院の処置室で先輩の治療を待つ間、待合室の長椅子に花沢さんと二人、互いに正面を向いて並んで座る。
夜の緊急で訪れた病院は、人影などほとんどなく、照明を最低限に落としてあるせいで、薄暗さが余計に気分を滅入らせた。
「するんじゃない?」
余りにもアッサリ返され、思わず花沢さんの横顔を見る。涼しい顔に乱れはなく、
「それも、思ってる以上に早く」
付け足された言葉に、逆に自分の顔には剣が刺すのを感じた。
「道明寺さん、あれから何か話されたんですか?」
「何も」
「ならどうして?」
「消去法でいくと、そういう仮説が生まれる」
何処までも乱れを見せない表情からは思考を読み取るのが難しい。読み取れない以前に、花沢さんのように"消去法"という思考に及ばずにいる自分にもどかしさが募る。
「先ず、この結婚は既に決まってると考えた方が良い。そして、覆せない」
「やはり、政略結婚で逃げ切れなかったと?」
急いてしまうのは、どこかで道明寺さんの心変わりなんて有り得ないと、希望的観測を捨てきれないせいだ。そんな縋るような気持ちの前で、花沢さんは首を横に振った。
「俺達に招待状を送るって言ってたけど、それって既に決まっている物言いだよね。だからって、こんなに早く物事が進んいる状況イコール、逃げ切れずの政略結婚って結び付けるのは、チョッと乱暴かも」
浅はかに政略結婚を疑った自分を咎められているようで、リノリウムの床に向かって僅かに顔を俯かせた。
「政略結婚を迫られて直ぐに折れるほど、司は柔じゃない。昔とは違う力だって付けてる。こんな短期間で屈するはずがない」
花沢さんの声には、どこか道明寺さんを信じて疑わないような強い響きがあった。
事実、言われてみればそうだと納得する。
2ヶ月前に極秘帰国した際には、先輩を独り占めして恋人らしい時間を過ごしていたはず。それがこの僅か2ヶ月の間に、もし政略結婚を仕掛けられたにしても、受け入れるには早すぎる。
アブビダの石油王との提携を始めとする実績を作ってきた道明寺さんは、内外共にその実力を示しつつ立場を固めてきた。
昔とは違う今の道明寺さんなら、圧力に屈するどころか、跳ね返すだけの力もあっただろうと考える方が説得性もある。
「逆に恋愛結婚だとしても、今や司は、自分の立場ってのも理解している。喩え好きな女が出来て結婚したいにしても、直ぐに結婚って突っ走れないし、タイミングを図らないはずがない。実際、今まで牧野との結婚を強行突破しなかったのがその証拠」
今回は矛盾多すぎでしょ、サラリとそう付け加えて花沢さんは結論を出した。
「つまり、恋愛結婚だと思わせる現況にならざるを得ない緊急事態が起きた。しかも、こんなに早く結婚って言い出すからには、司の意図的意志も加わって推し進められてるってこと。司の意思なしでは考えられない」
道明寺さんの意思はあっても恋愛結婚ではない。だとすれば、やはり背景には何かが潜んでいて、それは一体……。
「三条だって言ってたじゃない。 何故、俺達を立ち会わせたか、って。俺達に結婚を報告するためって言ってたけど、そんなの有り得ない。常に時間のない男が、そんな無駄な動きはしない、ってことは、そうする必要があったってことでしょ。理由は分からないけど、何かがある。そう言う意味では、政略的な要素も含まれてるのかも。決して押し付けられたんじゃない政略が、ね」
「仮にそうだとすると……じゃあ、道明寺さんの気持ちは、まだ先輩に?」
「司の気持ちは……、」
そこまで言ってピタリと言葉が止まる。
花沢さんの目線を追えば、処置室から出て来る先輩の姿があって、花沢さんは直ぐに立ち上がった。
「牧野、もう終わったの?」
柔らかい声をかけ、先輩の元へと歩む花沢さんの後ろに続く。
花沢さんの言いかけた言葉は何だったのか……。
気にはなるけれど、先輩に訊かせる訳にはいかない。全ては仮説であり不確定要素ばかりだ。
今はもうこの話は畳むしかなかった。
「ごめんね、お待たせしちゃって」
包帯を巻いた左手を見せた先輩は「ザクザク縫って貰いました」と笑う。
数針縫い、後は薬を貰い会計を済ませるだけだと言う先輩に願い出た。
「先輩? 今夜は先輩のマンションに泊まらせて貰っても良いですか?」
「それは勿論いいけど、でも桜子? もう大丈夫だよ。心配しないで」
申し訳なさそうに返す先輩に「いいえ」と透かさず返す。
「明日の朝、私が居ることに感謝しますよ? 仕事を休むなら別ですけど、そのつもりがないなら私がメイクを請け負います」
見るからに泣いたと分かるだろう先輩の目は、既にもう瞼が腫れ上がっている。
暫く考えてから思い当たったのか、一段と申し訳なさそうに肩を竦めた先輩は、お願いしますと小さく呟いた。
その夜は、いつまで経っても睡魔に襲われることはなかった。
一体、道明寺さんに何があったのか。
どうして先輩を泣かせるしかなかったのか。
せめてもの拠り所は、大切な人に違いない先輩が泣く立場にあるにも関わらず、花沢さんがどこまでも冷静に状況判断していることと……。
認めあってる男同士の絆があるからなのか、道明寺さんを信じているような花沢さんの言動だけが救いだった。
そして翌日───。
花沢さんの仮説の一つが、早くも的中する。

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