その先へ 35
威嚇をしたきり、道明寺は動きもしない。
「副社長?」
声を掛けてみれば、その体は面白いほど大きくビクリと揺れた。
まさか、私が来るとは思ってもみなかったのかもしれない。
「寝てないなら食事にしよう?」
「…………」
「ね、副社長!」
「…………」
「副社長ってば! 起きてるんでしょ?」
気不味いのか、声も出さなければ、さっきは跳ねた体も動きを見せない。
あの思いも掛けない告白を受けてから、初めて顔を付き合わせるわけだから、気不味いのはお互い様だ。
かと言って、変に意識しすぎて引き摺るのだけは避けたい。
「食事を摂らないって訊いたから来てみたんだけど……。そんなに嫌なら仕方ないか。でも、いつまでもそんな風ならお説教だからね! 栄養のある不味いドリンクを無理矢理にでも飲ませますから! 一先ず、今日のところは諦めて帰るよ。せめてゆっくり寝てよね?」
あくまで普段と変わらない、と思われるように振る舞えば、言い終わるや否や、くるりと背を向けた私の手首は突然に掴まれた。
「帰んな!」
「ぎゃっ!点滴っ!」
振り返れば上半身を起こし身を乗りだした道明寺は、依りにもよって、点滴で繋がれている左手で私の手首を掴んでいる。
そのせいで、点滴の細いチューブは遊びがなく、ピーンと張っている状態だ。
「分かったから帰んないから、手を先に離しなさいってば!点滴がーーっ!」
慌ててベッドとの距離を詰めてチューブを弛まそうと気にする私と、不機嫌さを表情に乗せて、点滴など気にも留めない道明寺。
その手が漸く離れると、照明を明るくするためにリモコンを操作する道明寺の腕やらチューブやら、異常はないかと目を走らす。
「全くもう。起きてるなら最初から無視なんてしないでよね!」
点滴の針は外れてもいないようだし、血も逆流もしてないようだ、とホッと息ついたのも束の間。不貞腐れた声が落ちた。
「なんで役職呼びなんだよ」
「…………まさか、それが気に入らなくて無視を?」
イタズラが見つかって拗ねた子供のように、何も言わずに横に視線を逃したのが答えらしい。
「はいはい。じゃあ、道明寺? ご飯食べようね?」
ワガママ坊っちゃん発動中だから仕方がないと仕切り直し、上体を起こしている道明寺の背中とベッドの間にクッションを挿し込んで、姿勢を安定させる。
トレーに乗せたお粥を道明寺の前に差し出せば、
「食欲ねぇ」
声音を落としたその表情は、確かに疲労の色も濃い。
「少しでも食べないと体力回復しないでしょ? ね、ちゃんと食べなきゃ」
「点滴で手が使えねぇ。牧野が喰わせてくれんなら、喰ってもいい」
「…………」
なんて手の掛かる上司なんだか。
手が使えないはずのその手で、さっき手首を掴んだのは誰よ? と突っ込む以前に言っておきたい。
「……利き手、右手だよね?」
「俺、病人」
使えるはずの右手の存在は無視で、悪びれる様子もなく、シレッと病人を盾にしてくる。
「仕事放棄したツケで無茶するから倒れるんでしょ? あんまり無理しないでよね」
「おまえにフラれたショックでな」
「っ!」
「なぁ、喰わせてくんねぇの?」
「…………わ、分かったわよ」
じっとりとした視線。
縋るように見つめられながらのまさかの反撃に、思わず尻込みする。
ワガママ坊っちゃんって言うより、これじゃまるで赤ちゃん返りじゃない、と内心でぼやく以外、反論も出来やしない。
仕方なくベッドの端に座った自分の膝の上にトレーを置き、やたら大きな図体の子供の口に、レンゲで掬った中華粥を運んだ。
「はい、あーんして? 」
自分で食べさせるよう言っておきながら、少し躊躇った様子の道明寺に、ほら! と視線で促す。
「どう? 美味しい?」
おずおずと口を開けた道明寺の様子を窺う。
「…………普通」
「相変わらずなんだから! それとも少し冷めちゃったせいかな? 温め直して貰う?」
「…………いい」
熱があるせいか、道明寺の頬や耳朶(じだ)まで赤く色付くのが気になって、無理させないようにと少量ずつを口に運ぶ。
…………でも、ちょっと可愛いかも。
大人しく座り、レンゲを近付ければ、素直に口を開ける姿が可愛いく見えてしまう……なんて、これは絶対に道明寺には内緒だ。
「もういい」
半分近く食べたところで限界が来たらしい。
やっぱり熱が上がって辛いのかと、手を伸ばし道明寺の額に宛ててみる。
「うーん、顔が赤いから熱が上がったかと思ったけど、やっぱり微熱かな」
「あ、赤くねぇよ」
小さく吐き出すように言ったかと思えば、急に立ち上がった道明寺は、またも点滴の存在などお構いなしだ。
「えっ、どこ行く気?」
慌てて点滴スタンドを持って後を追えば、向かった先はパウダールームで、隣のバスルームの扉に視線を向けている。
「駄目だからね。点滴打ってるのにシャワーなんて絶対に駄目だから」
言いたいことが丸分かりで、先手を打って阻止する。
鏡の前に立ち電動歯ブラシを右手に持った道明寺は、溜息を付きながらも、どうやら歯を磨くだけでシャワーは諦めたらしい。
全く! 仮にも病人だと主張するならば、自分の腕に突き刺さってるものくらいは気にしなさいよね! どんだけ自由人なのよ! と言うより先に、唐突に言葉が投げられた。
「会社、辞めんなよ?」
「え?」
道明寺の背後にいる私に、鏡越しからの視線が向かってくる。
それは、体調を崩してるせいか、それとも本当に心配しているからなのか、いつもと違って頼りなく見えてしまう眼差しに、笑みを返す。
「うん、辞めないよ」
辞めたりなんかしない。
道明寺にとって不必要とされない限りは。
或いは私が────。
「忘れんじゃねぇぞ、そのセリフ」
直ぐ様、確認するように言葉を重ねてくる道明寺に、もう一度笑って見せた。
ずっと気にしてたのかもしれない。
それとも西田さんに何か言われたとか?
どちらにしても、気持ちを打ち明けられたことを理由に辞めたりなんかしない。
まだ私を見てる道明寺の右手を取り、ジェル状の歯磨き粉をブラシに乗せる。
「私、ワゴン下げて来ちゃうね。歯磨き終わったら、ちゃんとベッドに横になってよ? それから、この点滴もちゃんと持って行くこと! いい?」
確認するように窺えば、電動歯ブラシの機械音の合間から「ん」という微かな返事と共に、道明寺はコクンと頷いた。
ワゴンを下げ、まさか道明寺邸にあるとは思わなかった、冷却シートを預かって部屋に戻ってみると、道明寺は言われた通り点滴も忘れずに持って来たらしい。
横になる傍らでは、ちゃんとそれはあるべき場所に置かれていた。
冷却シートのフィルムを剥がす。
「ちょっと冷たいよ?」
声を掛けてから道明寺の額にそっと置いて、部屋の灯りを眠るのに邪魔にならない程度に落とした。
「もう帰んのかよ」
目を瞑ったままの道明寺が言う。
「うん。道明寺もちゃんと寝てね?」
「…………もう少しいろ」
「私が居たんじゃ眠れないでしょ?」
「おまえが居なきゃ眠れねぇ」
「…………子供か」
薄暗い部屋の中。目を開けた道明寺の、今夜何度目かの縋るような視線を前に、心が負けた。
「分かったわよ。道明寺が眠るまでいる」
「おう。帰りは車で送らせる」
「うん、ありがとう。ほら、もう寝て寝て」
西田さんに続き、私の居ない間に運転手さんに連絡をしていたのかもしれない。
大人しく目を閉じたのを確認して、ベッドサイドに置いた椅子に腰を下ろすと、道明寺の左手が布団から出て伸びてくる。
手のひらを上を向け差し出されるのを怪訝に見ていれば、パンパンとベッドを叩き出した。
…………まさか、手を握れってアピールしてるんじゃないわよね?
気付かなかったことにしよう、うん、そうしよう、と無視を決め込んでると、パンパンパンパンと叩きかたは激しさを増す一方で。
「止めなさいってば! 点滴が外れちゃうでしょ!」
目は瞑ったまま、それでも止めない手に呆れ返り、握ると言うよりは押さえつけた。
押さえつけた手は握り込まれ、その手だけが即座に布団に引き入れられると、
「なぁ?」
静かな部屋に道明寺の小さな声が響く。
「なに?」
「諦めるつもりねぇから」
何を諦めないのかが分かり、押し黙るしか術が見つからない。
「体調良くなったら覚悟しとけよ?」
そう言うなり、布団の中で掴まれている手に道明寺の指が絡まって、ギュッと力が込められる。
「……良いから早く寝なさいよね」
道明寺を視界から外し、これだけ言うのが精一杯だった。
自分は一体どんな顔をしているのだろうか。
大きくて温かくて、いつでも優しかった手に包み込まれる温もりに、普段は奥底に隠した罪悪感が疼き出す。
恐る恐る道明寺を見れば、やはり目は閉じられたままで…………、それが凄く有り難かった。

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