その先へ 33
日曜日の夜。
いつもより早い夕食を進と二人で摂り、入浴も済ませた。
この後の時間の潰しかたは、もう仕入れてある。
昼間に宛もなく街をブラつき、立ち寄った本屋で大量に買った小説の文庫本だ。
時間を潰す目的で大人買いしてしまった。
昨日は昨日で、夜になったらグッスリ眠れるようにと、無駄に掃除に明け暮れ、疲れるまで体を酷使した。
そうでもしなければ、仕事のない休日は、あの日言われた道明寺の言葉へと意識を持って行かれてしまう。余計なことを考えてしまう。
歪んだ時は、もうどうにもならないのに。
だからこうして、自分に徹底して無駄な時間を与えずに過ごす。平常を保つ。
明日からは、出張を終えたはずの道明寺とまた顔を付き合わすのだから、無意味に感情を引き出して、気持ちを乱すわけにはいかない。
早々にベッドに入り、上半身を起こしたまま枕をクッション代わりに凭れかかれば、活字に目が疲れても、そのまま横になって寝てしまえば良いと準備も万端だ。
ベッドサイドに積み置いた、今日買ったばかりの本は、全部、恋愛要素を一切含まないミステリだ。
比較的早い段階から伏線が張り巡らせてることの多いミステリなら、そこを逃さないとばかりに作家の挑戦に挑み、ミスリードされないよう意識を集中させるには丁度良い。
一冊を手に取り、一語一句を見落とさないよう、字を嘗めるように追う。
一枚また一枚と順調に読み進めていたはずが、五枚ほど薄い紙の端を捲った後、はたと気付いた。前のページの内容が頭に刻まれていないことに。
まだ幾らも読んでいないのに、いつの間にか事務的な作業のように、目は字の上を滑っていただけらしかった。
ページを逆に捲り、もう一度改めて読み始める。
捲って、また、はたと気付いて捲り戻して……。
何度目かのそれを繰り返したのち、積み重なる文庫本の隣に置いてあったスマホが音を立て、私の意識して保たれていた平常心を突き破った。
「もしもし、お疲れ様です」
『もしもし、西田です。お休みのところ申し訳ありません』
「無事、帰国されたんですね。出張、ご苦労様でした。何かトラブルでもありましたか?」
ちらりと壁時計に目を向ける。
時刻は20時を少し回ったところだ。休日の、しかもこの時間の電話なら、何かがあったと疑うべきだ。
『はい。一日遅れの今日、夕方日本に着いたのですが……』
一旦、言葉を区切った西田さんに、嫌な予感しかない。
『ジェットを降りられた途端、副社長が倒れられました』
思わず息を飲む。
瞬時に冷静さを取り繕い、肝心なことを訊ねた。
「それで? 副社長の具合は大丈夫なんですか?」
『心配要りません。所謂、過労です』
電話の向こうに届かないよう、ひっそりと安堵の溜め息を漏らす。
「向こうでは、そんなに過密スケジュールだったんですか?」
『どちらかと言うと、副社長自ら過密にしたと言うべきでしょうか』
「はぁ……」
要領を得ず、間の抜けた相槌しか出てこない。
『最初の数日は、全くと言って良いほど仕事になりませんでした。しかし、今度は止めるのも聞かず、残りの日数で睡眠を削ってまで仕事にしがみついた結果、力尽きたのでしょう』
「仕事にならなかったって、副社長は一体何を……?」
『牧野さんなら、お心当たりがおありになるのでは?』
「ッ!」
まさか! と驚き言葉を呑む。
『最初の数日は、お酒も相当飲まれたようです。副社長は何も仰らないので、これは私の憶測でしかありませんが、やけ酒だったのではないでしょうか。意外と打たれ弱かったのか、ありがちなパターンへと逃げられたようです』
憶測と言いながら完全に言い当てられ、気まずい私には適当な言葉さえ浮かばない。
『これは牧野さんに渇を入れて頂かなければと思い、こうして告げ口をさせて頂いた次第です』
告げ口──。
そこに隠された思いを推し量る。
恐らく、西田さんは道明寺と私の関係が拗れることを気にしているのかもしれない。更には辞めるんじゃないかと危惧もしていたり?
だとしたら、言葉を詰まらせてる場合じゃない。
「副社長の生活が乱れたのなら、それを正すのも私の仕事の内です」
『それを訊いて安心しました。そこで、早速と言ってはなんですが……。勿論、これは強制ではありません。休日ですし夜ですから、無理なら遠慮なく断って下さって構いません』
珍しく言い淀む西田さんの続きを待つ。
『副社長は、邸で点滴を受けながら休んでおられます。しかし、微熱もあるとは言え、全く食事に手をつけられていません』
「はぁ……もぅ」
今度は西田さんに聞こえようとも構わず、遠慮なく溜息を吐き出した。
「食事の監視を、というこで宜しいんでしょうか?」
『お願い出来ますか?』
「分かりました。伺います」
『ありがとうございます。では、宜しくお願い致します。車を牧野さんのご自宅に回しますので、それでお越し下さい』
車まで回して貰うなんて申し訳ない。
でも時間を考えれば有難い話だった。
数秒考えた後、安心したように声音が僅かに上がった西田さんに甘える旨を伝える。
「すみません。では、遠慮なく車を使わせて頂きます」
『はい。では後程。お待ちしております』
電話を切り、文庫本は栞も挟まずに閉じた。
クローゼットから必要なものを取りだし、トートバッグに詰め込むと、急いで身支度も済ませる。
「姉ちゃん、どこ行く気?」
「仕事! 車出して貰うから心配しないで!」
驚く進を置き去りに、慌ただしく私は自宅を飛び出した。

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