その先へ 32
「副社長、今日はこれでコーヒー5杯目です。飲み過ぎなのでは?」
「放っとけよ」
「牧野さんが訊いたら、雷を落とされそうですね」
牧野、って名に反応して西田を睨み上げても、どこ吹く風。
嫌味なほどその表情は乱れない。
「次はハーブティーをご用意させて頂きます。それと、夜のお酒は程々に。そして、此処が一番重要です。いい加減、本気で仕事に取り掛かって下さい。このままでは、一週間での帰国は無理です。これ以上、遅れるようなら帰国は延期です。宜しいですね」
言うだけ言って西田が出て行った後も、仕事に向かわせるべき集中力は切れっぱなしだ。
経験不足が仇なのか、思考は一つのみに囚われ、他を阻んで邪魔をする。
NYに来て三日。
気分は一向に浮上しないままだった。
日本を立つ前日。
よりにもよって、出張前に気持ちを告げたのは尚早だったか。
だが、溢れ出る想いを食い止めることは出来なかった。
自分の気持ちに気付いた以上、誤魔化しは利かないし誤魔化したいとも思わなかった。
こんな気持ちは初めてな上に、女の扱いの知識などほぼゼロに等しい。
駆け引きなんて上等な手段は持ち合わせてもなけりゃ、性格的にも無理がある。なら正面切ってぶつかるまでだろ。と、真っ向勝負に出た俺に返ってきたのは、
『ストップ! たんま! 一回休憩!』
目を見開き驚いた後、我を取り戻した牧野からの想定外のセリフだった。
次には、落ちた瓢箪の漬け物を気にする有り得ない展開で、『先ずは美味しい食事を食べちゃおうか』と、牧野の振る舞いは、俺の想像の範疇を軽く飛び越して行った。
神戸牛のイチボを平らげ、鯛茶漬けも完食し、デザートの苺まで胃袋に収めたあとは、会計になっての一悶着。
自分が払うと言って聞かない牧野は、告白しても返事を貰えず、この上、会計まで払われては、プライドなんてもんはズタズタだ、とデリケートな男の機敏にも疎い。
何とか説き伏せ支払い終えれば、車の中でも返事のへの字すら掠めもせず、牧野の口から出るのは、食べた料理の感想三昧で、時間を無理矢理に埋めてるようだった。
さては、誤魔化し逃げる気かと睨んだ俺は、『そろそろ返事を訊かせろ』と追い詰め、もう逃げられないと漸く観念した牧野から返された言葉は、
『道明寺は大切な人だよ』
だった。
大切な人。確かに牧野はそう言った。
それだけで終われば救われたのに、『友人として』と付け加えられた。
─────要は、振られた。
「副社長、いい加減になさって下さい 」
新たな書類を抱えて持ってきた西田に、まだ仕事が手付かずだったのが見つかる。
「もしかして、牧野さんと何かありましたか?」
軽く舌打ちをして顔を背ける。
何で分かんだよ。放っとけよ!
アイツを手に入れられないことが、こんなにも辛く痛みを伴うものとは知らなかった。
振り返ってみれば、お見合いでもぶった切られた相手だ。顔だって好みじゃないとハッキリ正面切って断言されてる。
思い出すと、今更ジワジワとダメージが広がってきやがる。
うちに来てからも、結婚を狙ってんじゃねぇかって、疑心暗鬼になる俺にキッパリ否定をしたことを考えれば、男として見られていない可能性も高い。
それでも、最近では近付いた気がしていた。心の距離が……。
だから、もしかすれば、と、僅かに抱いたのが甘かったか。希望は泡と消えた。
言い寄られることなら腐るほどあっても、言い寄るのも初めてなら、振られるなんて当然初体験で、後遺症への対処法が見つかんねぇ。
大切だと思う分だけ気持ちは沈み、暗い底無し沼にでも引き摺り込まれるようで、もがけばもがくほど浮上出来ず、泥水を飲んだように胸が苦しくなる。
考えてしまえば気分は沈むのに、意識はそればかりに支配され、他のものの一切が手につかねぇ。
「牧野さんがこの様な状態を知ったら、どう思われるでしょうか。もしかすると、責任を感じて会社を辞められてしまうかもしれませんね」
動揺が走り、敏感に反応した眉がピクリと上がる。
「真面目なお方です。副社長の仕事に支障を来すようでしたら、当然、そのような選択も視野に入れられるのでは?」
「………………」
「………………」
「………………出てけ。仕事する」
「はい、失礼します」
西田が部屋から消え、目の前の書類を一つ手に掴んだ。
『私達の間には、12年もの時間が横たわってる。その歳月をなかったことには出来ない。あの頃の気持ちは、もうないの。ごめんなさい』
あの日から、ずっと耳に媚りついて離れない、『友人として』の後に続いた、想いをザックリ鋭利に切った言葉。
此所からまた始めらんねぇのか?
過去なんて関係ねぇだろ!
そう切り返そうとした言葉は、寸でで呑み込んだ。
牧野のことを忘れてる引け目ってヤツで。
昔の俺は、どうやってアイツを手に入れたんだよ。あんなに幸せそうな面しやがって。
調査書に写ってた昔の自分を思い出し、高校生だった自分にまで嫉妬で狂いそうになる。
それでも戻りたいとは思わない。
牧野と再会するまでの自分には……。
感情を棄てれば、この胸の痛みが消えるとしても、だ。
痛みを引き摺ったままでもいい。
牧野を知った今、空虚な世界に一人孤独に取り残させれたくなんかなかった。
この痛みさえ、牧野を感じていられる距離感があるからこそだ! と、自らに発破をかけ、後遺症に折り合いを見つける。
掴んだ書類に目を落とす。
相当な努力で耳の奥に住み着く言葉を振り払い、仕事へと意識を集中させた。

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