Lover vol.39
日がまだ完全に暮れていない、道明寺邸の庭に面したテラスにて。
私の右手には焼き鳥、左手には生ビールのジョッキ。
そう、私は今、ひとりで宴を開いている。
道明寺も道明寺の両親も、まだ仕事で帰宅していないというのに、夕方から酒を飲んでいるなんぞ、嫁としてあるまじき行為。
常識的に考えて、これはない。私自身そう思う。
付き纏うのは、そこはかとない背徳感で――――。
しかし、これぞ体たらく。
まさしく、悪妻。
新橋のおじさんよろしく、ビールを呷って「ぷはーっ!」と女を捨てる勢いで息を吐き出せば、誰が見たって出来損ないの嫁の出来上がりだ。
Lover vol.39
テーブルの上では、ネットで買った卓上焼き鳥機が、ジュージューと音を立てて絶賛大活躍中だ。
良質な鶏肉からは余分な脂が滴り落ち、上がる煙は、胃袋を直撃する香ばしい匂いを漂わせている。
匂いだけで、ご飯を軽く二杯は掻き込めるかもしれない。
この卓上焼き鳥機なるものをネットショップで見つけたとき、不意に名案が浮かんだ。
外に出ずとも悪妻は演じられるのではないかと。
何もお金を使うだけが悪妻じゃない。
振る舞いひとつで、どうとでもなる。
時間に追われるように分刻みで皆が仕事をこなす中、嫁だけが優雅に宴会だなんて、これぞ顰蹙もんの極み。
ならば実行するのみと、こうして悪妻を気取っている。
つまみは、主役である塩とタレの二種の焼き鳥の他に、ヨモギの天ぷら。そして、進が持ってきたぬか床で漬けた、ぬか漬け。
道明寺邸では、絶対にお目にかかれないラインナップが並んでいる。
なんてったって、ヨモギなんてタダだ、タダ!
邸内に生えていたものを難有く引っこ抜いて食しているのだから、道明寺家の人々にとっては、びっくり案件だと思う。
でも、これがなかなかイケる。
柔らかい部分だけを摘んできたヨモギは、揚げることで苦味が飛び、塩を振って食べると、青々とした程良い芳香が広がって、何とも言えないオツな味になる。
道明寺家の厨房には、コツの要らない例のアレがなくて、上手く揚げられるか心配だったけれど、水の代わりに炭酸水を使った衣は、思った以上にサクッと仕上がった。
ぬか漬けは、きゅうりにセロリに、半熟のゆで卵。卵にはブラックペッパーを振るのがポイントだ。好みでオリーブオイルを回しかけても良い。
鶏肉は、厨房にあるものを使って良いとのことで遠慮なく甘えたが、そこは流石の道明寺家。業務用ばりの大きな冷蔵庫に入っていたのは、日本三大地鶏と言われている比内地鶏だった。
美味しくないわけがない。
即効で作ってみたコクのないタレよりも、素材を活かして塩で食べるのが最高だ。そこにワサビを添えれば尚良い。ビールが進む。
このビールも、道明寺家にあった家庭用サーバーの生ビールで、使用人の方たちから、『宜しければどうぞ』と勧められたものだ。
こんな私の勝手な振る舞いに、使用人の方々が随分と好意的に対応してくれるのは不思議だけど、仮にも道明寺家の一員となってしまった以上、そういうものなのかもしれない。
とはいえ、報告はするはずだ。
見つかっていないと思っていた木登りや、逃走を図ろうとしていたことまで筒抜けだったのだから、そこは間違いない。
事実、薄闇に包まれた庭の隅では、人の影がちらついている。多分、SPだと思う。
少し離れた後方には、椅子に座ってこちらを見ている先輩だっている。
存分に報告すればいい。
使用人の方たちからは呆れられている様子はないけれど、ターゲットはそこじゃない。
道明寺家のスリートップにこそ、不快を感じてもらえれば、それでいい。
夕方から酒をかっ食らっている嫁の話を聞けば、誰だって眉を顰める。
とんでもない女を家に入れてしまったと、後悔を植え付けられれば成功だ。
悪妻ぶりを何度も耳にすれば、いずれ離婚を勧めてくるはず。
そうなれば、晴れて私は自由の身。ビバ、独身!!
その日に向けて、コツコツと努力をしてやろうじゃないの!
お一人様になる日を夢見ながら、新橋のおじさんが憑依したかの如く、またもや「ぷはーっ!」と、飲みっぷりよくビールで喉を潤す。
目に映るのは、正面のライトアップされた大きな桜の木。
ピンク色になった蕾が膨らんでいるのを日中に確認済みだ。
あともう少ししたら、見るものを圧倒する可憐で美しい花を披露してくれるだろう。
そのときにでも、もう一度宴会を開き花見をしよう。
――そう考えていたときだった。
「何をしているのかな?」
背後から声をかけられ、突然のことにビクッと肩が揺れる。
振り向かなくてもわかる。その声は、ラオウ⋯⋯じゃなくて、総帥でもなくて⋯⋯お、お義父さま!!
心の中での呟きでさえ、言い慣れなくて舌を噛みそうになるその人が、何故にこんな早い時間に帰って来るのか。今までにはないことだった。
結婚してからというものNYには行かず、ずっと日本にいるお義父さまだけれど、道明寺やお義母さまと同じで忙しい身。こんな時間に帰宅したことはない。
まさか、悪妻ぶりを生で目撃されるとは思いもしなかった。
実際に見られるとなると、私だって気が引ける。
悪妻ではあっても私にだって良心はある。後ろめたさがないわけじゃない。
皆さんが働いているのに、こんなんでごめんなさい。と心で詫びを入れながら、良心に蓋をして悪妻を貫くしかない。
それに、報告で知るより実際に目の当たりにした方が、インパクトは絶大だ。
よし。罵倒、どんと来いだ!
「おと、お義父さま。お帰りなさい。今日はお早いんですね。私は暇だったので、夕方からこうしてお酒を頂いていました」
カッコ悪いことに出だしで噛んだが、そこはなかったことにして、悪びれた様子も見せずに、寧ろとびっきりの笑顔で言ってみた。
「ほぅ」
嘆息のようなものの後に続くのは、お叱りか、嫌味か、はたまた罵倒か。
笑顔のまま待ってみれば、
「これは焼き鳥だよね?」
「⋯⋯⋯はい? あ、はい」
意表を突いた返しに狼狽え、私の顔から笑みが剥がれ落ちた。
非難されないこともさることながら、焼き鳥を知っていたことが意外すぎる。
「私がまだ大学生だった頃、カウンターしかない店に友人が連れてってくれたことがあってね。一度だけ焼き鳥を食べたことがあるんだ。入口に赤提灯がぶら下がっていた店は、中は煙くて狭かったけど、味は抜群に旨かった」
そう言いながら私の隣に座ったお義父さまは、焼かれている鶏肉に、興味津々と視線を注ぐ。
⋯⋯ちょっと待って。
罵倒は?
お叱りはいずこへ?
それより何より、何でそんなに焼き鳥を見ているのか。
もしかしてその目は、興味津々というよりは、食べたいんじゃなかろうか。
この場合、悪妻としてはどう振る舞うべき?
見て見ぬふりするとか?
誰かマニュアル持ってきて!
マニュアルが欲しいんですけどっ!
混乱するも、直ぐに脳内のパニックを振り払う。
⋯⋯ダメだ。
気付いてしまった以上、食べさせないなんていう意地悪な選択肢だけは有り得ない。
「あの⋯⋯」
「うん、なんだい?」
「よろしければ、焼き鳥召し上がります?」
「良いのかい?」
待ってましたとばかりに、声が前のめりだ。
目を輝かせ、嬉しそうに笑み崩れている。
「勿論です。お肉も道明寺家にあるものを使わせてもらってますし」
「あるものは好きに使ってくれて構わないよ。トリュフだろうがフォアグラだろうがキャビアだろうが、好きに使うと良い」
そんなものまで、この家には常備してあるんですね。
世界三大珍味を使いこなせる自信が全くないんですが⋯⋯。
心で戸惑いを語りつつ、新たなお皿を手に取る。
「丁度焼けましたから、どうぞお熱いうちに」
熱々の焼き鳥を六本皿に乗せ差し出す。
「塩味がお勧めです。ワサビを乗せても美味しいですよ」
「ありがとう。早速、頂くよ」
意外なことに、赤提灯の店にも
行ったことがあるらしいお義父さまは、食べ方もご存知らしかった。
串を持ち、それはそれは美味しそうにかぶり付く。
「これは旨い。何本でも食べられそうだ」
満足げに言うお義父さまを見て、すかさず新たな串を焼いていく。
嬉しそうな顔を見れば、もっと食べさせてあげたくなるのが人情というもの。
ただ、この家庭用焼き鳥機、最大で六本しか焼けないのが難点ではある。
「お義父さま、お飲みものも用意しましょうか」
「じゃあ、つくしさんと同じものを、グラスでもらえるかな」
「はい、ただいま!」
グラスにビールを注ぎ、お義父さまに渡すと、今度は別のものに興味が惹かれたようだ。
「これは漬けものかな。こっちは、何の天ぷらだろうか」
「ぬか漬けです。家から持ち込んだぬか床で漬けたものです。で、こっちが⋯⋯、」
流石に裏庭に生えていたものだと知ったら、腰を抜かすだろうか。
「ヨモギです。敷地内に沢山生えていたので、それを」
腰こそ無事なようだが、お義父さまの目が面白いくらいに丸くなった。
「うちの敷地で?」
「はい」
「それは知らなかった。草餅は食べたことあるが、天ぷらはないな。そのヨモギが邸にあって取り放題だなんて、なんてお得なんだろうか」
草餅を知っていたことにも驚きだが、世界屈指のお金持ちから、「お得」が語られるとは思わなかった。
そんなお義父さまの目は、今度は天ぷらに釘付けになっている。
まさか、天ぷらも食べたいとか?
でも、道明寺総帥たる高貴なお方に、その辺に生えていた草を果たして食べさせても良いもんなんだろうか⋯⋯。
どうしたもんかと、助けを求めるように先輩を見れば、コクンと頷きが返ってくる。
多分OKのサインだ。
「⋯⋯あの、天ぷらも食べてみます?」
「是非お願いできるかな。あと、ぬか漬けももらえれば嬉しい」
「ええ、勿論です。直ぐに用意しますから、焼き鳥食べながら待っていてくださいね」
けど、そこで『あ、どうしよう』と動きが止まる。
焼いている最中の焼き鳥をどうするか問題だ。
まさか、『適度に裏表を回転させ、しっかり焼いてくださいね〜』なんて、流石にお義父さまに頼めるわけがない。
「つくし、あたしがやっとくから安心おし」
そんな私に気づいたのか、先輩が申し出てくれる。
「助かります。じゃあ、お願いします!」
安心して後は先輩に任せ、天ぷらを揚げるために厨房へと向かって駆け出した。
――――それから20分と少々。
右手にヨモギを乗せた皿と、左手には、ぬか漬けの盛り合わせの小鉢を持つ私を待ち受けていたのは⋯⋯
「何でつくしと親父が一緒に飲んでんだよ。面白くねぇ! 俺も混ぜろ!」
喚くバカ男と、
「私も、焼き鳥?というものを食べてみたいわ」
優雅に言いつつ、且つ不思議そうに焼き鳥をお眺めになる楓社長⋯⋯もとい、お義母さま。
揃いも揃っての早い帰宅に、疑念が頭をもたげる。
すっかり事後報告にて私の行動を伝えられると思っていたそれは、もしやリアルタイムで伝わっているんじゃないだろうか。
だから、報告を受けて直ぐさま駆けつけた?
だとして、忙しいはずの人たちが、何で駆けつける必要があるのか、さっぱりわからない。
そう考える傍から、催促の声が届き思考を奪っていく。
「つくし、腹減った! 俺にもなんか喰わせろ!」
「焼き鳥という料理があるのは知っていたけれど、食べたことはなかったのよ。是非、食べてみたいわ」
ひとり宴は敢え無く終了。
居酒屋の店員のように注文を受けた私は、一気に忙しくなり動き回る羽目となった。

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