Lover vol.35
8年前、私たちは為す術がなく行き詰まっていた。
そんな時だ。
息子である司にも内緒で、私にコンタクトを取ってきたのは。
『司の政略結婚がどうしても避けられないのであれば、予め離婚を望んでいる相手と結婚させてみては?』
そう言って、とある大企業の社長令嬢を紹介してくれたのが、やっと笑いの発作が治まり目の前に座る彼――――花沢物産の一人息子だった。
Lover vol.35
彼から話を聞いたときは、そんな都合の良い相手などいるものかと疑ったものだ。
けれど、実際にいた。互いにとって都合の良い相手が。
『彼女には結婚を誓った相手がいます。でも父親は反対。娘には、相応しい立場のある相手との縁談を望んでます』
彼曰く、社長である父親は二人の交際を妨害しており、娘を力づくででも他所に嫁がせるつもりでいるらしい。
身に覚えがありすぎて、何とも耳の痛い話だった。
このままでは、どこかへ嫁がされるのも時間の問題だと言う。
どうやら彼は、花沢家にも打診の気配があるのを知り、有利に断れるよう、その一族を徹底的に調べて内情を知ったようだ。
『政略結婚から逃げられない彼女は、たとえ今は結婚するしかなくても、時期を見て絶対に離婚をすると決めています。自分の不貞を理由にしてでもね。そして、好きな男と必ず一緒になると。
そんな彼女との結婚なら、目眩ましになるでしょ。司は、離婚するまでの間に力をつければいい。役員連中が、二度とイチャモンをつけられないほどの力を。そうすれば今度こそ、誰にも邪魔されず司は自由だ』
目を見開くばかりの話だった。
政略結婚を迫られている司にとっては打って付け。
婚姻関係が期間限定なら、役員たちを一先ず黙らせる時間稼ぎにはなる。
大胆な提案をした彼は、驚くことにこちら側の事情も正しく掴んでいるようだった。
社内での司の立場も、私の本心も、何もかもを。
夫の腹心である役員二人により、無情にも押された烙印。
それは、司の価値を政略結婚以外に見出そうとはせず、跡継ぎとして相応しくないという人格否定だった。
息子は変わった、生まれ変わった、結婚はまだ早い。そう何度も掛け合い司を守ろうとしたけれど、彼らは、私の言葉に耳を貸さない。私のことも認めない。
それも仕方がない。
司が荒れていた頃、諌めもせずに私は、全てお金で片付けてきたのだから。
彼らの目には、さぞ愚かな女と映ったことだろう。
そんな母親失格である私が、どんなに司に責任を持つと言っても、今更彼らが信じるはずがなかった。
いっそ、役員二人を排除してしまえば⋯⋯。
けれどそれは、司の自由は取り戻せても、最善の策とはいえない。
役員たちも私も、そして司も、皆の目指すところは同じ。
大勢の社員を抱えた道明寺を守らなければならない。
夫が守り続けた社員たちの生活を、この巨大な道明寺を⋯⋯。
だからこそ、これ以上の内部混乱は避けなければならず、何より役員二人の力は、混乱に陥る道明寺にとって必要不可欠だった。
しかし、引き換えに司の人生を犠牲にしてしまう。
日に日に窶れて追い込まれていく息子の姿を目にしながら、必死になって模索する。
⋯⋯何か打つ手はないのか、と。
そんな時に齎された、彼からの大胆な提案。
私は一も二もなく頷いた。
今は苦しくとも、その先に司が望む未来が手に入るのだとすれば、これ以上の提案はないかもしれない。
たとえ遠回りしても、司が彼女と幸せになれる希望が少しでもあるのならば⋯⋯。
そう。私はとっくにつくしさんを認めていた。
いえ――――認めていた、だなんて烏滸がましい。
生涯、司と寄り添ってもらいたいと心の底から願う、唯一の女性だ。
つくしさんがいたからこそ、司は生まれ変われたのだから。
そんな風に思うようになったのは、司が刺され病院へ運ばれたときか。それとも、司が渡米を決断したときか。
いずれにしても二人の幸せを、いつしか私も願っていたのだ。
それがまさか、自分以外の誰かによって、二人の幸せが阻まれようとは思いもしなかったけれど。
『花沢さん、お願いします。是非、その女性を紹介してくれませんか?』
『もちろん』
夫が病に倒れてから厳しい状況にあるとはいえ、道明寺というブランド力は、まだまだ根強い。
縁談を持ち込めば向こうに断る理由はないはず。
令嬢にとっても司は都合の良い相手だといえる。
つくしさん以外の女性に興味を持てない司は、きっと女性が何をしようとも、口出し一つしないのだろうから。
何より相手側は、役員たちも納得する程度には不足のない優良企業だ。互いの利益を生むことだってできる。
役員たちの要望を一度は呑む形になるのだから、これ以上の文句は言わせない。絶対に。
司が望まない結婚は避けられないけれど、まだ学生の身でありながら、司が追い込まれている状況や、私が司とつくしさんの結婚を願っていることも全てを正確に把握し、最善の方法を見出してくれた彼。その彼に、司たちの幸せを託す。
『但し、お膳立てはするけど、俺がするのはそこまでです。後は司次第。望まない結婚を強いられ腐るようなら、それまでってことで』
彼の言うことに異論はない。立ち上がる力をつけるかどうかは、司次第。司自身がやる気を奮い立たせなければ意味がない。
這い上がることを諦めるような男では、つくしさんに相応しくないと言っているようにも聞こえた。
あくまで彼は、行き詰まった現況に軌道修正を加えるだけ。
彼がこの政略結婚に関わったことも秘匿とし、結婚のからくりも司には教えず、静観する構えを見せた。
しかし、彼が影で出来得る限り動いてくれていたことを私は知っている。
先ずは、司が結婚する相手となる女性の交際相手。その男性を花沢物産に引き抜いた。
女性の父親から守るためでもあり、司同様、少しでもその男に力をつけさせるため。そして、彼女との交際を裏でサポートするために。
花沢さんがそうまでするのには理由がある。
つくしさんの変化だ。
彼女は一時、間違いなく自分を見失った。
元気を取り戻した後も、冷めた側面が見え隠れする、彼女の変化。
司とのことが彼女にダメージを与えたのは明白で、だからこそ花沢さんは動いたはずだ。
司がもう一度つくしさんと向き合えるために、いざというときスムーズに離婚ができるよう、司の妻となった女性とその恋人が、万が一にでも別れないように、二人の交際を最大限サポートするという形で。
私も同じ。
つくしさんを放ってはおけず、何か方法はないかと探し、そして見つけ出したのが、つくしさんの弟の存在。
これは良い誤算で、つくしさんとのことがなくとも、手を組みたいと思える逸材だった。
その進さんが考えていたスタートアップ企業に手を貸し、つくしさんも携わるよう助言をして、今に至るまで司の代わりに繋いできた縁。
今日までの長い日々を振り返ってみても、つくづく彼には感謝しかない。
「花沢さん、あなたには本当に感謝をしています」
猫舌なのか、カップを両手で包み込み、息を吹きかけている彼に言う。
今日は、改めてお礼を言うために彼に来てもらっていたのだ。
だというのに、「これから行く」という一方的な連絡を受けて、数分もしないうちにつくしさんが乱入してきたものだから、彼を急いで隣室に隠し、コーヒーを飲むどころか肝心なお礼さえまだ言えずにいた。
やっと伝えることができた感謝にも彼は、
「俺は大したことは何も」
風が吹けば飛んで行きそうな軽い口調で、気にした風でもない。
けれど、彼がいなければ、今でも司は自分の殻に閉じこもっていたかもしれない。
結婚した司は、想像どおり相手とは余計な関わりを持たず、NYと日本での別居婚。あくまで戸籍上だけの婚姻生活を送り、しかし、仕事は腐るどころか没頭し、並大抵ではない努力を重ねて結果を残してきた。
それは私の期待以上で、役員たちにとっては、予想を裏切るほどの成果。
静かに様子を見守っていただろう花沢さんは、やがて、司が役員たちを黙らせるだけの力を付けたと判断したのか、3年が経った頃に再び動いた。
司の妻である恋人をフランス支社勤務としたのだ。
それを機に、恋人が司の妻を連れて行くよう仕向けて。
案の定、向こうから離婚を切り出された司は、離婚を公にしないことを条件にしただけで、何のトラブルもなく婚姻関係を解消。
私と花沢さんだけが知る偽装結婚は、こうして幕を閉じた。
役員二人には、離婚理由だけは明かしたけれど、もはや異論を唱えることはなかった。それは相手の父親も同じ。
当然だ。離婚は向こうからの申し出であり、ましてや恋人がいるのだから。
それだけじゃない。今や司は、道明寺にとってなくてはならない存在。
予想を裏切り成長した司に対し、役員たちに言えるだけの文句は有りはしなかった。
晴れて自由となった身。けれど、司は動かない。
仕事だけに打ち込み、プライベートには何も求めず、何も望まず、人生を諦めたように生きる日々。
それを打ち破ったのも、目の前にいる彼。
証拠はないけれど、司の離婚をマスコミにリークしたのは、間違いなく彼だと勘が働く。
司の帰国と、つくしさんに近づく瀧本の気配。状況を見定めるのが得意な彼が見誤るはずがない。
「いいえ、全てあなたのお陰よ。でも花沢さん? マスコミにリークするのなら、せめて私くらいには、事前に言っておいてほしかったわね」
彼は肩をすくめてみせた。
否定しないところを見ると、どうやら私の勘は当たっていたらしい。
「けれど、リークをきっかけに司も自分らしさを取り戻したのだから、やはり花沢さんには感謝しかないわ。どうかお礼をさせて頂戴。何か希望はあるかしら。どうぞ遠慮なさらず仰って?」
「何でも?」
「ええ、勿論よ」
高く付いたって構わない。
何を望まれようと、受け取った恩の大きさを考えれば、どんな要求にも応じるつもりだ。
「じゃあ、フルーツグラタンを」
「⋯⋯⋯⋯え?」
「フルーツグラタンが食べたい。ここ、メープルのフルーツグラタンが一番旨いから」
思わず目を二度三度と瞬く。
「⋯⋯フルーツグラタン? そんなもので良いの?」
「好物なんで」
無邪気に笑う顔は少しだけ彼を幼く見せ、瞳をキラキラと輝かせている。
⋯⋯そんなに好きなのかしら。フルーツグラタン。
随分と欲のないことだけど、きっと彼はこれ以上望まない気がする。
彼は、打算も計算もなく動いたのだろうから。
司とつくしさんという、大切な友人のために。
「だったら今すぐ用意させるわ。それと、言ってくだされば、いつだって好きな場所にフルーツグラタンを届けられるよう、手配もしておきます」
「お、やった」
無垢な子供みたいに、素直に喜ぶ彼を見ながら、心に決める。
8年前からの計画という秘密を共有する彼に、もし困難が訪れるようなことがあれば、何を措いても救いの手を差し伸ばそう。
彼は、司にとっても、つくしさんにとっても、かけがえのない存在なのだから。
彼だけじゃない。司とつくしさんを再会させるために、他の友人たちも動いてくれていたのだと、西田からも報告を受けている。
認めよう。
かつての私が、取るに足らないと切って捨てたものは、宝であり代わりの利かない財産なのだと。私の認識が間違っていたのだと。
「司が望む結婚を迎えられることを思えば、フルーツグラタンぐらいお安い御用だわ」
「牧野はまだ悪足掻きしそうですけどね。それも含めて、これからの道明寺家は賑やかになりそうだ」
彼が笑う。
「騒がしい、の間違いではなくて?」
「だとしても楽しそう。でしょ?」
つくしさんの抵抗がどこまで続くかはわからない。けれど、狙ったものを逃さないのは、道明寺家の血筋。
きっと司は、つくしさんの心も手に入れられるよう、努力を惜しみはしないだろう。
強引な結婚だとしても、この選択は正しかったと、そうつくしさんに思ってもらえるように。
そのためならば、幾らだって後押しをする。――――道明寺家総出で。
いつか訪れると信じて止まない二人の明るい未来を想像し、
「ええ、そうね。今からとても楽しみだわ」
私は、自然と唇に弧を描いていた。

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