Lover vol.32
――――あの男、何かしでかす気じゃないでしょうね。
最初こそ身を震わせながら警戒していたものの、ふざけたネーミングの『宝物探し』旅行から、早一ヶ月。
予想に反して、奴から何の音沙汰もない。
冷静になってよくよく考えてみれば、立場のある男だ。
何を仄めかしての発言だかは知りたくもないが、『――俺は全力で行くからな』と宣っていたバカ男に、好き勝手ができる自由などあるはずがない。
それに、発言自体が、お坊ちゃまの気まぐれかもしれないし⋯⋯。
こっちが警戒するほど心配する必要はないのかもしれない。
最近になってそう結論づけ、心の平穏を取り戻しつつあった⋯⋯というのに。
――――嵐は前触れもなく別方向からやって来た。
Lover vol.32
「⋯⋯つくし姉ちゃん。第一応接室に行ってもらえるかな」
緊張した面持ちの木村さんにそう言われたのは、定時の一時間程前。
わざわざ私の席にまで呼びに来た、木村さんのいつもにはない表情を見て、不吉な予感を覚える。
「応接室って、誰か来てるの?」
「――――瀧本裕二が来てる。進が今、一人で応対してるんだ」
不吉な予感は的中。来訪者の名に、途端に胸が早鐘を打つ。
旅行から帰ってきた数日後、改めて進には言われていた。
瀧本さんのことなら、何も心配は要らないからと。
具体的なことは何も教えてはくれなかったし、進の言葉を真に受けたわけでもないけど。
でも、何か対策を見つけたのかもしれない、と思わせるほど朗らに話す進を見て、口は挟まず余計なことは何もせずにきた。
今は進に任せるべき。感情任せの勇み足で、私が進の足を引っ張ってはいけない。そう自分を窘めて。
そんな考えを私に植え付けた相手がバカ男だと思うと癪でしかないけれど、それは正論であるとともに、目的が不透明である瀧本さんへの対抗策を、私は何も持っていないのだから大人しくするしかない。
だけど、こうして事態は動いた。
会社にまで乗り込んで来たからには、私たちにとって喜ばしくない状況が持ち込まれたと考えた方がいい。
木村さんの表情からしても、雲行きの怪しさは疑いようがない。
そして、それは多分、私とは切っても切り離せない内容に違いなかった。
「わかったわ、木村さん。行ってきます」
「⋯⋯つくし姉ちゃん」
心配そうな眼差しで見つめる木村さんに、
「大丈夫だから。心配しないで」
普段どおりの声音で言う。
渦巻く不安を、貼り付けた笑みの下に隠して。
✦✾✦
深呼吸を何度か繰り返し、覚悟を決めて目の前のドアを3回叩く。
中にいる進からの返答を受け、いよいよ相手が待つ応接室へと足を踏み入れた。
進と向かい合って座っている瀧本さんは、何がそんなに楽しいのか、私の顔を見るなり相好を崩す。
進が硬い表情をしているだけに、あまりにも対照的な表情は、不気味としか言いようがなかった。
「やあ、つくしさん。やっと会えたよ。一ヶ月も会えない上に、ここに来ても何だかんだと引き延ばされてね。結局、つくしさんに会わせてもらえるまで、1時間も待ちぼうけだ」
まさか、そんな前から来てたの?
進に目で問えば、答える代わりに、
「姉さん、取り敢えず座って」
進が自分の隣を叩く。
促されるままソファーに腰を下ろすと、平静を装い、時をおかずして切り出した。
「お待たせしてしまったようで、申し訳ありません。ところで今日は、どういったご要件で?」
「ご報告とご挨拶を兼ねて、ってところかな」
意味深な言い回しだ。
チラリと進を見る。小さく首を振っているところをみると、進もまだ、具体的な内容は聞かされていないらしい。
「報告とは?」
さっさと次を促す。
勿体つけられるのは、弄ばれているようで不愉快だ。無駄にしかならない時間に付き合う義理もない。
「なかなかつくしさんはせっかちのようだね。⋯⋯いや、実はね、うちの傘下に入ったんだよ。今日付で、こちらの大口顧客でもある、クレアリゾートがね。そろそろリリースされてる頃じゃないかな」
反射的に顔が強ばった。
瀧本さんが口にしたのは、うちがシステム全般を請け負っている企業だ。
会社を立ち上げて比較的早い段階からの付き合いで、瀧本さんの言うとおり大口の顧客でもある。
「だから、ご挨拶をと思ってね。そういうことだから、当然方針も変わる。色々と見直そうと思ってね。その報告も兼ねて、今日はこちらに来たってわけ」
遠回しに匂わせている。――――うちを切る可能性がある、と。
瀧本さんがうちの会社を狙っている危惧なら常に私の中にあった。
狙うとすれば、真っ先に考えられる方法として買収がある。
うちの社の知的財産を手に入れたいのなら、恐らく瀧本さんだって一度は買収を視野に入れたはずだ。
されど、こちらだって幾重にも対策は打ってある。
拒否権付株式を発行しているのもそのうちの一つで、対策が功を奏して勝ち目はないと断念したのかもしれない。
だからこうして、攻め方を変えたとか?
取引きが打ち切られたとしたら、確かに、うちにとっては痛い。
とはいえ、取引先はクレアリゾートだけじゃないし、存続に関わるほどの致命的な大打撃にはならないんじゃないだろうか。
それを裏付けるように、目に苛立ちを浮かべてはいても、進は無言を貫いている。
取り乱す気配もなく、ならば私も迂闊に相手にするべきじゃない。
けれど、私の見込みを嘲笑うかのように、瀧本さんは更なる追い打ちをかけてきた。
「あぁ、そうそう。あともう一社も引き取ろうかと思ってね。君たちのところの一次請け企業をね」
ぎくりと心が冷える。
態度に出ぬよう気を張るも、血の気が失せ手が震えそうで、必死に力を掻き集め膝の上で拳を固めた。
うちでは捌ききれないプログラミングの一部を任せている企業が、一次請けだ。
そこは、まだ歴史の浅い会社だけに、瀧本さんに抗えるだけの力があるとは思えない。
もし、そこが瀧本さんに飲み込まれれば、取引先を失うよりも痛手となる。
瀧本さんのことだ。うちとの契約は白紙にする。絶対に。
となれば、貴重なパートナーである人材の損失で、直ぐに次の担い手が見つからなければ、仕事の停滞を意味する。
それだけじゃない。
瀧本さんの手に落ちた一次請けの社員たちは、きちんと守られるのかも疑わしい。
いよいよ、本格的に体が震えそうだった。
あの人たちの生活まで脅かされる事態となれば⋯⋯、一体、私たちはどうすれば良いのだろうか。
「そこまでやりますか」
じっと口を引き結んでいた進が声を発し、人を食ったような顔の瀧本さんを睨めつける。
「でも、それだけじゃありませんよね? あなたは取引きをしにいらしたんじゃないですか?」
「流石は牧野社長、話が早くて助かりますよ」
「ならば、もっと単刀直入に言いましょうか。姉を取引きの材料に使わないでいただきたい。あなたが何を仕掛けようが、姉は決して渡しませんよ。これだけは絶対だ」
「ほぅ。つくしさんを守るためなら、牧野社長は、他人の人生はどうなっても良いと? なるほど。しかし、つくしさんはどうかな? 牧野社長と違って、つくしさんには人の不幸は堪えられないんじゃないのかな?」
膝の上の拳を見つめながらでもわかる。瀧本さんの視線が、自分に絡みつくのが。
冷たくなった指先を更に握り込み、気力だけで顔をあげた。
「瀧本さんが考える取引きとは何ですか?」
「姉ちゃんは黙って!」
ぴしゃりと言う進の剣幕には見向きもせず、瀧本さんは私だけを見つめ口を開く。
「つくしさんが俺と結婚するなら、クレアリゾートとの契約は今のまま維持しよう。他の会社にもちょっかいは出さない。つくしさんの決断一つで、不幸になる人はいなくなる。さあ、どうする? つくしさん」
最初から科白を用意していたかのように滑らかに話した瀧本さんは、懐から折り畳んだ紙を取り出すと、テーブルの上に広げた。
紛れもなくそれは婚姻届で、ご丁寧にペンまで添えてくる。
「この場で決断してほしい」
「ふざけるなっ!」
進の怒鳴り声がどこか遠くに感じられて、意識は婚姻届だけに縫い付けられる。
本当にこれで救えるのなら、何を迷う必要があるだろうか。
たった一人の大切な弟だ。
その弟の肩には、今や家族以外にも守らなくてはならない人たちの人生が伸し掛かっている。
「⋯⋯これ以上、うちにも、うちと関わる会社にも、二度と手出しはしないと約束してくれますか?」
「止めろ姉ちゃん!」
進が喚こうが止まるわけにはいかない。
ここまで根回しをされていては、対抗する術が他にあるとは思えなかった。
真っ直ぐに瀧本さんを見れば、意外にも真剣な面持ちで彼は頷いた。
「二度と手出しはしないと誓う。誓約書を認めてもいい」
瀧本さんの脅しとも取れる今回の手段は許し難いが、進を、そして会社やそれに関わる人たちを、たった一枚の紙で救えるのならば、私が選ぶべき道は決まっている。
息を一つ吐く。
呼吸を整え、ペンへと手を伸ばし、
「姉ちゃん、馬鹿なこと考えんなっ!」
必死な叫びを無視してペンを掴んだ瞬間だった。
隣から伸びてきた進の手が、私の腕を掴むのと時を同じくして、前触れもなく、蹴り破る勢いでドアが開いた。
乱暴な音に、三人が三人ともに目を見開き振り向く。
「なっ⋯⋯!」
闖入者に驚きすぎて、言葉にならない声を漏らしてから、今度こそ確かな言語を操る。
「な、なんであんたがいんのよっ!」
「牧野が売りに出てるっていうから買いに来た」
ふざけた科白を事もなげに言うのは、一ヶ月音沙汰のなかった、道明寺だった。

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