Lover vol.31
組んでいた長い足を解き、立ち上がった司が吐き出したのは、
「決まってんだろ。そこにいるバカ女の態度にだ」
聞く者を怯えさせる声に乗せた、悪罵。
バカ女って⋯⋯牧野のことか?
愛する女の間違いじゃなくて!?
決して小心者ではなく、ただ心配性なだけである俺は、雲行きの怪しさに、ぶるっと身を震わせた。
Lover vol.31
ゆっくりと牧野に近づく司。
その気配に気づいた牧野は、食事こそ止めたが、コーヒーを飲む余裕はあるらしい。
テーブルを挟んだ至近距離。物怖じせずにコーヒーを啜る牧野を、司は鋭い眼光で見下ろした。
「気に入らねぇな」
「⋯⋯」
「俺に対する澄ました面も、尖った科白も、何様だ、おまえ」
「⋯⋯」
⋯⋯マズい。
完全に司の怒りがトップギアに入っている。
一瞬にして暗雲が漂い、静まる空気がひやりとしたものに変わる。
体感温度が、マイナス五度は絶対に落ちた。
「その気取った面の下に隠してんのは、怒りか? 憎しみか? あぁ、それともアレか。振られた女の、つまんねぇプライドってやつか」
「司、言い過ぎだ!」
悪し様に言い放つ司に、堪らず止めに入った俺に返ってきたのは、
「てめぇは黙ってろ」
人を寄せ付けない、切れ味抜群の威嚇。周りの者も揃って顔色を失くしていく。
司のヤツ、本気も本気、マジ切れだ。
つーか、おまえ牧野に惚れてんじゃなかったのか? 惚れた女を馬鹿にしてどうするよ! と思いながらも、それすら口に出せない。
静まる冷たい空気を、凄みのある声だけが震わせる。
「そりゃそうだよなぁ?」
目を細め、見下したように口の端を釣り上げた司の冷淡な笑み。
「おまえ、俺に無残に振られたもんな」
牧野は持っていたカップを静かに置くと、見下ろす司の目とガッチリ合わせた。
バチバチと火花さえ見えそうなぶつかり合う視線。
目だけで疎通を図った俺と総二郎と類に一気に緊張が走り、万が一暴れたら、命がけで押さえつけるつもりで司に近づく。
「振られた男の前じゃ、余裕気取りてぇっつう、くだらねぇプライドだろ?」
「⋯⋯」
「何てことありませんみてぇな顔しやがって、良い女にでもなったつもりか? 笑えんな」
「⋯⋯」
「その男に、もう一度告られて、振って、どうだ? 仕返しできて、さぞかし気分いいんじゃねぇの?」
告ったのか。
で、振られて逆上し、腹いせに誹謗の連打!?⋯⋯最低なんだが。
「庶民派上がりの安い自尊心も満足したろ」
「⋯⋯」
「何なら、その自尊心をもっとくすぐってやってもいいぜ?」
「⋯⋯」
「捨てた女に対する慰謝料代わりに、跪いて縋ってやろうか? それとも⋯⋯、」
前屈みになった司が手を伸ばし、牧野の顎を掴んで持ち上げたのを合図に、
「甘い言葉でも囁いて、キスでもお見舞いしてやろうか?」
これ以上は本気でマズい、と俺たちが動き出したときだった。それより先に、牧野の細い腕が素早く動く。
顎を掴む手を振り払い、立ち上がって高々と持ち上げられた手。それは、司へと向かって容赦なく振り落とされた。
乾いた音が盛大に響いたのは、手加減が一切ない牧野が繰り出した平手打ち。
と同時に、総二郎と俺で、両サイドから司の腕を拘束する。
こちら側に付くと思っていた類は、いつのまにか牧野側にいて、二人でこのバカを抑えきれんのかよ!と焦りながらも掴む手に更なる力を加えた。
「ふざけんじゃないわよっ! あんたに侮辱される覚えはないわっ!」
「⋯⋯」
「最低男に成り下がったあんたに、馬鹿にされる筋合いはないのよっ!」
遂にキレた牧野の怒声が耳を劈く。
当然だ。牧野が怒るのも無理はない。殴られたって仕方ねぇよ。それだけのことを司は言ったんだから。
だからここは、黙って潔く殴られとけ!
絶対に怒り狂うな!
反撃とか考えんじゃねぇぞ、頼むから!
腕を掴みながら必死の念を送る。
――その念が届いたのだろうか。
掴んでいる腕は、全く動きをみせない。力すらも伝わってこない。
それどころか⋯⋯。
「⋯⋯⋯⋯くっ、くくく」
殴られた衝動で、顔を右下に傾けていた司から聞こえてくるのは⋯⋯わ、笑い声か!?
顔を持ち上げ真っ正面から牧野を見た司は、
「おまえ、ちゃんと怒れんじゃん」
さっきまでの悪魔顔はどこへやら。嬉しそうに屈託なく笑っている。
「ムカつくときはムカつくって言え。怒ってんなら怒りゃあいい。それでこそ牧野つくし、だろ?」
――――まさか、わざと牧野を?
だとしたら大成功と言わざるを得まい。顔を真っ赤にし、怒りと悔しさで歪む牧野の顔を見る限りでは。
「つーか、おまえらいつまで掴んでんだよ。痛ぇだろうが」
ジロリと睨まれ「あ、悪い」と思わず謝り総二郎と同時に手を離せば、ドカンとソファーに座った司は、牧野が飲みかけのコーヒーカップに手を伸ばす。
「甘めぇなこれ。牧野、どんだけ砂糖入れたんだよ」
勝手に人のもんを奪いながらいちゃもんまで付けた司は、それでも全部を飲み干した。
「滋、もう一杯コーヒーくれ」
「りょーかーい!!」
嬉しそうに跳ねながら近づいた滋にカップを渡す司の左頬には、くっきりはっきり真っ赤なもみじ。
うっ⋯⋯、痛そうだ。
「牧野、さっき言ったのは全部嘘だからな、気にすんなよ」
真っ赤に腫れた自分の頬は気にも留めず、さらりと言う復活猛獣。
だがな、今更気にするなと言われて、納得するヤツがどこにいる?
おまえの態度で体感温度上げたり下げたり。
今度は、メラメラと怒りの炎を燃やす牧野の熱で、急激に温度が上昇したじゃねぇかよ。
一体、これをどうやって鎮めるんだ!?
「あんた、あたしを馬鹿にしてんの?」
「してねーよ。おまえの怒りも恨みも、俺は全部受け止める。愛情も受け取る気満々だから、早いとこさっさと寄越せよ?」
「⋯⋯⋯⋯ざけんじゃないわよ」
俺には聞こえた。
小さくとも俺にははっきり聞こえたぞ!
気圧の下がった牧野の本気の怒りの声が!
牧野の握りしめた拳はわなわなと震え、吊り上がった眉はピクピクと痙攣止まらず⋯⋯って、やべぇ! 牧野が目にも留まらぬ速さで動きやがった。
司を抑える必要がなくなったと思ったら、今度はこっちかよ!
「牧野落ち着けっ!」
「殺す気かっ!」
俺と総二郎の声が重なり、慌てて牧野へと駆け寄る。
近くにいた類は、止めようともせず全くの役立たず。寧ろ、敢えて止めないでいるようにも見える。
完全に目が据わった牧野の両手は自らの頭上。
その手には、一人掛けのソファーがしっかりと持たれていて、流石にそれを投げつけられてはヤバいと、総二郎と一緒に取り押さえた。
女のくせして、どんだけ馬鹿力なんだよ。
呆れると同時に、ソファーを奪ってホッとする俺たちの前では、
「司、お待たせ~」
「おぅ、サンキュー」
何事もなかったように、滋からカップを受け取り、優雅にコーヒーを啜る諸悪の根源。
武器を失くした牧野は、恨みやら憎しみやら殺意やら⋯⋯。
おまえが望む愛情とやらは、今んとこ微塵も放出されてねぇぞ! と忠告してやりたくなるほど、黒い感情総出演の眼光ビームで司を睨みつけている。
怒りを滾らせたギラギラした目は一点集中、冬眠から目覚めた猛獣に向けたままで、
「⋯⋯滋さん」
出てくる声は異様なまでに低い。
「ここまで昔を真似るなら、用意してあるんですよね?」
「うん? なんのこと?」
「港で道明寺を刺してくれる人」
「えっ⋯⋯、いやぁ、流石の滋ちゃんも、それはちょっと⋯⋯。あはは、参ったな」
遂には、シャレになんねぇことまで言い放つ。
滋の苦笑を見て、『ちょっと言い過ぎたかも』と思ったのか、一瞬だけ硬い表情が解けたのを俺は見逃さなかったが、しかし、牧野も引くに引けなくなったんだろう。
自分の失言よりも怒りを優先させたらしい。
「どうせこんな男、刺されても死にやしないわよ!」
「んなこと言って、道明寺死なないでー、ってボロボロ泣くくせに無理すんな」
⋯⋯司、悪いこと言わねぇから黙っとけ。
「誰が泣くかっ、自惚れるんじゃないわよ!」
「まぁな、俺も泣かせたくねぇし。たとえ死の淵に落とされたとしても、おまえのために這い上がってきてやるから安心しろ」
猛獣だけじゃ飽き足らず、ゾンビにだって躊躇いなく化けられるらしい男の異色の愛の告白に、感動する女はここにはいない。
「這い上がってくんなっ! あんたみたいなバカ男、刺されて記憶でも何でも消しちゃえばいいのよ!」
「二度も同じ失敗すっかよ。他の奴らは忘れても、おまえだけは忘れねぇ、絶対に」
「忘れて! つーか忘れろっ! 宇宙の遙か彼方、あたしの記憶だけブラックホールまで飛ばして消し去れっつーの!」
⋯⋯⋯⋯放っとくか。
好きな女の前では、ダチを忘れても胸も痛まないらしい友達甲斐のない親友と。怒りが頂点を超えたあまり、発言が幼稚化していくもう一人の親友。
クールに決めていた女の姿こそが、遙か彼方、宇宙の塵となって消えた模様。
二人のいつまで続くかわからん悶着に付き合いきれなくなった俺たちは、「司、完全復活!」 と、喜ぶ滋の言葉を合図に、それぞれがソファーに座り勝手に寛ぎ出す。
つーか、久々に見る奴らの言い合いに懐かしさを覚え、こっそり笑みが零れたのは秘密だ。
「おぅ、好きなだけどんどん喚け叫べ。どんなおまえでも、俺の愛情は全く変わんねぇからよ」
「少しは大人になったかと思えば大間違い! あんた、昔より更に輪をかけてバカになったんじゃないの? そんな救いようのない男、誰が好きになるもんですか!」
「心配すんな。ぜってぇおまえを振り向かせてやるからよ」
「いい加減にしてっ、この自己中男!」
「何かいいな、こういうの。すげぇ、生き返った気がする。牧野もそうじゃね?」
「冗談でしょ! 地獄に引きずり込まれた気分よっ!」
「牧野、俺は全力で行くからな」
「来ないで、絶対来るな、近寄るなっ! あたしの人生に関わらないでーっ!」
「逃げんじゃねーぞ。覚悟しとけ」
「人の話を聞けーーーーっ!」
多分、恐らく、いや絶対。
ガキ臭い言い争いだと気づかない二人は、止め時も掴めやしないんだろう。
終わりの見えない騒音に、軌道修正でも加えてやろうかと思うお人好しも、残念ながら見当たらない。――勿論、俺も含めて。
司が暴れない限りは、ささやかながら牧野に声援を送るから、それで勘弁してくれよ。――――なんて他人事のように余裕かまししていたから下った罰なのか。
「しょーがねぇだろ。俺とおまえは関わり合う運命にあんだよ。俺だって一度は諦めたつもりでいた。けどよ、あきらからおまえの話を聞いたら、もう無理だった。自分に嘘はつけねぇよ」
「ブホッ!」
突然に自分の名が躍り出て、飲みかけのコーヒーが気管支に入り噎せ込む。
馬鹿ヤロー!
こんな場面で俺の名を出すヤツがいるかっ!
牧野が、ギシギシギシと、錆びついたブリキ人形のような硬い動きで俺の方へと振り向く。
これでいつ終わるともしれなかった言い争いも、無事軌道修正完了⋯⋯、なんて呑気なこと言ってる場合じゃない。
細まった牧野の視線が危険すぎる。
これは完全なる八つ当たりの巻き添え事故だ!
「ちょ、待て。牧野、落ち着け!」
身の危険を察知した俺は、いつでも逃走できるよう立ち上がり、座っていたソファーの背後に回る。
「ふーん、美作さんが余計なことを言ってくれちゃったわけ?」
「いやいやいやいやいや⋯⋯」
「この前会ったとき、確かボランティアとか言ってたわよね? まさかそれが、この計画のことだったとはねぇ」
違う、とは言えない。
まさにその通り過ぎて、ピキーンと硬直する俺に浴びせられるのは、鼓膜が震えるほどの牧野の怒声。
「何がボランティアよーっ! あたしにとっちゃ罰ゲームだっつーのっ!」
何で俺にだけ皺寄せが来るんだよ!
ここにいる全員が共犯者だろうが!
なのに、どいつもこいつも揃って知らぬふり。
視線で救いを求めても、
「今度は俺も泊まりがけで旅行してーなー」
とは、相棒の危機を無視した総二郎の言。
「みんなで行ったカナダとか懐かしいですよね」
優紀ちゃんまで、そりゃなくね?
「えー、ずるい! 滋ちゃんもみんなでカナダ行きたい!」
おい、実行犯なら少しは責任感じろ!
そして桜子。
俺を見てくれるだけ他の奴らよりはマシだと思うべきか⋯⋯。
だがな、こんなときに無意味なウィンクなんていらねぇんだよ!
残るはただ一人。
両手で持ったカップに、ちびちび口をつけている、そこの類くんよ?
こんな時でも呑気に抹茶ミルクか?
そもそもおまえが黒幕だろうがよっ!
「牧野、聞いてくれ! 俺は類に嵌められたんだっ!」
よし、言ってやった。言ってやったぞ!
「類が?」
うんうんうん、と頷けば類を見る牧野。
視線を向けられた類は、首をコテッと傾けると、天使の微笑みってヤツを瞬時に作りやがった。
「類、それ美味しい?」
「うん、牧野も飲む?」
「うーん、じゃあ後で」
なに平和に会話してんだよ! そうじゃねぇだろ!
類の微笑みにやられてないで、黒幕に厳しい追求をしろ!
「類! 牧野とイチャつくんじゃねぇっ! 牧野も微笑みかけてんじゃねぇよっ!」
司、おまえも面倒くさいヤキモチなんか焼いてないで、俺の危機的状況を少しは心配しろ。
見てみろ、おまえが余計な口を挟むから、仁王立ちしている牧野の目つきが、一段とガラ悪くなったじゃねぇかよ。
「美作さん? 類のせいにしないで、責任持ってこのバカ男を説得して」
人のせいにしてるのは、間違いなくこいつらだ。そう反論したところで、信じてもくれなければ、同意してくれるヤツもいない。
俺は悟った。我が身を守れるのは、自分自身だけなのだと。
周りからの援護は諦めて、ここはこれ以上、牧野の神経を逆撫でしないよう、司の説得に回る。
「まぁ、司、アレだ。おまえの気持ちも分かるがな? なんせブランクがありすぎだろ。そりゃ、牧野だって戸惑うって。
高校生のガキじゃねぇんだし、ここは大人の余裕ってやつで、まずはゆっくりと離れていた時間を埋めていく方がいいんじゃないのか?
それにな? 司が思ってる以上に牧野は色気ないぞ? さっきだって、こっちがビックリするぐらいの姿で帰ってきたんだぞ?
ガニ股、大股、挙げ句の果てに、足をこれでもかってくらい押っ広げて、まるで力士のしこ踏みだ。ありゃ、完全に女を捨ててると言ってもいい。あの姿を見たら、司だって100年の恋も、いや1000年の恋だって一気に冷めるってもん⋯⋯⋯⋯あ」
自己保身のために必死になりすぎていたらしい。
夢中で喋るあまり、吊り上がっていく牧野の目を見ていなかったのも俺の落ち度だ。
司の暴走を抑えることが我が身の安全に繋がると思っていた俺は、夢中になりすぎたあまり無意識に触れてしまった。
正確な女子力論評が、悪口と受け止められてしまった、牧野の逆鱗に⋯⋯。
「みーまーさーかーーっ!!」
果たして俺は、牧野に追いかけられる羽目となった。
逃げながら類の背後を通れば、「あきら、最後までご苦労さま」と、天使の笑みを持つ悪魔からの労いを聞いた俺は、諦めの境地ながら切に願った。
牧野、生け贄になってくれ、と。
うちの猛獣は肉食獣じゃない。突然変異の草食獣だ。
しかも、雑草が何よりも好きときてる。
だから諦めてその身を捧げてくれーっ!
逃げ回りながら必死に願う俺。
でも俺は、少しだけ笑っていたと思う。
走りながらも目に映る、久方ぶりの、猛獣らしからぬ穏やかな笑みにつられて⋯⋯。

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いつもお読みくださり、ありがとうございます。
ここまでリメイクとして大幅な加筆修正をしてきました『Lover』ですが、前サイトでは、この回の内容を書いたところで更新がストップとなっておりました。
次回からは、初お目見えの書き下ろしとなります。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!
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