Lover vol.29
――なっ、何を言い出した、この男は!
自分から別れを告げた女に、しかもこの8年、会ったこともなければ、会話ひとつしたことのなかったこのあたしに⋯⋯「好きだ」そう言ったの?
ぷつり、ぷつり、と自分の中の何かが焼き切れ、腹の底に怒りが溜まっていく。
荒れ狂う感情は今にも内臓を突き破らんばかりで、『ふざけるなーっ!』と咄嗟に叫びそうになる。
と同時に心を占めるのは、捨てられた女の矜持。
それが理性を掻き集め、爆ぜそうな感情を食い止めた。
馬鹿にしてる。そう真っ先に湧き上がった思いを何とか抑え、目を逸らさぬ相手に「ふっ」と笑って見せた表情の下、滾る感情の全てを隠す。
「冗談にしてはちっとも面白くないんだけど。でも、いいわよ。あの頃の話をしても」
そう言って砂浜に座った私の隣に、道明寺も黙って腰を下ろした。
Lover vol.29
「道明寺との別れは、私なりに理解したつもりだった」
どこまでも続く果てのない海を眺めながら、遠い記憶を呼び起こし、抑制した声音で淡々と話し始める。
「でもきっと、全てを受け入れるには、あの頃の私は余りにも幼すぎたのよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「わかった振りして、精いっぱい背伸びして。だけど、無理だった。思っていた以上にダメージが大きかったみたい。そのせいか、当時のことはよく覚えてない」
「覚えてねぇのか?」
隣から刺さる不躾な視線は無視して、前だけを見て答える。
「そう、覚えてない。だって抜け殻だったもの。覚えてるのは、どうなっても構わないっていう投げやりな気持ちだけ。
どうやら、道明寺は私の全てだったみたい。今思えば愚かよね、たかが男に振られたくらいで。
つまり、あんたに嵌まりすぎた私が馬鹿だったっていう、それだけの話よ」
過去の自分もまとめて辛辣に斬れば、視界の端に映る道明寺の顔が歪んだように見えた。
「でもそれも一時のこと。あるとき、進と優紀が海に連れ出してくれたことがあったの。そのときに、突然、道が開けたように、何もかもが吹っ切れた。こんな綺麗な海じゃなかったけど」
白い砂を手の平で掬う。
さらさらと指の隙間を落ちていくそれは、風に運ばれ白く泡立つ波に儚く消えた。
その波が、当時の海とリンクする。
私の気持ちを浄化してくれた、あの日の海と⋯⋯。
「広大な海を見ていたらね、ふと思ったの。ちっぽけだなって。なんて小さな人間だろうって。どうなっても構わないと思いながら、こうして自分は生きている。食事や睡眠を碌に摂らなくても、図太く私は生きている。なのに、くだらない考えを巡らす私は、なんて愚かなんだろうって。
寄せては返す波を見ていたら、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなったの。だから、弱い自分とは決別した。
ゆっくりでもいい。時間に身を委ねながら人間の再生力を信じようって。そしたら憑きものが落ちたみたいに楽になった」
引いては迫る波は海の鼓動。
そんな躍動する自然に圧倒され、私の中の何かが吹っ切れた。
「ねぇ、道明寺知ってる?」
横目で隣を見れば、続きを待つように黙って私を見つめたまま。
視線を海に戻した私は、静かに言葉を繋いだ。
「人間ってね、『忘却』の機能を失うと生きてはいけないって説があるの。辛いことや哀しみが、時間が経過しても薄れずにそのまま残ったとしたら、人間の心は壊れてしまうかもしれないもの。だから忘却は、神が人間に与えた慈悲なんだって。
そして私も、道明寺への全ての想いを消した。別に意識してそうしたわけじゃなくて、流れる時間の中で自然とそうなった。
人間って逞しいと思わない? 自分の中に治癒力を備え持ってるんだから。だから人は何度だって立ち上がりやり直せる」
「そうやっておまえは変わったのか? 昔の自分を捨てて」
滋さんも、変わった変わったと言うけれど、人は誰だって変わる。
誰しもが、そうやって大人になるのが普通だ。寧ろ、成長したのだと言ってほしい。
それに、周りが言うほど普段の私は変わっていない。
変わったと言うのなら、多分それは――――道明寺の方だ。
「強いて言うなら学んだだけ。道明寺と別れて傷ついて、そして学んだの」
道明寺が何か言おうとしているのを察知し、先に牽制する。
「でも勘違いしないで。私は道明寺だから傷ついたんじゃない」
初めてできた恋人が道明寺で、あれだけ情熱的に愛をぶつけられたら、初心な女はコロッと落ちる。その落ちたバカな女が私だ。
些細なことで胸が踊ったり痛んだり。
かと思えば、仄暗い感情が心を掠めたことだってあった。
そのどれもが初めての経験で、そのどれもに翻弄された私は、道明寺にのめり込んでいった。――多分、盲目的に。
別れた後で全部を知り自分を見失ったのは、あまりにも強い恋心が齎した、揺り戻しだと思っている。
「付き合って別れて、傷つくことだって覚えて⋯⋯、そうやって免疫をつけて、みんな大人になっていくものじゃない? 私の場合、その初めての経験相手が、たまたま道明寺であって、まだ免疫がなかった分、衝撃を受け止められるほど成長していなかったってだけ。
だから、たとえ最初の恋人が道明寺じゃなく他の誰かだったとしても、私は傷ついただろうし学んだはず」
思ったこと、感じたことを有りの儘に話すのは、意外と難しくはなかった。理性に頼らずとも淡々と話せる程度には。
でも、これだけは言っておきたい。人の気持ちを簡単に踏みにじれる相手に容赦はしない。
真正面に向けていた視線を道明寺に照準を移すと、意図的に声に重みを乗せる。
「私にとって、道明寺が特別だったわけじゃない。たまたま学んだ相手が、道明寺司っていう男だったってだけの話。その相手に――――同じ過ちは繰り返さない。絶対に」
道明寺の目がすーっと細まる。それでも逸らしはしない。
逸らさないまま手を伸ばした私は、道明寺の右手を掴んだ。
道明寺の身体がピクンと小さく跳ねる。
構わず掴んだ手をそっと自分の左頬に当て、目を閉じた。
「昔もこんな風にしたよね。道明寺に触れたくて、触れてほしくて⋯⋯。道明寺が思っていた以上に私は、幼いなりに私の全てで道明寺を愛してた」
「⋯⋯過去形、か」
ゆっくり瞼を開ける。
「そう。だって、こうして触れても、今は何にも感じないもの。敢えて言うなら、相変わらず体温が高いのねって思うくらい。だからね、こんな時間旅行に意味を持たせようだなんて、所詮無理なの」
「⋯⋯」
「恋愛に向いてないってよく言われるし、自分でもそう思うけど。でも私は、また誰かを好きになる可能性まで否定するつもりはない。また誰かを好きになるかもしれない。でもそれは――――道明寺じゃない」
もう何も言うことはない。
ご都合主義で自分の気持ちをぶつけてきた道明寺が、傷つこうが知らない。
寧ろ、立ち直れないほど傷ついて、私に構わないでくれればそれでいい。
『おまえが好きになってくれた俺は、もういねぇ。おまえだけに惚れていた俺は⋯⋯、もう死んだと思ってくれ』
8年前に告げられた言葉が蘇る。
あのときにはわからなった意味を漸く理解できたとき、私の好きだった道明寺は、本当にいなくなったんだと思い知った。
別れを告げられたときにはもう、私が惚れた道明寺じゃなかったんだって。
結局は、あんただって変わったのよ。私だけじゃない。
そんな男に責められる覚えもなければ、二度と惑わされたりもしない。
核心には触れずに思いつきの情をぶつけてきた道明寺に抱くのは、紛れもなく苛立ち。そして、こんな男を好きになってしまった、嘗ての自分にも。
感情を隠す笑みの仮面を貼り付けて、道明寺の手を離すと静かに立ち上がった。
「思い出話なら、このくらいでいいでしょ?」
「⋯⋯」
「もう行くわ」
「牧野」
踏み出した足を止め、道明寺を見る。
「おまえにどう思われようと、おまえの前で自分の気持ちに嘘はつけねぇ。だからもう一度言う」
「⋯⋯」
「好きだ」
「⋯⋯」
「俺はおまえだけを想って生きてきた」
「⋯⋯」
まだ言うか。まだ私にも言わせる気か。
身体がカッと熱を持つほど、抑えた感情が心の内で暴れる。
だったら言ってやるわよ。返す言葉なら決まってる。
「私は道明寺を忘れたから今を生きている」
これからの私の人生に道明寺は必要ない、そう最後に言い添えれば、訊こえてきた舌打ち。
勝手に苛つけばいい。
あんたが好きになった女は妄想だったと諦めればいい。
誰が思いどおりになんてなってやるもんか。
あたしの好きになった男はもういないように、あんたが好きになった女も消えたのよ、8年前に。
声の落ち着きとは裏腹に、胸の内側ではドロドロとした感情が渦巻く。
掻き集めた理性にもそろそろ限界を感じ、感情が溢れ出す前に海に別れを告げ歩き出した。
道明寺も諦めたのか、深い溜息を一つ吐き出すと黙って後ろを付いてくる。
「牧野、こっちだろ」
あのときとは別方向へと歩みを進めた私に疑問を持ったのか、背後から声をかけられる。
「さっき、滋さんに教えてもらったの。こっちにも道があるって。またあのときみたいに沼にでも落ちたら最悪だし」
滋さんが、立ち去り間際に耳打ちしてきた別の道。
選ぶなら新しい道一択だ。
「知らねぇ道を選ぶ気か? 俺なら知ってる道を選ぶ。危険があるってわかってるからこそ、同じ失敗は繰り返さねぇ」
「だったら道明寺はそっちを行けばいいじゃない。私は危険だと知ってる道をわざわざ選んだりしない。新しい道があるなら、迷わずそっちを選ぶ」
だから道明寺という男をよく知っている私は、あんたを選んだりはしない、と暗に匂わす。
道明寺の顔が険しくなったところを見ると、言わんとしたことは正しく通じたらしい。何よりだ。
「じゃあ、のちほど」と、振り絞った理性の一滴で、にっこりと笑みのオプションを付け加えた私は、道明寺とは別の道を歩いた。
良くやったじゃないのよ、私。上出来よ!
怒りをコントロールしてよくぞここまで堪えたもんだと、いつだかのアスリートの言葉を借りて、自分で自分を褒めてやりたいくらいだ。
私にとって何より危険なのは、道明寺そのもの。
うっかり踏み込んで沼にでも落ちたら、最悪だ。
絶対それは底なしの泥沼で、身を滅ぼしかねない。
そんな道、人生において二度も踏み込んで堪るかっつーの!!
感情を持て余し、地面に八つ当たりするように足裏に体重を乗せズカズカと歩く私は、道明寺より先に着いてやろうと、一気にスピードを加速させた。

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