Lover vol.28
「つーかーさーーっ!」
まるで光の届かぬ海底にでも落ちたような、酸素を取り込むのも難しく苦しい時間は、遠い向こう、浜辺から手を振る滋の甲高い声によって一瞬にして引き裂かれた。
「帰ってきましたね」
そう言ってクスリと笑う牧野のダチは、もう顔に困惑を滲ませちゃいない。
寧ろ、清々しいようにも見える。
多分、松岡は、敢えて滋たちと行動を共ににしなかったんだろう。
言い難い話だろうとも俺に全てを打ち明けるために、自らその役を担って⋯⋯。
それは、俺にとって鉛を飲まされるほどの胸苦しいものであっても、訊きたいと思った。全てを知りたいと思った。
全てを知り得た今。俺は切り替えとも、開き直りとも呼べる心境にある。
「ありがとな」
牧野のダチに素直に告げる。
「そんなお礼なんて言わないでください。道明寺さんに知ってもらいたいって、勝手に押しつけただけですから」
胸の前で必死になって両手を振る松岡。
「訊いて良かった」
そう告げれば、また少しだけ困った様に眉を下げた松岡に、総二郎から受け取ったもんのお礼も重ねる。
「総二郎からも訊いた。あんときの俺を、あんたが思い出させてくれた」
――後悔してんなら今の自分をぶち壊せ。
かつて俺が松岡に送った言葉だ。
手の動きが止まり動揺しだした松岡は、勢いよく頭を下げた。
「えっ、あ、あの、ほ、本当にごめんなさい。出しゃばるような真似をして」
「もう大丈夫だ」
「え?」
「あんたのお陰で覚悟が決まった。俺は、もう逃げねぇ」
力強く言えば、パッと持ち上がった顔に一瞬にして広がる笑み。
嬉しいときも目尻と一緒に眉が下がんだな。
素朴な感想を抱きながら、釣られるように笑みを返し、次には太陽の眩しさに細まった目を滋たちの方へと移す。
浜辺には、紫外線を物ともせず大手を振って歩く滋と、日傘を差し、サングラスをかけて大敵である紫外線から身を守る三条。
最後尾には、歩き方からしてふて腐れているのがわかる、牧野がいる。
そして――――。
岩場の影からは、昨日のパーティーで使った滋のとこの客船が、ゆっくりと姿を現した。
Lover vol.28
「もう帰りましょうてば!」
「つくしったら諦め悪ーい! もう船は動いちゃってるのに」
「諦め悪いのはどっちですか!」
牧野の交渉も虚しく第2の目的地に向かうべく、滋によって強引に船に押し込まれた俺たち。
とうに諦めのついた俺は、牧野と滋が言い合って騒がしい船内から一人、デッキへと出た。
見渡しても何もない大海原の上。
潮風を浴びながら考えるのは、今朝、松岡から訊いた、俺と別れた後の牧野のことだった。
俺から別れを告げた8年前。
気丈にも牧野は、いつもどおりに振る舞っていたという。
辛いとも漏らさず、泣きもせず、『あたしより辛いのは道明寺だよ』そう寂しげに言う牧野に、松岡を始めとする仲間たちは、気の利いた科白一つ返せなかったらしい。
松岡曰く、泣いて悲しんで、万が一にでもそれが俺の耳にでも入ったとしたら、余計に俺を苦しませる。負担にはなりたくない、俺を誰よりも理解している、そんな想いが牧野を支えていたんだと⋯⋯。
だからこそ牧野は変わらなかった。
俺と別れてからも、いつものようにバイトや勉学に励み、時に仲間たちと馬鹿をして。
そうしていつか、奥底に隠した悲しみが癒える日を、仲間たちは心から願っていた。
でも、それが突然に変化したのは、俺と牧野が別れてから1ヶ月ほどが経った頃だった。
牧野の弟からかかってきた一本の電話。
それを受け、仲間たちは急ぎ牧野の元へと駆け付けた。
そこは病院の一室。
腕に点滴の針が刺さり眠る牧野は、清掃員として派遣されていたバイト先の企業で倒れ、救急車で運ばれたという。
過労、疲労、貧血。
無理をし過ぎたのかもしれない。我慢させすぎたのかもしれない。
血の気の失せた牧野を見た仲間たちは、それぞれに思いを巡らせ声を詰まらせた。
それでも牧野は、目を開ければ心配する仲間たちに詫びを入れ、そしていつものように笑うのだろう。
だったらせめて、栄養のある旨いもんでも喰わせて、偽りの元気に乗っかってやればいい。
――だが、そう考えていた奴らの願いは叶わなかった。
牧野がゆっくりと瞼を開き、覗き込むように近寄る面々。
そんな仲間たちの顔を視界に収めても、直ぐに彷徨いだした牧野の視線は宙に浮いたまま。
『⋯⋯あたしって、道明寺に捨てられたんだよね』
そう、一言だけを呟き、それっきり貝のように口を閉ざした。
虚ろな目に、開かれない乾いた唇。
無理して取り繕ってきた反動か。それとも、今更ながらに俺との別れに現実味を覚えたのか。
いずれにせよ、何もしてあげられない仲間たちの胸の内はいかばかりだったか。
心配する仲間を余所に、その日から牧野は笑うことを放棄した。
退院し自宅療養となっても、牧野の状態に変化は見られない。
弟との二人暮らしを考えれば食事の心配もあるだろうと、二人の住むアパートに毎日足を運ぶ松岡。
類や総二郎にあきら、滋や桜子も、時間を見つけてはアパートに立ち寄り、だが、何も変わりはしなかった。
言葉をかければ反応はする。
でもそれは、会話とは程遠い頷きや、首を左右に振るだけの返し。
自分から欲しようとはしない食事も、少しずつ少しずつと、口元まで誰かが運ばなきゃ自ら摂ろうとはしない。
時間が必要だ。牧野には心に休息を与える時間が⋯⋯。自分たちに言い聞かせるように何度となく口にする仲間たち。
そんな最中、松岡の頭に『もしかしたら』と、マイナスな思考が過る。
このままで良いのだろうか。本当に元の牧野に戻るのだろうか。
けど、そんなことは恐ろしくて口に出せそうにない。誰にも言えない。
それでも『もしかしたら』が頭にこびり付いて離れない。
牧野のこの行動は、突発的でも衝動的でもなく、もしかしたらこれは⋯⋯。
――――緩慢な『自殺』なのではないか、と。
それからというもの、松岡はアパートに泊まり込むようになった。
弟がいるとはいえ、大学に進学したばかりの身。自分の方が身軽に動けると思い立った松岡は、朝昼晩と一時も牧野から目を離さなかった。
部屋にある刃物という刃物も、念のために全部隠したという。
ある日の夜は、悪夢に魘され飛び起きた牧野に付き合い、二人で眠れぬ夜を過ごしたこともあったらしい。
『それ以来、今もつくしは、電気をつけっぱなしじゃないと眠れないんです。目を覚ましたときに暗いと、自分を見失っていた当時を思い出してしまうのかもしれません』
そう打ち明けられた俺は、昨夜、明かりが消えなかった理由を初めて知った。
⋯⋯憎めよ。
おまえを振った男なんか、始めから憎めば良かったんだ。
そうすれば、牧野の心の負担は多少なりとも軽くなったかもしれねぇのに。
今更、都合の良いことを嘆いたところで、8年前の牧野に届きやしない。
それどころか、今となっては憎しみは愚か、好きか嫌いか以前の問題で無関心。
『ある日を境に、つくしは徐々に元気を取り戻していきました。でも、それと引き換えに大切なものを失くしてしまったような気がします。どこか冷めているんです。愛するということにも、愛されるということにも、諦めを覚えてしまったというか⋯⋯。
このままじゃ、つくしは幸せにはなれません。一歩も前に進めていないんですから』
松岡の話は、俺に容赦ない痛みを与えた。
それでも俺は知らなきゃならない。目を逸らすわけにはいかない。
俺の都合で別れ、あいつをそこまで追い詰めてしまった事実を⋯⋯。
俺が惚れた女は、感情豊かで情に満ちた女だった。
その女の核を俺が損なったのだとしたら、この俺が何としてでも取り戻す。
手遅れだなんて言わせねぇ。手遅れだっていうには、俺はまだ何にもしちゃいねぇ。
始まってもいないもんを諦めるなんて、俺らしくもねぇ。
松岡の話を振り返り、もう一度覚悟を誓った丁度そのとき、船が速度を落とし始めた。
船首の向こうに広がるのは、またもや懐かしい光景。
小さな手を二度と離さねぇと、18の俺が心に決めた無人島が、俺たちの到着を待ち構えていた。
✦❃✦
「⋯⋯次はここですか」
船を降りた牧野が、げんなりと溜息を吐く。
「どうよ~、懐かしいでしょう? リゾート計画が延び延びになってて、ほとんどあの当時のままなんだよね~!」
滋のテンションは相変わらずで、全く下がりは見えない。
寧ろ、まだ伸びしろがあんじゃねぇかって疑わせるほど、ぴょんぴょん跳ねて陽気に話す姿は、牧野を呆れさせ半目にさせた。
滋のことだ。昨夜に引き続き過去の再現をさせようって腹づもりなら、
「宝物探し第二弾!! さーて、つくしと司は、ここで無人島気分を味わっちゃってね? あのときと同じようにさ!」
当然、言う科白はこれだ。
項垂れた牧野は、魂まで抜け出しそうな溜息をまた吐いている。
「せめて1時間くらいは二人で過ごしなよね~。折角、ここまで来たんだし。私たちも、あのときと同じで、奥の建物にいるからさ! じゃあ、楽しんでねぇ~!」
「ちょっと待った! 滋さん、もう昨夜のだけで充分でしょう? こんなことしたった、ハッキリ言って時間の無駄です!」
「無駄な時間なら、た~くさんあるよ? なんせ超多忙な司までお休み取ってるし、時間の心配は全く要らないから~!」
笑いながら牧野の肩を叩く滋に、「だから、そうじゃなくて⋯⋯」がっくりと肩を落としながらも、牧野は抗議の声を上げ続ける。
「滋さんのご期待には応えられないって言ってるんです!」
「えっ、嘘! つくし、あのときみたいにアマゾネスの格好してくれないの? 滋ちゃん楽しみにしてたのに」
「あのですね、あのときだって好きでアマゾネスの格好したわけじゃありませんからねっ! それより滋さん?」
「なになに?」
「お願いですから、私とまともに会話してください」
「やだ、私の日本語可笑しかった? 司よりは得意だと思ってたんだけど、滋ちゃんショック!」
もう本気でヤダ、と牧野が嘆げいても、どこ吹く風。
ふざけ口調で躱す滋相手じゃ、会話が成り立つはずがない。
今回ばかりは滋に丸投げの三条は、ここでも余計な口を挟まず、松岡に至っては、間に入ってやれってのも残酷だ。
誰よりも終わりの見えない会話を止めたかった俺は、率先して牧野と滋に近づき口を挟んだ。
「いつまでそうしてんだよ」
牧野は期待を寄せた目で俺を見る。まるで俺を味方につけたように⋯⋯。
だが、それは勘違いだ。残念ながら、牧野の望むところに俺の希望はない。
「滋、もう行っていいぞ」
え? と漏らす牧野の声を無視して、
「牧野、諦めろ。切り替えは早ぇ方じゃなかったのか?」
意地悪く牧野を追い込めば、瞬く間に期待の籠もった目は消え失せ、代わりに完全武装にも似た無表情を貼り付けた。
滋の前では感情を露わにしていたのに、俺には気持ちを読み取られまいとする意思さえ感じる。
「俺に少し付き合え。話がある」
「世間話なら遠慮させてもらう」
「そんなんじゃねぇ」
「私には話したいことなんて何もないけど」
頑なな牧野を窘めるように滋が割って入る。
「まぁまぁ、そんなつれないこと言わないでさ! ともかく、私たちは司の命令に従い先に行ってるからね~!」
最後に何か牧野に耳打ちした滋は、他の二人と共に去って行った。
離れていく後ろ姿を見つめる牧野は、もう何も言おうとはしなかった。
視線でがっちりと捉えて放さない俺を前に、感情を出すのは止めたようだ。
「懐かしいな」
「まさか、思い出話でもしようって言うんじゃないわよね」
二人きりになって切り出した俺に返ってくるのは、抑揚のない声。
「ダメか?」
「今更?」
「今更だろうが、俺は訊きたい」
「何を?」
「あのときの牧野の気持ちを」
「⋯⋯」
「別れたとき、おまえは何を思い何を失くしたのか。俺はおまえの口から全て訊きたい」
馬鹿馬鹿しい。そう吐き捨てた牧野は、視線を海へと移した。
風が小さな波を運び、牧野の艶のある黒髪をも嬲る。
嬲られた髪の隙間から覗く牧野の瞳は、冷淡な色を湛えていた。
「そんなこと訊いてどうするの?」
「知りてぇんだよ。俺はおまえをどれほど傷つけたのか」
「昨日も言ったでしょ? とっくに許してるって。今更、道明寺が気にすることじゃないわ」
「でも、おまえは変わった」
「それが何? 滋さんの言うことに感化されたわけ?」
「違う⋯⋯なぁ、牧野」
呼びかけても反応を示さない牧野。
どこまでも広がる群青の海から瞳を引き離せない。
それでも諦めずに、俺はもう一度愛しい名を呼んだ。
「牧野」
気怠そうに髪を掻き上げた牧野は、ゆっくりと向きを変え俺を見た。
交差する二人の視線。邪魔するものは何一つとしてない。
牧野がガードするように取り繕った無表情さえ、今の俺にとっては何の意味も成さない。
瞬きもせず牧野を目に映す俺は、風や波の音に攫われてしまわぬよう、声に力を持たせた。
「おまえが好きだ」
射るような視線を寄越す牧野と俺との間に、一際強い潮風が駆け抜けていった。

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