Lover vol.23
「悪かった」
重みある低音を道明寺が発したのは、二人並んで潮風に晒され、暫く経ってからだった。
道明寺の謝罪が何を意味するのか、わかっているのに、
「何の謝罪?」
私は確かめるように、静かに聞き返した。
Lover vol.23
「8年前、勝手に別れを告げ、おまえを傷つけた。悪かったと思ってる」
白い気泡が混じった黒い海面を眺める私を、道明寺がそっと窺っているのを感じる。
私は、視線を海に置いたまま何拍か刻んだのち、さっきと同じように落ち着いた声を出したつもりだった。
「それだけ?」
なのに、出た声は自分が思っていたものより一段低い。
「⋯⋯牧野」
道明寺の顔を見なくても、戸惑いに揺れているのが伝わってくる。
謝罪にしては軽すぎる。私の言葉を、そう解釈したかもしれない。けれど、それは違う。
本当なら言うつもりはなかった言葉だ。
ただ、忙しい時の中に身を置く道明寺が、僅かな隙を見つけて練習しただろうピアノの音色を聴いて、少しだけ情けをかけたくなったのかもしれない。
もしかしたら、あのときは言いたくても言えなかったことも、8年も経った今ならば打ち明けてくれるのではないか。そう期待して。
だから、訊いたのだ。「それだけ?」と。
もし、道明寺が全てを打ち明け誠意を見せてくれたなら、過去はリセットして、ここからまた、友人として新たな関係を結ぶつもりで。
――けれど、いくら待てど何も返ってはこない。
沈黙こそが答えだ。
「あの曲、最後まで弾けるようになったんだね」
何年経っても本当のことを語る気はないんだと悟った私は、会話を打ち切るためだけに言葉を紡いでいく。
「⋯⋯あぁ」
「もしかして、覚えてた? ここでの会話」
顔を向け、道明寺の横顔を見る。
そこには、テレビで見た鋭さはない。
いつもの存在感は影を潜め、どこか物憂げな表情の道明寺は、静かに頷いた。
「あの会話を実現するために? だから練習したの?」
「⋯⋯あぁ」
ふふ、と小さく笑みを零す。
「忙しいのに、バカだね。でも私⋯⋯、道明寺のそういうとこ好きだったよ」
パッと顔を上げた道明寺は、驚いた様子で私を見てから、直ぐに困惑したように目を泳がせた。
そりゃそうだろう。
付き合っていたときでさえ、自分の気持ちを口にするのが苦手だった私が、こんなにもストレートに表現したのだから。
珍しすぎて、道明寺が驚き困惑するのも無理はない。
でも、言った言葉に嘘はない。
変なところで生真面目な彼が好きだった。
バカで我が儘で自己中な男だけど、根は優しい男だ。
少なくとも、あの頃の私は、そう信じて疑わなかった。
惜しみなく注いでくれた愛情も、疑ったことはない。
――だからこそ、だ。
隠された真実は、私の見てきた道明寺の全てが錯覚だったのだと思わせた。
道明寺の中にある優しさを全部否定するつもりはないけれど。だけど、私たちには共に重ねた過去がある。
それが私の中にあった、道明寺への一切の信用を失わせた。
「道明寺、もういいよ。どのみち、長くは続かなかったと思う。恋愛経験の少ない私たちには、ハードルが高すぎる付き合いだったしね。早かれ遅かれ、私たちはきっと別れてたはず。だから、謝る必要なんてないよ。畏まって謝られるほど、大した恋愛じゃなかったってこと」
「牧野⋯⋯、それ、本気で言ってるのか」
掠れた声の問いには答えるつもりはなく、借りていたコートを脱ぐと道明寺に押しつけた。
「昔の話を改めて話す必要はないでしょ。謝って楽になりたいのなら、とっくに許してるから気にしないで」
感情を乗せずに淡々と告げ、これで話はお終い、とばかりに背を向ければ、絞り出されたような声が追いかけてくる。
「俺にとって牧野との時間は⋯⋯、何よりも大切だった」
だったらどうして?⋯⋯などと、愚かなことは訊かない。
どうせ何一つ語ろうとはしない元恋人に、これ以上、時間を割く気はない。
嫌いとか恨むとか、そんな心が波立つような感情は全くなくて。核心に触れようとはしない道明寺に対して、信用できない、ただそう再認識しただけ。
情けなんてかけても時間の無駄だった。
後悔を心の内側でそっと吐き出し、二人の関係に線を引くよう言葉を添える。
「過去は関係なく、これからは顔見知りの一人としてよろしくね」
社交辞令的にそれだけ言うと、シャンデリアが煌めく温かい船内へと向けた足を、もう止めはしなかった。
✦❃✦
「随分と短い会話でしたね」
背を向け遠ざかっていく牧野を見届け、遅れて入ったパーティー会場。
気配を忍ばせ近づいて来たのは、三条だ。
「盗み聞きか?」
「まさか。寒くて外に出る気にもなりませんよ。二人の会話も冷え冷えとしたものでしょうしね。温かいこちらから、10分足らずの短い会話しかできない二人の様子を見守っていただけです」
人の気も知らず、相変わらず言いざまに遠慮のねぇ女だ。
「そんな怖い顔で見ないでくれます? 会話できただけでも良かったじゃないですか。最初の先輩の挨拶を目にしたときには、これ以上の会話は望めないかもしれないと思ったくらいなんですから。これも演奏のお陰かもしれませんね。優紀さんに感謝しないと」
これのどこに、演奏の効果なんてあったんだ。
総二郎の女から、『カルテット、お願いできませんか?』そう唐突に言われたのは、牧野から『無関心』が滲む素っ気ない挨拶を受け、打ちひしがれていたときだった。
突然の提案は、類の笑いをも止め、俺たち男ども4人の頭に疑問符を浮かべさせたが、牧野の親友である女が言うんだ。
縋るような必死な目を見れば、この船での俺たちの思い出も訊いて知ってるんだろうと思い至り、少しでも牧野との距離が縮まるのならばと、他の誰よりも早く承諾した。
牧野が言ったとおり、NYへ行って半年経った頃から、ガラにもなく始めたピアノの稽古。
当時の俺には、暇を見つけるだけでも至難の業で。
それでも諦めずに根気強く練習したのは、ここでの会話があったからだ。
いつか牧野に聴かせてやりてぇ。その一心で。
まさか、こんな形で披露するとは思いもしなかったが⋯⋯。
あれだけ必死になって練習したピアノも、別れた今となっては虚しいだけ。
牧野との距離を少しでも縮められるならばと請け負ってはみたが、結局は、浅はかにすぎた考えだったと思い知らされただけだ。
『――――顔見知りの一人としてよろしく』そう、ダチ以下の宣告が下されたとあっちゃ、演奏に意味があったなんて、思えるはずがねぇ。
「まぁ、無視されずに済んだことですし、今はこれで良しとしましょう。諦めるつもりがないのなら、次の場所で頑張れば良いですしね」
「次って、どこ行く気だ」
何かある。そう推測しながらも、明確な『次』を知りたくて訊ねてみたが、答えを訊くまでもなかった。
愉悦を表情に浮かべて三条が見つめる先。
つられて目を向ければ、そこから繰り出されるバカでかい声が、嫌でも俺に説明してくれた。
「つくしーっ! もうすぐ港だから、降りたら次行くよ~!」
「次?⋯⋯滋さん、次ってどこに行くつもりです?」
「ふふふ。『宝探し』に行こう!」
奇想天外な滋の発言に、「宝探しだと?」と呆れが口を衝いて出るが、
「はぁーっ? 宝探し~!?」
俺の声は、牧野の甲高い大きな声にかき消された。
「そうそう、宝探し! 小さい頃、家でやらなかった? お菓子やお小遣いが隠されてて、見つけた分だけもらえるの」
「滋さん、我が牧野家に、隠せるだけのお宝があったと思います?」
「あー、なるほど。じゃあ、つくしにとって、宝探し初体験だね! いやーん、初体験だなんて、その響きにますます興奮しちゃう! 楽しみだねっ、つくし!」
「いいえ、全然、全く。興奮もしなければ興味もありませんからっ! とにかく、私は帰らせてもらいますからねっ! 私、進とじっくり話さなきゃならないことがあるんで!」
「進くんなら港に来るはずだよ。もういるんじゃないかなぁ」
「はぁっ? 何で進が!?」
「そりゃあ、決まってるでしょ。つくしのお泊まりセットを持ってきてもらうためだよ。それ持ってヘリ乗ってレッツゴー!!」
「なっ、お泊まりーーっ?」
得意げに両手でVサインを作る滋に、けたたましい声を上げる牧野。
「嫌ですっ! 絶対に行きませんからっ!」
丁度、船が港に着き、全力で拒否を示した牧野は、大胆にドレスの裾を持ち上げると、脱兎の如く逃げ出した。
「滋さんの計画に驚いてます?」
牧野の姿が消えて見えなくなっても、ぼーっと目線を置いたままでいる俺に、三条の静かな声が問う。
「滋の考えに今更驚きはしねぇ。ここに来ると決めた時点で覚悟もしてる」
「それにしては、あまりにも愕然としているように見えますけど、私の気のせいでしょうか」
置いていた視線を三条へ移す。
「⋯⋯牧野、他の奴らの前じゃ変わってねぇんだな」
「そういうことですか。道明寺さんの前では冷めた態度なのに、他の人の前では違うからショックだったと⋯⋯。
でも、今までお付き合いしてきた男性にもそうでしたよ? 道明寺さんに対する態度ほどではありませんでしたけど、いつだって気持ちは冷めていました。
そうなった原因は、道明寺さんならわかるかもしれませんし、本来の先輩を取り戻せるかもしれない。これでも私は、そう信じてるんですよ?
だって、先輩が変わったのって、道明寺さんと別れてからなんですから」
真剣な面差しから一変、悪戯げな笑みを浮かべた三条は、最後に付け加える。
「まぁ、簡単にはいかないでしょうけど⋯⋯。
そこで一つ、私からアドバイスです。普段と違う一面を見せると、先輩の気持ちを揺さぶるのに効果があるかもしれませんよ? さっき試してみたんですけどね、かなり動揺していましたから、これは絶対に使える手です」
得意げに言われたが、全く意味のわからねぇアドバイスだった。
✦❃✦
「ったく、進のヤツーーっ!」
怒り心頭、文句を喚き散らしながら、脇目も振らず一目散に外へと向かう。
船の階段を駆け降り地上に立てば、黒の集団の隙間から進の姿を見つけて、一気に駆けだした。
ドレス姿で疾走するだけでも異様なのに、私の顔も、えらい迫力あるものになっていたかもしれない。
その証拠に、がたいの良い黒集団のSPの人たちは、波が引くように、サァーッと道を空けてくれた。
「進っ! あんたいい加減にしなさいよっ!」
「姉ちゃん、落ち着けって」
周りも気にせず怒り任せに言葉を浴びせる。
とてつもない勢いで現れた姉に、窘めようと両手を突き出してくるけれど⋯⋯。
「どうどう」
馬並の扱いをされ、完全にキレた。
ムカつくことに、進の表情は余裕じみた苦笑いってやつで、私の怒りのボルテージは天井なしだ。
「これが落ち着いていられるかっての! だいたいね、昨日、話があるってわかってて、なに部屋に鍵かけてんのよ!
あんた、あたしに隠し事してるでしょ。だから、あたしを避けてたんじゃないの? なのに滋さんに言われれば、こんなとこまでノコノコと! 素直にお泊まりセットなんて持ってくんじゃないわよっ!」
「あ、そうだった。忘れないうちに渡しとくよ」
人が捲し立ててるのに、さらっと受け流すんじゃないわよ!
そう怒鳴る前に差し出された、それ。
「お泊まりセットって⋯⋯あんた、これだけ?」
ひらひら揺らされる物を見て、一瞬、怒りを忘れる。
気の利く進のことだから、てっきり色々と詰め込んだボストンバッグでも持ってくるかと思いきや、進が手にしているのは、アイマスク。
セットにすらなっていない単品の、それのみだった。
「だって、これなきゃ姉ちゃん寝れないでしょ?」
「そりゃそうだけど⋯⋯って、そんなことどうでも良いのよっ! 泊まりになんか行かないんだから! とっとと家に帰って、今日こそは全部吐いてもらうからね、いいわね!」
怒鳴りつけながら、カッと目を見開いたせいか、視界の端に映り込んだ人の影。
焦点を合わせてみれば、いるはずのない人物を認めて心臓が飛び跳ねた私は、咄嗟に進の腕を掴んだ。
「暴力反対!」
殴られると勘違いした進の背後に、その人はいる。
私から逃れようとする進に、更に力を入れてしがみつく。
「⋯⋯姉ちゃん?」
漸く姉の異変に気づいた進に、
「⋯⋯い、いる」
不安に怯えた声で、背後の存在を伝える。
振り返る、進。
と同時に、相手は笑顔で口を開いた。
「これはこれは、ご姉弟お揃いで。先ほどはどうも、つくしさん」
穏やかな笑みが不気味でしかなく、不穏な予感だけが満ちていく。
「⋯⋯意外なところでお会いしますね、瀧本さん」
何年も姉をやっていながら初めて訊く、低い剣呑な進の声。
緊張を孕んだ状況に不安と恐怖は膨れ上がり、鼓動は一層激しさを増した。

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