Lover vol.22
Lover vol,22
桜子らしさとはかけ離れた弱い声に触れ、グラスを持ったまま狼狽えた私が繋ぐ言葉を探しているときだった。
楽器の調整の音出しが始まり、会場が静まりかえる。
「いよいよ、始まりますね」
さっきのは何だったの? と思うくらい声も弾み、表情も輝きだした桜子に、ホッと胸を撫で下ろす。
不意打ちで弱くなるのは勘弁してよ。焦るじゃないのよ。
あんたが遠慮なくぽんぽん言うから、私だって気兼ねなく何でも返せるのに⋯⋯。
会場にいる者の全てが魅せられているように、桜子もまた、4人の演奏者を胸を弾ませた表情で見つめている。
その姿に改めて安堵し、シャンパングラスを傾けた。
けれど、演奏が始まり綺麗な音色が流れ出たところで、あろうことかシャンパンを吹き出しそうになる事態に陥った。
「先輩! 何やってるんですか! 電源くらい切っておいてくださいよ!」
演奏の邪魔にならない声量で桜子からの叱責が飛んでくる。
「っ、ごめん、ごめん。切るの忘れてた」
すっかり元に戻った桜子の強い視線に刺され、片手で拝んで謝り、もう片方の手でスマホの画面を素早くスライドさせる。
演奏中にスマホが鳴ったのだから、そりゃ顰蹙ものだ。
慌てたせいで『切っちゃえば良かった』と、気づいたときには遅く、繋いでしまったスマホの回線。
「デッキで話してくる」
無声音に近い声で桜子に告げ、急いで小走りで外へと向かう。
走りながら思わず、「あのバカ、どうするつもりよ」と、笑いが零れそうになった。
私がシャンパンを吹き出しそうになったのは、スマホの呼び出し音に焦ったからじゃない。
ヤツが弾くピアノの音色に驚いたからだ。
綺麗なメロディには、聞き覚えがあった。
私の記憶が正しければ、かつて無人島へ連れ去られたこの船で、たった一度だけ耳にしたことがある。それも途中まで。
何故なら彼は――――この曲を最後まで弾けない。
もしかして、途中までしか演奏しないつもりとか?
こんなに皆が聞き惚れて注目してるのに?
それとも、子供のときと同じように、またピアノを壊しちゃったりして!
ピアノ相手に暴れる道明寺を想像したら可笑しくて、吹き出しそうになるのを何度も堪えながらデッキへと出た。
驚いたことに、デッキにはスピーカが設置されていて、中の演奏がここでも聴ける。
これじゃ、電話中に笑っちゃうじゃないのよ、と思いつつ呼吸を整え、待たせすぎた相手に、開口一番謝罪した。
「もしもし、お待たせしてすみませんでした」
誰もいない海に向かってぺこりとお辞儀する。
「あぁ、良かった。完全に無視されてるのかと思ったよ。何度呼びかけても返答がないからさ」
げっ!!
急ぐあまり片手で操作しただけで、相手を確認しなかったのは失敗だ。
てか、何で切っちゃわなかったのよ、私!
「た、瀧本さん?」
「うん。昨日は、華麗な逃走お疲れさま。見事だったよ」
電話の向こうから訊こえてくる軽い笑い声に、自分の顔が一瞬にして顰め面に変わったのがわかる。
「昨日は、すみませんでした。で、今日は何か?」
「冷たいなぁ。でも、どんなに冷たくされても変わらないよ。つくしさんを諦めるつもりはないから」
どうして、こんなにも執着するのか。
昨夜、導き出した疑念が心を襲う。
心の乱れを紛らわせたくて遠くに視線を遣れば、この国最高峰の山が目に入った。
濃紺に呑み込まれつつある青紫色の空をバックに、真っ黒な影となって聳え立つ、霊峰富士。
影を纏っても尚、存在を主張する大きく暗いそれは、気を紛らわせるどころか、今の私には忍び寄る闇の象徴のように見えて、恐怖だけが煽られる。
ともすれば、上擦りそうになる声。
平坦なものに変えるには、かなりの努力が必要だった。
「瀧本さん、本当の狙いは何ですか?」
「狙いだなんて、人聞きの悪いこと言わないでよ。俺はつくしさんが好きなだけだよ」
「誤魔化さないでください」
「誤魔化してなんかないよ。欲しいものを手に入れる、ただそれだけだ」
「その欲しいものは、私じゃない。違いますか?」
「違うね。見当外れも良いと――」
「あ、あぁぁぁーっ!」
通話中だというのに、そんなものはどうでも良くなる。
別のものが私の気を一気に引き付けたと同時、悲鳴にも似た絶叫が口から迸った。
「どうした?」
「⋯⋯」
「おい、何かあったのか? つくしさん! おい、どうしたんだっ! つくしさん――――」
何度も何度も、自分を呼ぶ瀧本さんの声。
それは遙か、遙か遠くから聞こえてくるようで。
恐怖心を簡単に浚うほど私の耳を捉えて放さないのは――――記憶のどこを探しても見つかるはずのない、あのメロディの続きだった。
✦❃✦
さ、寒いっ!
海面を見つめていた私は、運ばれてくる潮風にブルッと身体を震わせた。
手に持っているスマホは、既に通話が切れている。
あれから何とか、『はい、はい』と生返事はしたけれど、正直なところ、どうやって電話を切ったのか、まるで覚えていない。
ただひたすら、スピーカから流れ出る音に意識は持っていかれた。
『いつか4人でカルテットできるかもね』
『おお、いつかな』
この船で交わされた、遠い昔の二人だけの会話。
道明寺も覚えていたのだろうか。
だから、続きを練習したのだろうか⋯⋯ピアノを壊しもせずに。
「やっぱ、寒っ!」
思考に沈むには、あまりにもこの場所は過酷すぎる。
尤も、不要な思考だ。自分の身体を犠牲にするほどのものじゃない。
演奏が終わっても茫然と佇んでいた私の身体は、すっかり冷えきっている。
暦の上では、もう春。
けれど実際にはまだまだ寒く、ましてやここは海の上。
肩から両腕までの肌を晒しているのだから、夜の潮風に当たっていれば風邪引くレベルだ。
いい加減、中に戻ろう。
熱い紅茶でも頂いて、身体の中から温めなきゃ。
両腕を摩りながら身を翻せば、先を塞ぐように男が立っていた。
「少し、話さねぇか」
海風にさらわれることなく届くのは、昔よりも少しだけ低くなった、8年ぶりに聞く男の声。
まさか、誰も介さないで話しかけられるとは思わなかった。
予想外ではあるけれど、お節介な仲間が揃うこの場所で、挨拶だけで済むなんて私も思ってはいない。
どうせ避けては通れないのであれば、後回しにするよりマシか。
ピアノを壊さない程度には大人になっただろう道明寺に、海の方へと身を戻すことで了承を示した。
一歩、二歩と、背後に迫った足音が止まり、冷えきった身体にふわりとコートが掛けられる。
「大丈夫だから」
「いいから着とけ」
強がって一度は突っぱねたものの、正直、冷えた身体には有り難い。
身体を守ることを優先して借りたコートは、昔と変わらないコロンの香りがした。
隣に並んだ道明寺が何を話したいのかは知らないけれど、話を切り出されるまで景色に目を向ける。
と言っても、何もない。
すっかり夜に包まれ、冴え冴えと輝く銀の月と星が瞬く以外には、工場の赤い明かりが点々と浮かぶだけ。
恐怖を煽った大きな影も闇夜に溶けたのか、どんなに目を凝らしてみても見つけることはできなかった。
影が浸食したように広がる暗闇。
辺り一面が黒の色に呑み込まれたというのに、不思議ともう、さっきのように恐怖を感じることはなかった。

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