冬に舞い散る花びら《後編》
「うわぁー、すごぉーい! おおきいのできたね!」
「やったぁー!」
全身一杯で喜びを表す男の子と、男の子よりも少し小さい女の子。男の子の妹だ。
真っ白な世界は寒いはずなのに、夢中で子供たちと遊んでいたら、背中がしっとり汗ばむほど身体は熱くなっていた。
「良かったね、大きな雪だるまができて」
「うん! おねえちゃんありがとう!」
「いいえ。お姉ちゃんこそ、遊んでくれてありがとね」
目線を合わせて前屈みで言ってみたものの、出会ったときと同様、男の子の興味はまた別に移ったらしく、無邪気に空を見上げている。
「あーっ、おねえちゃん! またゆきふってきたよ!」
そう言った男の子は本当に嬉しそうで、新たな喜びを見つけた瞳はきらきらと輝いていた。
同じ地に生きながら、この子の住む世界は私とは別世界みたいで、常に幸せが溢れているようだった。
「俊、愛美! もう帰る時間よ!」
天を仰いでいた顔が呼ばれた方へと向くと、「ママ~!」と言って駆けだしていく。
「みてみて! ぼくとまなちゃんと、あのおねえちゃんでゆきだるまつくったんだよ!」
誇らしげな顔の男の子の隣には、私と然程歳が変わらなそうな女性が並び立つ。
男の子が口にしたとおり、兄妹二人の母親のようだ。
「子供たちが遊んでもらったようで、ありがとうございました」
温和な笑みで礼を言われ、「いえ」と慌てて会釈を返す。
「本当に大きな雪だるまね。二人とも頑張ったのね」
「うん、ぼくがんばった!」
「あたしも!」
「俊も愛美も凄いわね!」
母親に褒められた顔は、今まで以上に輝きに満ちた。
この子たちにとっての母親は、何よりも心を満たし、幸せに導いてくれる存在なのかもしれない。
「おねえちゃん、またね! バイバイ!」
「ばいばーい!」
母親を間に挟んで立ち去る兄妹は、何度も振り返って私に手を振ってくる。
小さな友だちの姿が見えなくなるまで、私も笑顔で手を振り続けた。
誰も居なくなった公園に一人。
静まり返った場所は瞬く間に粒の大きい雪に包まれ、私の体温を奪っていく。
体温だけじゃない。心までもが寒かった。
あのときと同じように、たった一人取り残された気がして⋯⋯。
空から落ちてくる雪が、袖から僅かに覗いた肌に触れ、たちまちに溶けていく。
私の想いも、この雪のように溶けて消えてしまえばいいのに。願いながら天に向けた掌に白い雪を集める。
────同じだ。この雪と同じ。
手の上に乗るのは、ユラユラと落ちてきた消えることのない、雪片。
手袋に阻まれた手には体温が伝わらず、結晶が一つ、二つと増えていく。
温もりがなければ、こんなに小さな粒でも積もり積もって、やがて周りの色を奪い雪原に変えてしまう。
私と一緒。
温もりを失った私の中に、溶かすことのできない想いだけが降り積もり、心奥を凍てつかせる。
この雪白とした景色と違うのは、私には二度と────雪解けの春は来ない。
溶かす術を知らないから、だから私は全てを隠す。
誰にも気づかれないように心にカギを掛け、戦闘服を身に纏い覆い隠す。
⋯⋯情けない。
終わったことだと、もう過去のことなんだと、自分に知らしめるためにやって来たこの場所で、終わりにできるほど割り切れた気持ちがないことに、今更ながら気づかされるなんて。
どうして、こんなにも心が弱くなるのだろう。
雪のせいだろうか。
眩しかった遠い日に、二人で過ごした雪の思い出があるからだろうか。温もりを与えてくれた人は、もういないというのに⋯⋯。
彼から告げられた『自由』は、私にとっての呪縛。自由なんてない。心はずっと縛られたままだ。
過去に降った雨も、桜吹雪も、この雪も⋯⋯。彼に繋がる思い出の全てが嫌いになりそうだった。
いや、いっそ嫌いになれたなら、どれだけ楽になれるかしれないのに、それすらできずに、今もこうして胸の痛みに喘いでいる。
呪縛から解き放たれるまで、思い出に重なる一つ一つに、私はこれからも苦しめられるのだろうか。
それは、一体いつまで⋯⋯。
私を過去へと引きずり込む雪が憎らしくて、
「もう止んでよ、お願いだから」
睨むように空を見上げれば、冷たい粒に晒された頬に生暖かい雫が伝った。
「いつまでそうしてる気だ」
「っ⋯⋯!」
誰もいないはずだった場所に、突如、背後から響く別の声。
肩が跳ね、次いで全身が硬直する。
あまりにも過去へと心が引きずられたための幻か。
じゃなければ、訊くはずがない声だった。二度と耳に触れることのない愛しい声だ。
だから違う。きっと、心の奥に隠していた願望が幻聴を引き起こしただけだ。
「風邪引くぞ」
なのに、声は消えない。幻なんかじゃないと裏付けるように⋯⋯。
懐かしい声は、自分の世界が彩られていた頃と変わらない、柔らかな温もりが滲んでいる。
────なんで、どうして。
疑問符が頭を埋め尽くす。
でも、考えている余裕はない。自分の姿が無様であるのを思いだし、それを隠す方が先だった。
驚きで止まっていた涙の名残を急いで拭う。
「牧野」
背中で受ける声に振り返れない。
目も鼻も、まだきっと赤い。泣いていたことがバレてしまわないだろうか。
けれど、この寒さだ。寒さを理由にしてしまえばいい。
俯いた視線の先には、びしょびしょに濡れているパンツスーツ。
こんなんだけど、大丈夫。戦闘服に力を借りて、いつもの調子で振る舞えば、きっと切り抜けられる。
いつまでもこのままではいられず、覚悟を決めて振り向いた。
「道明寺⋯⋯、久しぶりだね」
「あぁ。元気だったか?」
「お陰様で」
大丈夫。いつもの私でいれば大丈夫。そう何度も心で唱え、けれど、道明寺が距離を詰めてくるごとに、一歩、また一歩と後退りしてしまう。
「⋯⋯嫌か?」
道明寺が物悲しげに微笑する。
「え、あ、ごめん、そうじゃなくて⋯⋯⋯⋯帰ってきてるって滋さんから訊いてはいたけど、でもどうしてここに?」
そんな顔をさせてしまうほど人として失礼な態度だったと気づき、誤魔化すように話題を変える。だけど、直ぐに後悔した。
「おまえをここに呼び出すため」
「⋯⋯!」
今更、私を呼び出して何を言うつもり?
身体が今にも震えだしそうだった。
驚きが先行していたがために麻痺していた感覚が戻り、凍えるほどの寒さが全身を包む。
やっぱり今日の戦闘服は、ちっとも役に立ってくれない。
何かを言われるのが嫌で、六年前のように傷つくのが怖くて。いっぱいいっぱいの私は、逃げ出すしか方法を知らない。
「ごめん。私、急いでるから、もう行かなきゃ」
不自然だろうが何だろうが構わない。ここから立ち去れるのなら。
上手く取り繕えず唐突に会話を打ち切り背を向けると、歩きづらい雪の上を踏みつけ、必死になって前へと進む。
けれど、直ぐに私の腕は強い力に捕まった。
「待て、牧野」
「離して」
「離さねぇ」
「本当に急いでるんだってば!」
「ガキと遊ぶ時間はあっても、俺と話す時間はねぇか?」
「っ!」
⋯⋯いつから?
いつから道明寺はいたの?
足が止まり恐る恐る振り返れば、黒い双眸が真っ直ぐに向けられていて、慌てて視線を爪先に落とした。
「いい大人がガキと遊んでると思ったらおまえで、子供みてぇに笑ってるおまえの顔に見惚れてた」
「な、なに言って⋯⋯」
「安心した。やっぱおまえの本質はなんも変わってねぇって」
「⋯⋯」
「⋯⋯六年前。あれから直ぐ、滋が俺のとこに乗り込んできた。すげぇ剣幕で、笑わなくなったつくしを返せって、怒鳴り散らして」
「嘘⋯⋯滋さんが?」
「あぁ」
そんなの初耳だ。そんなの知らない。
「それだけじゃねぇ。この六年、事あるごとに⋯⋯いや、なくても牧野の話をしに俺んとこに現れて。いつだってこっちの都合なんてお構いなし、大河原の令嬢だって盾にして乗り込んで来ちゃ、一時間は捲し立て、ロスした分は血尿が出るまで死ぬ気で働けって、鬼みてぇなこと言って帰って行きやがる。
滋はな、おまえを追い詰めたのは、自分にも責任があるって思ってんだよ。自分の結婚まで遅らせるほど、おまえのこと心配してた」
「っ⋯⋯そんな⋯⋯」
自分の幸せを犠牲にしてまでなんて⋯⋯。
昼間の滋さんの顔を思い出す。寂しげに微笑んでいた親友の顔を。
『──あたしは、つくしにも幸せになってほしいんだよ』滋さんの声が脳裡に流れ、申し訳なさと後悔が押し寄せ、唇をぎゅっと噛みしめた。
道明寺に言われて初めて、彼女の情の深さを思い知る。
こんなにも長く近くにいたのに、滋さんの気持ちを慮ろうともしなかった私は、なんて身勝手だったんだろう。
自分の心を守ることだけに必死で、滋さんにまで辛い思いをさせていただなんて。
「帰り際の滋のポーズもお決まりだ。牧野が仕事に打ち込みすぎて、こんな顔してるって」
滋さんを真似た道明寺は、指で眉間に皺を作って見せた。
「俺の耳にも届いてた。大河原の営業部には、男より成績がいい仕事が生きがいの笑わない女がいるって。うちは大河原とも取引があるからな」
「⋯⋯」
「滋からおまえの名前を訊くたびに嬉しくて、話を訊くたびに辛かった。自分を押し殺して頑張ってんのかって。笑顔の似合う女なのに、それが消えるほど必死に生きてんのかって。
そんなおまえが、いつかバランス崩して壊れちまうんじゃねぇかって心配で堪らなかった。早いとこおまえを迎えに行かなきゃって死に物狂いで働いたが、結局六年もかかっちまったな」
⋯⋯な、何を言ってるの? どうして今更?
だったら何で六年前────。
今にも喉元を突き破りそうな勢いで、沢山の『どうして』が心に渦巻くけれど、
「足を踏み入れた世界は地獄だった」
私が何かを言う前に、道明寺の低く静かな声が、しんしんと降り続く雪の中で紡がれ、隠されていた想いを黙って訊く。
「若い頃に遊んだツケが回ったんだな。働いても働いても全く追いつかねぇ。プライドは簡単にもぎ取られ、俺の意思なんて存在すら認めてももらえねぇ。情けねぇまでにズタボロだ。けど、俺にはおまえがいる。おまえさえいれば⋯⋯、そう思ったが、それは俺の甘えだ。
いつおまえを迎えに行けるのかも不透明なら、いつ潰されるかも分からねぇ。なのに待っててくれなんて、都合良すぎる話だろ。てめぇは、恋人の傍にもいてやれねぇで、牧野が寂しいときだって飛んで帰ってやることもできねぇくせして、牧野に要求ばっかすんのかって。
そう考えたら、いつになるか皆目見当もつかねぇ遠い先まで待ってくれとは、どうしてもあの頃の俺には言えなかった」
「⋯⋯」
「NYに行くって決めたのは、俺自身だ。これ以上、俺の勝手に牧野を巻き込み縛り付けちゃいけねぇって思った。
けど⋯⋯。俺が至らなかったせいで、結局おまえを傷つけちまった。辛い思いをさせて、ごめんな、牧野」
訊けなかった別れの理由が、こんなことだったなんて思いもしなかった。
ただ、気持ちが離れてしまったのだろうとばかり思ってた。
別れた事実だけに打ちのめされた私には、思考を働かせるだけの余裕なんてなくて。
なのに実際は、私を想えばこその別れだったなんて。
自分だって苦しんだはずなのに、それでも『地獄』と評した世界に身を置き戦ってきた道明寺に比べ、私は一体何をしてきたのか。
偽ることばかりを覚えた私は、それが大人だと嘯くばかりで。別れの裏に隠した恋人の気持ちを察しようともせず、自分を守るばかりに気を取られ、身近にいる親友まで傷つけた。
これが大人だなんて、聞いて呆れる。自分の愚かさが身にしみて、恥じ入るしかない。
自分の至らなさを噛み締めつつ、それでも⋯⋯、と思ってしまうのは我が儘だろうか。
だけど、どうしても思わずにはいられない。
「⋯⋯打ち明けてほしかった。ちゃんと本当のことを」
「言えるか、んなカッコ悪りぃこと。好きな女の前で強がるプライドぐらいは残ってたしな。それに、おまえなら、いつまでも待つって答えそうで、余計に言えなかった。その『いつまで』が不確かなのに、おまえを苦しめるだけの約束なんて、俺にはできねぇ」
確かに、全てをあのとき訊いていたなら、その場で私は、いつまでも待つと即答したはずだ。
だけど、『いつまで』と区切りを持たない約束は、私の心を疲弊させはしなかっただろうか。
先の見えない未来をただ待つというのは、決して簡単なことじゃない。不安が常に付きまとい、それを払拭するだけのコミュニケーションだってままならない。
事実、四年間の遠距離がそうだった。
それでも遠距離を続けられたのは『四年』という期間を心の支えにしていたからに他ならない。
いつ終わるともしれない遠距離なら、果たして続けられたかどうか。
冷静になればなるほど、難しかったかもしれない、と悲しい答えを導き出すしかない。
あの頃の私なら、ただ好きという気持ちの勢いだけで『待つ』選択をしただろうけど、道明寺は違う。
いずれ無理が生じるだろうと先を見越した道明寺は、今の私なんかよりも、ずっとずっと大人だった。
「俺はな、牧野。いつか必ず牧野を取り戻すって、それだけを糧に踏ん張ってきた。ぜってぇもう一度、牧野を手に入れて幸せにするって、先の見えねぇ未来に勝負を挑んで俺たちの運命に賭けた。⋯⋯牧野?」
言葉を止め、私以外は何も映そうとはしない真摯な眼差しに吸い込まれそうになる。
「NYに行って十年、自分の足元はきっちり固めてきた。もう苦労はさせねぇ。哀しませたりもしねぇ。だからもう一度、俺のところに戻ってきてほしい。ずっとおまえだけを愛してきた」
「道明寺⋯⋯」
「勝手だって分かってる。どんな理由にせよ、六年前、この場所で一方的に別れを告げ、おまえを傷つけたのは俺だ。だから、今度はおまえが決めればいい。許せねぇなら、俺を切り捨てろ」
切り捨てる?
どんなに藻掻いても消えなかった想いを、心の奥底に秘めてきたのに?
「⋯⋯ごめんなさい⋯⋯道明寺⋯⋯」
「やっぱ許せねぇか?」
違う、そうじゃない!
これは、何も分かろうとしなかった過ちの謝罪だ。
そう伝えたいのに、迫り上がってくるものが気道を塞ぎ、上手く声に乗せられない。
泣いている場合じゃないのに。泣きたくなんかないのに。
意思に反してポトリと一つ零れたら、もう駄目だった。
涙腺がほどけ、ポタポタと次から次へと流れ落ちて止まらなくなる。
自分の意思じゃどうにもならなくなった涙に逆らいながら、喘ぐように言葉を紡ぐ。
「な、何も⋯⋯分かってなくて⋯⋯ごめん。⋯⋯逢いたかった⋯⋯ずっと⋯⋯ずっと逢いたかったの。忘れ⋯⋯られなくて⋯⋯今でも苦しい⋯⋯ほど⋯⋯道明寺が⋯⋯好きで、」
聞き取りづらい途切れ途切れの声が言い終わらないうちに、未だ掴まれていた腕に力が込められ、道明寺の胸に引き寄せられた。
「もういい。何も言うな。ごめんな、牧野。辛い思いさせて悪かった、ごめん」
雪に飲み込まれた静かな白い世界で私が耳にするのは、まるで子守歌のような心地良さを覚える、道明寺の鼓動。
力強くも優しく温かい腕に包まれて、六年もの封印した想いが濁流となって溢れ出た私は、いつまでも子供みたい声を上げて泣きじゃくった。
「落ち着いたか?」
泣き止むまで大きな手が背中を擦り、呼吸の乱れもどうにか治まる。
気持ちが安定した私は、改めて道明寺に謝罪した。
「道明寺、ごめんなさい。私、自分のことばっかりで、道明寺にも滋さんにも迷惑かけて──」
「止めろ」
腕を解いた道明寺に顔を覗き込まれ、額をパチンと指で弾かれる。
「痛っ!」
「ったく、おまえといい滋といい、何で自分のせいだって思うんだよ。俺が全部悪りぃ。おまえら揃いも揃って自分を責めんな。それに、滋なら進藤に任せときゃ大丈夫だ」
「進藤⋯⋯さん?」
訊いたことのない名前だ。
「おぅ。うちの幹部候補で滋のフィアンセ。俺んとこに何度も来るうちに顔見知りになって、付き合うようになったらしい。滋のヤツ、おまえに内緒で俺に会いに来てたから、進藤のことも詳しく話せなかったんだろ」
そうだったんだ。
まさか滋さんの恋人が道明寺HDの社員だったなんて、想像もしなかった。
「NYに恋人がいるっていうのは訊いてたけど、道明寺の会社の人だったんだね。知らなかった。でも、やっと結婚する気になったって⋯⋯」
「あぁ。今回の俺の帰国で、ぜってぇに牧野を取り戻すって滋に宣言したからな。あいつも安心して、やっとプロポーズ受ける気になったんだろ」
「えっ、だったら私が道明寺を拒絶してたら、滋さんの結婚はどうなってたの?」
「どうもなんねぇよ。牧野を手に入れるまで、俺が追いかけるだけの話だ」
そういうところが変わってなくて「くすっ」と笑えば、泣いたり笑ったり忙しいヤツだなって、道明寺も笑う。
顔を寄せ合い一頻り笑ったところで、道明寺はスマホを取り出しどこかに繋いだ。
「俺だ。トレード成立だ」
『ホント!! きゃーーーーっ、つくしおめでとーーっ!』
あ、滋さんだ!
にしても凄い声。スマホを耳に当てていない私にまで、一語一句明瞭に聞こえてくるのだから、耳に当てている道明寺にしてみれば、災難とも言えるけれど、
「てめぇっ! でっけぇ声出してんじゃねぇよ! 鼓膜が破けんだろうがっ!」
応戦する道明寺だって相当なもの。どっちもどっちな気がしてきた。
「⋯⋯あぁ⋯⋯そうか⋯⋯あ? バカかてめぇは! 邪魔すんじゃねぇっ!」
最後にもう一度怒鳴って切られた通話。
「そんな怒鳴って切らなくても⋯⋯」
「いいんだよ。ったく滋のヤツ、ふざけやがって。それより、行くぞ!」
「行くってどこへ?」
「滋に見つかんねぇとこ。あの女、今からお祝いするとか騒ぎやがって、牧野を拉致りに行くとかほざいてやがる。あの女ならやりかねねぇ。っつう訳だから、早いとこ二人っきりになれるとこ行こうぜ」
────二人きり。
想像して固まる。
何せ六年ものブランクだ。あまりの展開の早さに緊張するなって方が無理だ。
「なに照れてんだよ。あんときみたいに温めてやるよ。今の電話で滋が言ってたぜ? カナダの話したら、牧野の顔色が変わったって。雪見て思い出したんだろ? 安心しろ。温めるどころか、汗ばむくれぇのことしてやるから」
「バ、バカ言わないでよっ! なにする気よ!」
「なにって、ナニに決まってんだろうが。おまえ、ホントそういうとこ変わんねぇな。大人になってもカマトトぶるとこ。顔真っ赤だし────すげぇ可愛い」
最後だけ耳元に顔を寄せ、吐息を吹き込むように言うもんだから、危うく声が漏れそうになった。
今のは絶対にわざとだ!
私だけからかわれるは悔しくて、負けず嫌いが顔を出す。
「だったら早くホテルに行こうよ」
「へ!?」
恥ずかしさを精いっぱい端に追いやって強気に言ってみれば、途端に道明寺は固まって、私に負けず劣らず耳まで真っ赤に染まっている。
「バ、バ、バカかおまえは! 女がそんなこと言うなっ!」
「道明寺も全然変わってないじゃない。顔、赤いよ? ちなみに、ホテル発言は冗談だから安心して?」
「て、てめぇ、俺をおちょくりやがって! 冗談なんかにさせて堪るかっ! 全部ひん剝いて、六年間に妄想したあんなことやこんなこと、全部実行してやるから覚悟しとけよっ!」
「ひぃっ!⋯⋯も、妄想ってなに!?」
恥ずかしいやら怖いやら。しっぺ返しが偉いことになったと言葉を失う私に、ニヤリと笑う道明寺。
簡単に余裕を取り戻した道明寺の表情にムカつくのに、それを上回って格好いいと思ってしまうのだから重傷だ。
私はずっと昔から、この男だけに────イカレテル。
こんな日がもう一度訪れるとは思いもしなかった。
突然やって来たこの幸せが夢じゃないのだと確かめるために、温もりを求めて道明寺の胸に飛び込んだ。
大きな背中に両手を回せば、応えてくれるようにきつく抱きしめてくれる腕の中は、昔から何も変わらない、私の唯一の落ち着ける場所。
「なぁ、さっきの電話訊いてたか? トレードって話」
抱きしめられながら、道明寺の声が首元をくすぐる。
そう言えば、トレード成立とか言ってたっけ。
「道明寺、球団まで持ってるの? それともサッカークラブ?」
「違げぇよ。おまえと進藤がトレードするって話だ。来月から牧野は道明寺HDの社員な」
「えぇぇぇっ!?」
「そんな驚くことでもねぇだろ。滋と結婚すんなら進藤が大河原で働くのは必然だし、道明寺になるおまえが大河原にいる方がおかしいだろうが」
「道明寺になるって、それって⋯⋯」
「結婚して、牧野。俺が必ずおまえを幸せにしてやる。俺の幸せのためにも。だから、死ぬまで俺の傍にいろ」
耳元で囁かれたのは感情の籠った熱い声で、この六年、流したことのない嬉し涙が再び溢れ出す。
もう涙も隠さなくていい。何も身に纏わなくていい。戦闘服はもういらない。
少なくとも愛しい人の前では、私の全てを曝け出せばいい。
誤魔化すことを止める決断に、迷いはなかった。
だって、自分がどれほど道明寺を愛していたのかは、この六年で嫌っていうほど思い知ったから。
「幸せにしてよね」
「おぅ、任せろ」
「私も道明寺を幸せにしてあげる」
「あぁ、任せた」
胸に頬を当てながら答えた私の身体は、更に強さが増した力で抱きしめられる。
視線の先には、そんな私たちをじっと見ている大きな雪だるまがいた。
もしかして、と首を反らして空を見る。
やっぱり思ったとおりだ。
止む気配のない降り続く雪は、辺り一面をまだまだ銀世界にするつもりらしい。
音も立てず、ゆっくりと風に揺らめきながら落ちてくる雪。
時折、キラキラと反射して輝くそれは、見る者を幻想の世界へと誘う。
嫌いになりそうだった雪の世界を、こんなにも美しいと感じられる自分がいる。
「どうした?」
道明寺が涙に濡れる頬を拭ってくれても、私は空から目が離せなかった。
「⋯⋯綺麗」
呟けば、道明寺も空を見上げる。
「あぁ、そうだな」
きっと今の私は、あの男の子と同じ顔をしていると思う。
見えるもの全てが幸せに繋がりそうで、目だってあの子に負けないくらい、きらきらと輝いているかもしれない。
幸せを幸せって、綺麗を綺麗って素直に思えるのは、傍に道明寺がいるからで。道明寺がいれば、私の世界はこんなにも鮮やかに彩られる。
神秘的に煌めき身を任せて漂う、泡雪。
春になれば、別れの象徴だった桜の花びらも、この雪のように心穏やかに見れるはずだ。────愛する人が一緒ならば。
冷たい空気の中で感じる温もりと、愛しい人の鼓動を静寂の中に聞きながら、私はいつまでも天を仰ぎ見た。
色に染まらない雪が、あの日の花びらと同じように地上に落ちてくる。
儚く消えるほどに人の心に染み入るのは、天から舞い散る────雪花。
見上げる私に落ちてきたのは、冷たい感触ながらも温かい────優しいキスだった。
Fin.

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皆様、素敵なXmasを!
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