Lover vol.12
金曜の夜のせいか、人も車も普段より多い気がする。
けれど、幸いにも大きな渋滞には巻き込まれず車はスムーズに流れ、何とか時間には間に合いそうで、ふぅ、と安堵の息を吐いた。
落ち着いた途端に考えてしまうのは、進のこと。
実は本当にシスコンだった、ってことはないだろうけど、一体なにがあってあんなに口うるさくなったのか。思い当たる節はない。
かつては、自宅に泥棒が入り、私の後ろに隠れて怯えるような子だったのに、今じゃ偉そうに姉に門限を指図するようになるとは⋯⋯。
何より、進には似つかわしくもない、険しくなった表情が気になる。
進にあんな顔をさせる何かがあったのだろうか。
考えても答えは出ないまま気づけば目的地は目前で、タクシーは静かに速度を落とした。
メーターを確認し、財布から千円札を2枚抜き取る。
僅かに出るおつりはもらわなくていいや、と財布をしまった丁度そのとき。無情にも停まる間際に跳ね上がった料金メーター。
げっ!
悔しくて小さく舌打ちをし、しまいこんだ財布から小銭を取り出して、きっちりぴったり支払いを済ませた。
Lover vol.12
初めて来たお店の中は、所々に赤の差し色を使っているものの、黒が基調で全体的に薄暗い。
鉄板のあるカウンターだけは、間接照明に照らされ目立って明るいが、これは鉄板でのパフォーマンスをよく見せるための演出だろう。全体的にはスタイリッシュな造りだ。
お店の人に予約者である瀧本さんの名を告げると、既に瀧本さんは到着しているようで、2階の席へと案内される。
一見、高級クラブのようにも見えるこの店は、鉄板料理とお酒を楽しむ大人の空間だと評判だ。
ランチならお手頃だろうから、今度、優紀を誘って来てみるのも良いかもしれない。そんなことを考えているうちに辿り着いた、個室。
店員さんがドアをノックし、
「お連れ様がお見えになりました」
開けたドアの向こうに、その人はいた。
1階同様、個室の中も薄暗い。
気の置ける友達となら、雰囲気があるよね、と楽しむこともできるだろうけど、如何せん、相手は強引な相手だ。
個室という空間に、決して少くなくはない抵抗を感じつつも、今更逃げ帰るわけにもいかなくて中へと入る。
「瀧本社長、お待たせして申し訳ありません」
「いや、俺も来たばかりだから」
来たばかりというのは、私への気遣いだろうことは直ぐにわかった。
店員さんに椅子を引かれて座る向かいには、既にシャンパンクーラーが置かれボトルが突き刺さっているのだから、時間に余裕をもって来たのが窺える。
でも気になるのは、そこじゃなく、ボトルだった。見覚えのあるラベルを見て、早速、萎縮する。
もっと気軽な飲み物がいいんですけど!
クラッシュアイスに冷やされているそれは、高級シャンパンの代名詞とも言える、Dから始まるアレだ。
色はピンク。エノテークやゴールドじゃないだけマシかもしれないと思うものの、どうしてもその銘柄のシャンパンが飲みたいのなら、せめて白にしてほしかった、というのが本音。
もっと言えば、安いスパークリングワインがいい。
安くても高級シャンパンに負けないくらい美味しいのだってあるんだし、一番良いのは、値段がわかりやすい生ビールだったら本気で助かる。
だって、この人に奢ってもらう理由がない。初めから、そんなつもりは更々なかった。
だからこそ、懐事情が心配になってくる。
「食事の方は勝手に決めさせてもらったけど、良かったかな?」
いいえ、自分で決めさせてください。高級品をこれ以上並べられたくはありません。⋯⋯とは言えず。
「はい」
頷くしかない。
「先ずは乾杯しようか。ゴールドがなかったからピンクにしたけど、女の子ならこっちの方が良いよね。飲めるでしょ?」
危なっ!
ゴールドがあったら、そっちにするつもりだったとは⋯⋯。
品切れ万歳だ。
そもそもピンクだっていくらするんだか。
リカーショップでなら、自腹で買えない値段ではないにしても、買うのに大いに躊躇する金額であるのは間違いない。
今じゃ、そこそこお給料はもらっているし、昔に比べたらそれなりにお金を使うこともあるけれど、大半は貯金に回すのを趣味としている私が、飲み物に大枚を叩く感覚など持ち合わせているはずがない。
タクシーの料金が跳ね上がって、舌打ちしてしまうような女だ。
長年培ってきた貧乏性は、そう簡単に直りはしない。
そういえば昔、18万の使い道を訊かれて、ほとんどを貯金するって答えたら、どこぞのお坊ちゃまに笑われたっけ⋯⋯って思ったところで、突然顔を出してきた記憶を払うように、頭を振った。
なんであいつが出てくんのよ!
ヤツの代わりに、財布の中の諭吉の顏を思い出す。
こういう場所で提供されるシャンパンなら、料金は、相場の2倍から3倍といったところか。
となると、諭吉をかなり多めに下ろしてきたとはいえ、割り勘にしても心許ない。いや、払えないかもしれない。
よし、ここは素直に『できれば生ビールを』と言ってみよう。
そう思い口を開けたと同時、ポン、と軽快な音が鳴った。
自ら栓を抜いた瀧本さんの手には、ナフキンと共にマッシュルーム型のコルク。
飲めるとは言っていないのに栓を開けられてしまっては、今更生ビールを、とは言えなくなった。
直ぐに答えなかった私が悪いのか、目の前のフルートグラスにピンクの液体が注がれていく。
「つくしさん、グラス持って」
「⋯⋯はい」
白い泡は直ぐに消え、小さな気泡が弾けるグラスを、観念して手に持つ。
「乾杯」
瀧本さんがグラスを掲げ、私も同様にする。
仕方ない。こうなったらシャンパン代は甘えて、食事代だけは払わせてもらおう。
本当なら1円たりとも借りは作りたくなかったのに⋯⋯、と不満もシャンパンと一緒に飲みこんだ。
――美味しい。
一口飲んだシャンパンは、こんなシチュエーションでも間違いなく美味しい。
空腹の胃に沁み渡る炭酸が心地よい刺激となって、ぐびぐび飲んでしまいそうになる。
けれど、そこはグッと我慢だ。
油断して飲んだら、ビールよりアルコール度数が高い分、直ぐに酔ってしまう可能性がある。
そんな危険な真似はできない。
「良かったよ」
グラスを傾けながら瀧本さんが屈託なく笑う。
「何がでしょう」
「もしかして、今日は来てもらえないんじゃないかって思ってね。実は心配してたんだ」
「お約束は守ります。ですが瀧本社長、今夜、私がここに来たのは――」
「ストップ」
片手をパッと開いた瀧本さんは、私の言葉の先を止めた。
「今はまだ訊きたくないかな。折角なんだから、そういう話は食事が済んでからにしない? まずは、美味しい食事とお酒を楽しもう。それから肩書きもナシで頼むよ」
言われてみれば確かにそうだ。
いきなり本題を切り出し、重苦しい雰囲気の中で食事をするのは、ちょっとした拷問だ。
交際を断る気持ちは微塵とも揺るがないけど、せめてそれを伝えるのは食後の方が良いと思えた。
役職呼びはどうしようかと、急いで考えを巡らす。
別の会社社長を介し名刺を渡され紹介されている以上、呼び方としては『瀧本社長』で正しいはず。
親会社では専務の肩書きもあるようだけど、渡された名刺は、瀧本さんが任されている子会社のものだった。
ならば友人ですらないのだから、線引きするためにも役職で呼びたいところではある。
でも、嫌でも後々、重い話をするのだから、今、空気を変えるのは得策じゃない。
ここは瀧本さんの要望を大人しく受け入れておく方が賢明かもしれない。
「わかりました。では⋯⋯、瀧本さん、お話は食事の後で」
「良かった。なら、じゃんじゃん飲んで、どんどん食べてよ」
そう言われたからって、じゃんじゃん飲むのは無理だけれども、どんどんの方には素直に従った。
適度な間隔で運ばれてくるコース料理は品数が豊富で、他愛のない会話をしながら食べるそれらは、どれもこれもが美味しい。
あまりの美味しさに、緩みそうになる頬を意識して引き締めなければならないほどで、せめて、がっつかないようにと心がけながら口に運んだ。
メインだと思われたサーロインステーキに続き、フィレステーキまで現れたときにはビックリしたけれど⋯⋯。
流石にもう食べられない、と思ったのも一瞬だけ。
一口食べれば結局は止まらず、何なく胃袋に収めてしまった私の前には今、デザートが置かれている。
あれだけ食べてもデザートは別腹だと思える私の胃は、相当に頼もしく頑丈にできているらしい。
早速、スプーンで掬って頂く私とは違って、瀧本さんは甘いのが苦手なのか、手を付けようともせずに静かにコーヒーを飲んでいる。
何となく途切れた会話。
もしかしてこれは、話を切り出すには丁度良いタイミングなんじゃないだろうか。
デザートに未練を残しながらもスプーンを置き、口の中の甘さをコーヒーで逃がすと、本題を告げるべく口を開いた。
「瀧本さん、今夜は楽しかったです。ありがとうございました。これからも、友人としてならお付き合いさせていただきますが、瀧本さんが望まれるような関係でしたら、申し訳ありません。お気持ちにお応えすることはできません⋯⋯ごめんなさい」
数秒頭を下げてから元に戻すと、瀧本さんは、テーブルに乗せた手元辺りに視線を置き、口を引き結んだまま。
何を考えているのかわからず反応を待つだけの時間は、とても長く感じた。
重たい沈黙に潰されそうで、いよいよ息苦しく感じてきたときだった。漸く瀧本さんが口を開く。
「ごめん」
その謝罪を、『今まで困らせてごめん』と解釈した私は人が良いのだろうか。
違う、そうじゃない。やはり日本語が通じない人だ! と理解するまでに、今度はさして時間はかからなかった。
「悪いけど、つくしさんのこと諦めるつもりはないんだ」
「え、いや、そんなこと言われても困ります」
「もしかして、他に好きな人でもいるの?」
「いえ、いませんけど、でも――」
「なら問題ないじゃない」
「大ありです! 私、瀧本さんに限らず結婚なんて考えていませんから。瀧本さんと結婚を前提にお付き合いすることは、これから先も絶対にありません!」
言った。はっきりと言った。声を大にして言ってやった。
⋯⋯なのに、どうしてだろう。
断ったのにも関わらず、瀧本さんは、ポケットから取り出したものをテーブルに置く。
置かれたものは、正方形のビロードケース。
瀧本さんの手によって開けられたそこには、ダイヤの指輪がキラキラと眩いばかりに輝いていた。

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