その先へ 22
タクシーで帰ると遠慮する牧野を、迎えに来させた車に無理やり突っ込めば、走り出した途端に鳴るスマホ。
「悪りぃ」と、牧野に断りを入れ、取引先の社長からの電話を受けること2、3分。
…………早ぇ。
スマホを切り、右隣にいる牧野に目を向ければ、頭を垂れてスヤスヤと寝ている。
車に乗るまで足取りは乱れてなかったが、やはり飲み過ぎたか?
「……おい……牧野?」
起きて欲しい気持ちと、寝かせといてやりたい気持ちがせめぎ合い、掛ける声も躊躇して自然と小さくなる。
起きねぇよな……しかも、こんな小声じゃ。
どうすっか。
こいつが寝てちゃ、家も分かんねぇし。
だいたいの場所は聞いたが、細かい番地までは聞いちゃいねぇ。
やっぱ起こすべきか? と悩みながら牧野を見ると、頭がコクンコクンと揺れている。
流れ落ちる黒髪で、その寝顔は隠れてるが、こうして無防備に寝てる姿は小さくて、日頃、パワフルに動き回ってんのが嘘みてぇに見える。
こんな華奢な体であちこち駆けずり回ってりゃ、そろそろ電池も切れるころかと、何だか起こすのは可哀想で止めた。
スマホを再び取り出し電話を西田に繋げようとするも、それも止めて、話し声で起きないようにとメールに切り替える。
牧野の自宅を調べて運転手に知らせろ、とチマチマと打ち終えスマホをしまった。
静かな車内。
大人しく眠る華奢な女を目に入れ、今夜過ごした時間を思い出す。
飲んで、食って、色んなこと話して。ついでに連絡先も交換して。
一緒に過ごした時間のどこを刻んでも、不思議なほど俺は心が和んでいた。
夢と同じように。
それも、当然なのかもしんねぇなと、今日つくづく思った。
夢に出て来る女こそが、おまえなんだろうから。
夢に出てくる女は、顔が見えない。
いつだって霞んだままだ。
分かるのは、英徳の制服を着ているのと、俺を『道明寺!』って呼ぶ声だけ。
ずっと、それが誰なのかなんて分からなかった。
それ以前に、ただの夢だと深く追及することもなかった。夢なんて非現実的な世界なんだからと。
その非現実的な世界にいる時だけ、俺はいつだって穏やかでいられた。
NYに行ってからも今でも。
漠然と、もしかしたら夢の女は牧野なんじゃないか? と、考えるようになったのは、こいつが俺のテリトリーに入って来ても、違和感を感じなくなった頃か。
調査書の結果からして、俺達が付き合ってたのは間違いないんだろう。
だったら、牧野の可能性もあるんじゃねぇかって。
だから、ランチの時に牧野に聞いた。
おまえは、俺を何て呼んでた? と。
答えは 予想通りだ。
俺を名字で呼び捨てにするヤツは他にはいない。
やっぱりおまえなのかと、あん時は、牧野の顔をじっと見入っちまった程だ。
顔のないはずの女が今、目の前にいるのかと確認するように。
牧野が俺の前から立ち去って行った時の、曖昧だった記憶も、思い出せば確かに牧野は俺を夢と同じように呼んでいた。
夢では顔は見えずとも、その声はいつだって明るく弾んでいて、そして俺もまた、夢だと分かっちゃいるのに、その心地好さにすがった。
たった、束の間の夢に。
そんな夢の女と牧野が同じ人物だとしたら、こんなに心が休まるのも、おかしかねぇ。
牧野に "道明寺" と呼ばれれば、どこかくすぐったくて、懐かしくて。
あの夢も、俺の消えた記憶の断片だとも考えられる。
なんで今まで気付かなかった?……って、今更か。
あの頃の俺には、そんな余裕すらなかった。
失くした記憶が何なのか分からず、イラつきが先行して、それを牧野にぶつけてた気もする。
幼馴染達の焦れてる様子にも腹がたった。
誰よりも俺が記憶を取り戻してぇって願ってんのに、何一つ思い出せねぇジレンマ。
自分の記憶が突然削られることが、どれだけ不安で恐怖か分かるか! 誰かに叫びたい衝動の中、宛もなく答えを探す日々。
何の手掛かりもなしに、探る程に焦り、焦る程に探って。
それでも見つけらんねぇのは、どうしてか。
やがてそれは、見つけらんねぇ、どうしても。と、思いの秤が諦めに寄った。
あきらや総二郎がこそこそしてんのも、訴えかけるような目つきの類にもうんざりで、逃げるようにNY行きをあっさり決めた俺は…………、
希望も見付けられず疲れ果て、全てのものに求めることを止めた。
牧野が気に病むのが嫌でさっきは話さなかったが、アイツ等からも記憶からも、全部を面倒という枠で片付け、本当は逃げ出したんだ。
「ごめんな」
唐突に込み上げた想いが口から滑り落ち、真っ直ぐな黒髪をそっとひと撫でした。
起こさないよう気遣い、直ぐに手を引いた俺は、今度は漏れ聞こえぬよう胸の内でひっそりと問う。
誰も答えなど持たない、遣りきれない問いを……。
なんで俺は、おまえを忘れちまったんだろうな……、と。

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