Lover vol.5
「ただいまー」
「どう? 今日こそは運命の男性と出会えたぁ?」
玄関に入るなり私を出迎えるのは、奥のリビングから届けられた、もう何度訊いたかしれないお決まりの科白。
3日前にも一言一句違わずに訊いたそれは、言うまでもなく、母親から発せられた無神経な言葉だ。
毎度毎度、芸もなく同じことばかり言ってくるけれど、数日で簡単に出会えるくらいなら、誰も苦労はしない。
頻繁に顔を合わせているだけに、満面の笑みで迎えてほしいとまでは望まないけれど、たまには『お帰り』くらい言ってくれても良いと思う。
「まぁ、望むだけ無駄か」
独りごちると、身体をふらつかせながら片足をあげ、きつく締め付けられたロングブーツを順に片方ずつ脱ぎ捨てていく。
男性が見たら一発で幻滅するだろう格好だ。
こんな女らしさに欠ける私が結婚なんて、ちゃんちゃら可笑しくて笑っちゃう。
それを認めようとはしない奥にいる人は、未だ娘に夢を見ているのだから本気で困る。
「さて、行くか!」
実の母親と対面するのに、何が悲しくて気合いを入れなきゃならないんだか。
待ち受ける母との会話を想像して「よし!」と、もう一つオマケの気合いを入れると、ずかずかとリビングへと向かった。
Lover vol.5
「あのね、ママ。私は男を探すために社会に出ているわけじゃないからね?」
リビング入って直ぐの開口一番、私も案外諦め悪く、ダメ元の主張を繰り出してみる。⋯⋯が。
「え? じゃあ、何しに働いてるのよ。英徳まで出ておいて」
やっぱり駄目だった。今日も私の主張は通らないらしい。
昔の我が家にはなかった、爽やかな香り漂う高級緑茶を淹れている母親は、心底不思議そうな顔で首を捻る。
仕事は男性と出逢う手段の一つ、と本気で思っていそうな表情に、早くも脱力しそうだ。
よくもそんな呑気なことを言えたもんだわ、と嘆きたくなる。あれだけお金で苦労してきたんだから、人は生活を維持するために働かなきゃならいんだって、そんな当たり前のこと、わかっていても良さそうなのに⋯⋯。
いや、わからない人だからこそ、うちは貧乏だったんだろうか。
パパだけに原因があるわけじゃない気がする。
何だか、かつての貧乏に陥った根源を、ここに垣間見た気がした。
だからって忘れないでほしい。
かつての我が家が貧乏の中の貧乏だったせいで、まだ高校生だった私が、必死になって働いていたってことを。
ついでに言えば、英徳に入ったのだってママの見栄のため。
おかげでこちとら、生ゴミまみれになる悲惨な経験をする羽目になったんだから!
と、思い出すのも腹立たしい要らぬことまで思い出し、母からお茶を差し出されたところで「とにかく!」と声に力を乗せて宣言する。
「申し訳ないですけど、まだまだ結婚なんて考えてないんで、暫くは牧野姓を名乗らせてもらいますから!」
言うだけ言ってお茶を啜る。
「あら~、そんなこと言わずに、直ぐにでも『道明寺つくし』になってもいいのよ?」
「ブハッー! 熱っ!」
「やぁね、この子ったら。29にもなってお茶を吹き出すなんて。幾つになっても落ち着きがないんだから。こんな姿を道明寺様に見られたりしたら、愛想尽かされちゃうじゃないのよ」
あいつならこの程度で動じたりしないわよ!
あいつの高級スーツに、思いっきり吐いたこともあるぐらいだしね!
⋯⋯って、違う。気にするのは、そこじゃなかった!
「なんでここで道明寺の名前が出てくるわけ?」
濡れたテーブルを布巾で拭きながらチラリと母親を睨めば、どういうわけか嬉しそうに顔を綻ばせている。
「だって道明寺様、離婚したんでしょう? だったら、もう一度掻っ攫ってもらいなさいって!」
脳天気にもほどがある。
なんなのよ、そのデリカシーのなさは!
突拍子のない常識外れの発想に呆れて声をなくす私に、更に追い打ちをかけるよう、キッチンから大皿を持ってきたママは、それをドンっとテーブルに置いた。
「さぁさ、お祝いよ〜。今夜は、たーくさんお食べ〜」
訊くべきか。一応、確認すべきなのか、大皿のそれ。
どうしてあるのか、こんもりと盛られた赤飯が!!
「ママ、祝うようなことなんて何かあった? 私には全く心当たりがないんだけど」
「決まってるじゃないの~。道明寺様の離婚祝い&二人の復活祝いよ~」
さも当たり前のように言い放ち、またもキッチンへと戻って行ったママは、続けて鯛の姿焼きまで運んできた。
テーブルの上にご丁寧に並べられた祝いの象徴――――お赤飯と鯛の姿焼き。
⋯⋯ごめん、ママ。
いくら親といえども、今、ちょっとだけ殺意が芽生えたかも。
「ママっ! 私と道明寺はもう関係ないの! っていうか、離婚した道明寺を祝うだなんて、人としてその神経を疑うんですけど! いくらなんでも道明寺に失礼! 非常識でしょうが!」
「だって、道明寺様からしたら喜ばしいことなんじゃないの? 大金持ちの世界に生まれたばっかりに、自分を犠牲にして結婚したんだろうし。それに比べて貧乏人は気軽でいいわ。犠牲にするものもなければ、捨てる物もなにもないものね!」
こらこら待て待て。
その貧乏のせいで、うら若き乙女だった私の青春時代が犠牲になっていないとでも?
若い身空で苦労したのは誰だったか、もしや本気で忘れたわけじゃないでしょうね?
それよりも!
進といいママといい、それからきっとパパも。どうしてうちの家族は、揃いも揃って道明寺贔屓なんだか。
8年前、別れを告げられたのは、娘である私の方だっつーの!
実の母親と話す度に、どうしてこんなに神経を磨り減らさなくちゃならないのか。
まともに対応するだけ馬鹿を見るのは自分だ。そう思い直し、この家で唯一の癒やしである祖母の顔を見に行こうと立ち上がる。
くるりと背を向ければ、まだ言いたいことでもあるのか、ママが呼び止めた。
「つくし?」
「今度はなに? くだらないことなら止めてよね」
仕方なしに振り返って見たママの顔は、こちらがギョッとするくらい真剣な顔で、真っ直ぐに私を見ている。
「運命の人をつくしが見つけられないでいるのは、そういう相手にもう出逢っちゃったからだと、ママは思うのよ」
「はい?⋯⋯まさかとは思うけど、その相手とやらが『道明寺様よ~』なんて馬鹿なこと言うんじゃないでしょうね」
「あらやだ、つくしったら。私の真似うまいわね。そっくりじゃないの」
褒められても全く嬉しくないことを褒めてから、ママは続けた。
「ママはね、あんなパパでも運命の人だと思っているのよ。
そりゃあ、貧乏で苦労もしたし泣かされたこともあるけれど、あんなパパを支えてあげられるのは、ママだけだって思ってるの。
それに、パパといるとママの人生厭きないもの。あんなに山あり谷ありで、人生を楽しませてくれる人はいないわよ。だから、良いところも悪いところも受け止めてるし、パパだってそれは同じ。
つくしにも、そう思える相手がいるはずだと思うんだけどねぇ。何があろうとも負けずに添い遂げたいと思える人が。
それが何を考えているんだか、人生楽しまなきゃ損なのに、投げやりっていうか、その若さで諦めてるっていうか⋯⋯」
ママは、しみじみといった態で溜息を吐き出した。
人の人生がまるでつまらないものだと決めてかかっているようだけど、別に私は、今の生き方に不満もなければ不幸だとも思っていない。
ママみたいに、人生の浮き沈みさえ楽しめるギャンブラー精神を持ち合わせていないだけだ。
平凡で平和が一番。少なくとも、一人ならそれが叶う。
そう言ったところで、ママの意見とは、平行線のまま噛み合わないだろうけど。
ずるずるとお茶を啜るママが、可哀想な子を見るような目で私をチラチラと窺う。
「何かと若さでカバーできる歳でもなくなったんだし、これから益々歳を重ねたら、一人でいることに不安を覚えるだろうにね」
さっきは確か『その若さで――』と言われたはずなんだけど。
舌の根も乾かぬうちに、『カバーできる歳でもない』とコロッと発言を翻したママに、不服を乗せて言う。
「今のところ不安なんてないし、お陰様で一人は気楽なんですっ!」
「はぁ-。こういうつくしの可愛げのないところも、意地っ張りなところも、道明寺様なら懐深く受け止めてくださると思うんだけどねぇ」
また出た、道明寺!
「あのね、忘れてるようだからハッキリ言うけど。私が! 私の方がっ! 道明寺に振られたんだってば! 何が悔しくて、振られた側が大きな声で主張しなくちゃなんないのよ」
「ボケてるわけじゃないんだから、それくらい覚えているわよ。つくしと別れて直ぐに婚約、一年後に結婚。全部ニュースで見てきたから、一連の流れだって知ってるわよ」
それをわかっていながら何故、娘庇わず道明寺を擁護する!?
「普通さぁ。親なら、娘に別れを告げた男に、そこまで理解を示したりしないもんじゃないの?」
「だって、ママ知ってるもの」
ぎくっ、と身体が強ばり、束の間、声が詰まる。
「⋯⋯知ってるって⋯⋯何をよ」
「道明寺様の本来の姿をママは知ってるの。
道明寺様がね、漁村に来たときに言ったのよ。つくしのこと、凄く好きだったって。ママは、その時の道明寺さんの顔が忘れられなくてね。伏し目がちながらも、想いを打ち明ける道明寺様の表情はとても柔らかくて、こんな表情もなさる方なんだって驚いたけど、同時に、この人なら娘を任せられるって、心からそう思ったわ」
「⋯⋯⋯⋯その話か」
「え、何か言った?」
「ううん、なんでもない」
知ってるなんて言うから動揺したけど、少し考えればわかることだ。知るはずないって⋯⋯。
「もうテレビや雑誌で見ることしかできないけど、どれを見ても、あの時のような顔を見せないわね、道明寺様は」
当時を思い浮かべてでもいるのか。ママの視線は虚空に浮かんでいる。
「当たり前じゃない。元々、道明寺は愛想がないの。それに、ママがどんな顔を見たか知りませんけどね、あいつがマスコミを前にして、油断した顔なんて晒すはずないじゃない」
ふーん、と気のない返事をしたママは、少し間を置いてから私を見た。
「運命の人が誰かなんて、本人であるつくし以外にはわからないことだけど。でも、あの頃のつくしは、家の苦労も背負わせてしまったっていうのに、一番良い顔をしてたわよ?
最近は、可愛げのなさに磨きがかかって、ふてぶてしくなっちゃったけど⋯⋯。だけどそれも、歳だけのせいだけだとは思えないのよねぇ」
親に可愛いと言われて喜ぶ歳ではないし、言われたくもないけれど、事も無げに批判めいたこと言われて、ムッとしないわけでもない。
でもここは、私に苦労をかけたと一応は認識しているらしいってことで、自分の気持ちに折折り合いをつけ、文句は言わないでおく。
「もしかしてつくしは、道明寺さんを恨んでるの?」
「はあ? 何よそれ」
「別れたって訊いたときは、互いに気持ちを残しながらもそうするしかなかったんだって、私も理解してたんだけどね。そうやって冷めたあんたを見てると、どうもそれだけじゃなかったのかしら、って気がしてきてね」
ママが道明寺との件について、ここまで踏み込んで訊いてくるのは、初めてのことだ。
私を気遣い、道明寺の話題には敢えて触れないようにしてくれていたんだと思う。
ならば、これからもそうしてくれれば良いのに、今日のママは違う。
瞬きもせずに私を見つめるママは、早く答えろと目で催促してくる。
今更、8年前の話を蒸し返したって、何の意味もないっていうのに。
けど結局は、粘り強いママの視線に負けて正直に言う。
「恨んでないよ」
「そう?」
「うん。恨んでない」
傷は受けた。でも、恨んだことはない。本当だ。
人の気持ちなんてものは不確かで、時間の経過とともに、いとも簡単に変化する。人は弱い生き物なんだから仕方がない。そう認めてしまえば、憎むよりも楽になれた。
そんな風に考える私も、昔とは変わった、と自覚している。
あんな恋ならもういらない、と考えるくらいには、昔の私と今の自分は違う。
「恨み辛みはないけどさ、今更、こんな話したってしょうがないでしょ? ママもいい加減諦めてよね。道明寺に対して思うところなんて何一つないんだから。当時の感情は、もう消えてなくなっちゃったの」
嘘じゃない。
多少の時間は必要だったけど、隔てた時間は、確実にあいつへの想いを取り除いてくれたんだから。
暫く私を眺め見ていたママは漸く諦めたのか、テーブルの上のリモコンを取りテレビのスイッチを入れると、溜息まじりに呟いた。
「若い二人だったけど、それでも本物の恋愛だって思ってたんだけどねぇ⋯⋯」
あの時の恋愛を本物だとするならば、確かにあんな風に、時に胸を焦がし、時に胸が痛くなるような、感情が激しく揺さぶられる経験を、あれ以来したことはない。
だけど過去のそれは、幼すぎたゆえに、何もかもが初めての経験だったから感じたものであって。あるいは、互いの環境の違いから生じた障壁が刺激となって、気持ちが昂ぶっていたとも言える。
⋯⋯別に特別なことじゃない。
果たして本物だったのか、わからなくなる結末だったあの恋を、今更振り返ったところで何の意味も持たない。
遠い記憶を手繰り寄せたところで、一度失った感情は甦らないのだから⋯⋯。
「おばあちゃんの顔見てくるね」
立ち上がった本来の目的を思い出し、今度こそ足を動かす。
「ご飯は?」
ニュースを観ながら、おせんべいを囓りだしたママに、
「まだいいや」
そう答えながらリビングを横切った刹那。
世間でも我が家でも、話題の真っ只中にいる人物の名がテレビから聞こえてきて、隣の部屋へと向かう歩調を僅かに速めた。

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