Lover vol.2
Lover vol.2
「ただいまー」
返事をしてくれる人はいないと知りつつも、ついつい口に出してしまうのは、もう習慣だ。
けれど⋯⋯あれ?⋯⋯いる?
廊下の先、ドアの向こうに人の気配を感じ、スリッパに履き替えパタパタと廊下を駆けた。
「姉ちゃん、お帰り」
やっぱりいた。
リビングのドアを開けるなり迎えてくれたのは、笑顔の弟。
このマンションで一緒に暮らしているのだから、いてもおかしくはないけれど、日が暮れるにはまだ早い時間帯。普段ならまだ仕事中だ。
「あんた、どうしたの?」
「ちょっと忘れ物を取りにね。また直ぐ社に戻るよ」
「姉ちゃんはどうだった? 桜子さんたちとランチだったんでしょ? 怒濤の攻撃躱してきた?」
流石は我が弟。
桜子たちが如何に普段から私のプライベートに踏み込んでいるのか、良くわかっている発言だ。
「まぁね。というか、今日の攻撃、思ったより早く片付いたんだよねぇ。あの人たちも忙しい身だからさ、騒ぐだけ騒いで帰っちゃったわよ」
「⋯⋯そうなんだ⋯⋯あ、それ俺の紅茶!」
「ケチケチしないでよ。もう私、自分で紅茶を淹れる元気すら残ってなーい」
ソファーに腰を下ろして、進の飲みかけの紅茶を失敬する。
程よく冷めた紅茶をひと口、ふた口、と飲んでクッションを抱えれば、再び襲い来る睡魔。
重くなった瞼は、くっ付く寸前で辛うじて踏ん張っていた。
「徹夜だったもんね。姉ちゃんも気合で何とかできる歳じゃないんだしさ、あんま無理するなよ」
「悔しいけど反論できないわ。流石に限界だからもう寝るね⋯⋯あ、そうだ。私、夜は実家に行くから、進も夕飯食べがてら顔出したら? 最近、進の顔見てないって、おばあちゃん寂しがってたよ?」
「うーん、今日はちょっと厳しいかも⋯⋯。近いうちに顔出すから、今日のところはよろしく言っといてよ」
「仕方ないか。りょーかい」
と言いつつ、小さな溜め息が落ちる。
進が来てくれれば、私への風当たりも軽くなると思ったのに、当てが外れた。
進は大学に在学中、同じ学部の先輩だった人と一緒に、IT会社を立ち上げた。
進たちの能力を買って、スポンサーに名乗り出てくれた人の甚大なる力添えもあり、ここ数年で急成長を遂げている。
持つべきものは、出来の良い息子。
対して、玉の輿に乗れなかった29歳の娘には、両親からの風当たりが強い。
1年前に進が中古の戸建てを買ってあげた家には、両親と、そして母方の祖母が一緒に暮らしている。
祖母は、祖父を亡くしてから福島で一人暮らしをしていたけれど、病気により身体が不自由になり、それを機に両親が引き取り同居するようになった。
何かと大変な介護をほんの少しでもサポートできればと、週に3回くらいの割合で実家に顔を出しているのだけれど、そんな私に対し母親から毎度向けられるのは、哀れみの眼差しと溜め息のワンセット。
失礼なことに、もう誰でも良いから嫁に貰ってほしいと、心の底から願っているらしい。
何も結婚が全てじゃないと思うし、なんなら頭には既に、お一人様計画だってある。
そもそも今の時代、この歳で行き遅れ扱いはナンセンスだ。そう声高に説いたところで、大人しくしてくれる親じゃないから、ほとほと困る。
何より今は仕事が楽しい。
とはいっても、就職先は進の会社であり、出来の良い弟のお陰で役職までいただいているのだから、姉としては、今ひとつ格好がつかないけれど。
「姉ちゃん、俺、そろそろ行くね」
「うん、気をつけてね」
「⋯⋯あ、それからさ」
玄関へと向かおうとしていた進が足を止める。
背を向けたまま後頭部を掻いた進は、探るような目をしてこちらを向いた。
「姉ちゃん⋯⋯見た?」
「何を?⋯⋯あっ! あんたが隠し持ってるAVのこと? それなら観てないよ」
途端に目が泳ぎだした進は、わたわたと落ち着きをなくし、見る間に顔が真っ赤に染まっていく。
「っ! 違うっ! あれは先輩に押しつけられただけでっ⋯⋯、てか、人の部屋探るなよな!」
「人聞きの悪い。掃除してたらたまたま見つけちゃったんです! 確かタイトルは⋯⋯、美乳ナースの卑猥なお仕――」
「わーっ、言うなっ! もうその話はいいからーっ! そうじゃなくって、ニュースだよっ!⋯⋯姉ちゃん、ニュース見た?」
どうにかこうにか動揺を追いやったらしい進は、また顔色を窺うように私を見る。
「ニュース? 時間がなくてまだまともに見てないけど、ニュースがどうかした? 何か衝撃的な事件でもあったわけ?」
「うん⋯⋯⋯⋯道明寺さん。今、凄く騒がれてる」
「道明寺?」
画面に映し出されていた、あの眼光を思い出す。
「帰ってくるときに、大型ビジョンに映ってる姿は見たけど。もしかして道明寺、とうとう何かやらかした?」
「道明寺さん、帰国したんだ。日本に拠点を置くらしい」
「ふーん、そうなんだ」
「⋯⋯⋯⋯」
⋯⋯なんだろうか、この子は。黙ってジーッと人の顔を見て。
姉弟といえども、不躾すぎるでしょ。
「進、可愛いお姉ちゃんの顔、そんなに見ていたいの?」
まんまと聞き流した進は、数拍置いてから口を開いた。
「騒がれている理由は、それだけじゃない」
「やっぱ何かしたんだ、あいつ」
「道明寺さん、4年前に離婚してたんだ。それが公になった」
「へぇー、離婚してたんだ。俺様な性格に愛想尽かして、奥さんに逃げられちゃった? それとも浮気がバレたとか。
だけど良くもまぁ、4年も隠し通せたもんだわ。今じゃ、広告的な存在の道明寺のイメージを、よっぽど守りたかったんだろうね」
「道明寺さん、そんな人じゃないでしょ?」
いやいや、そういう人だから。
「進、知らないの? あいつの俺様ぶり」
「そうじゃないよ。浮気とかするような、そんな人じゃないでしょ」
昔からそうだ。
名前すらまともに呼ばれたことがないのに、何故か進は道明寺を慕っている。
進の立場を思えば、道明寺サイドを庇いたくなる気持ちはわからなくもないけれど。
でも、それはそれ、これはこれで、そこまで義理立てすることもないのに。
「進、道明寺だってね、所詮は男なのよ?」
「それ本心で言ってる? 何で姉ちゃん、そんなにサバサバしてられるわけ?」
「サバサバって言われてもねぇ。これが率直な感想だし、もう道明寺とは関係ないし?」
「でも今なら道明寺さんと――」
「だっーーーーっ! もうこの話は終了!」
腹の底から吐き出した威勢の良い声で、進の発言をねじ伏せる。
全く、道明寺、道明寺って。
これから気持ちよく寝ようとしている私に、不吉な名前を連呼しないでもらいたいもんだわ。
夢の中にあいつが睨みを利かせて出てきたら、どうしてくれんのよ。安眠妨害良いとこじゃないの。
いつまでも、私と道明寺に拘り続けられても、はっきり言って迷惑以外の何ものでもない。
突っ立ったまま動かない進を放置して部屋に向かおうとすれば、尚も追いかけてくる進の声。
「俺、姉ちゃんには道明寺さんしかいないと思ってる。きっと、道明寺さんだって⋯⋯。だから、後悔だけはしないでよ」
仕方なく立ち止まり、振り返る。
「残念だけど、ご期待には添えそうもないわね。私に道明寺は必要ない。今もこれからも。じゃあ、おやすみ〜。仕事頑張ってね〜」
まだ言いたげな進に向かって手をヒラヒラさせ、今度こそ自室へと入った。
今更、何で道明寺なんだか。
もう8年も前に終わったことだ。
思い出しても何も感じないほど、道明寺に対する全ての想いは、風化して消えちゃっている。
そんな道明寺の情報などいらない。
私が何よりも欲しいのは――――
睡眠よ、睡眠!
電気をつけてから、進のせいで余計に疲労が増した身体で、ベッドにダイブする。
着替えるのもメイクを落とすのも億劫で、そのままの格好で柔らかな布団に受け止められた私は、サイドテーブルに置いてあるアイマスクを取り目を覆い隠すと、秒で思考をシャットダウンさせた。

にほんブログ村
- 関連記事
-
- Lover vol.3
- Lover vol.2
- Lover vol.1