手を伸ばせば⋯⋯ The Final 14.【最終話】
――――あれから時は経ち、皆の前で愛を誓い、人知れず『脱淡泊!』を決意した日から、二年の歳月が流れた。
手を伸ばせば…… The Final 14.
『脱淡泊』を決意してからというもの、時折、桜子に「しつこい」と叱られることはあっても、俺は今も幸せだ。
幸せの真っ只中にいると言っても良い。
隣には俺に肩を抱かれた最愛の妻がいて、その妻の細い腕の中では、小さな天使が気持ちよさそうにスヤスヤと眠っている。
柔らかな表情で天使を見つめる桜子はまるで女神のようで、これぞまさしく幸せの象徴、と呼ぶべき絵になるシーンだ。
「桜子、そろそろ俺にも抱かせてくれよ」
「えぇ」
ぷにぷにとした小さい身体を落とさぬよう、そっと桜子から受け取る。
「可愛いな。見てるだけで癒やされる」
「えぇ、本当に。なんだか幸せな気分になりますね、あきらさん」
「あぁ、幸せだな」
とある日曜の昼下がり。
俺たちは、こうして和やかな時間を過ごしていた。
――が。
「⋯⋯⋯⋯我慢ならねぇ」
ドアの開閉音が訊こえたかと思えば、平穏なひとときに不穏な声が水を差す。
いっそ、今のは訊こえなかったことにするか。
うん、そうしよう。
「シカトしてんじゃねぇよ!」
目も向けず口も開かず無視を決め込めば、ズカズカと音を立て部屋に入ってきた男は、俺の前で仁王立ちになった。
「でかい声出すなよ、司」
「うるせぇー! てめぇがシカトするからだろうが!」
「起きちゃうだろうが」
「この程度で茜は起きねぇよ! それより、その汚らわしい手で触んな!」
何を! この俺を汚らわしいだと?
ふしだらな生活を送っていた昔ならいざ知らず、今は改心して健全な生活を送っている、この俺だぞ。
それに自他共に認める正真正銘の潔癖症だ。
いつだって、外科医が手術前に使うブラシで徹底的に爪から肘までを洗い、アルコール消毒だって欠かさない俺を、よりにもよって汚らわしいとは! 今すぐ撤回しろ!
そう噛みつく間もなく、俺の腕の中にいた天使は、猛獣によって奪われた。
「見てみろ。あきらより俺に抱かれた方が、気持ちよさそうに寝てんじゃねぇか」
いや、それは違う。
さっきから誰に抱かれても、それはそれは、ぐーすか気持ち良さげに寝てんぞ。
きっと親に似たんだろう。特に昔の母親に。
そう、今は司の腕の中で眠る天使こと茜は、俺たちの子供じゃない。
天使はこんなにも可愛いのに、その父親は、目つきの悪い危険な猛獣だ。
「美作さん、桜子、ありがとね!」
そこへ母親である牧野が戻ってきた。
腕の中には、もう一人の天使を抱きかかえて。
「あれ、司。もう打ち合わせ終わったの?」
「あきらに茜を任せてるなんて訊いて、おちおち仕事なんかしてられっかよ」
「ちょっと! 西田さんを困らすようなことしてんじゃないわよ!」
「いいんだよ。俺は今日は休みなんだ。邸にまで押しかけて来る西田が悪りぃ」
西田だって来たくて来たわけじゃないだろうに。
おまえの指示を仰ぎたい、よっぽど急ぎのもんでもあったんだろうよ。
牧野が出産、育児休暇を取っている間は、西田が司の秘書に戻ってきているが、俺からすれば、苦労が絶えないであろう西田にこそ、休息を与えてやりたいと思う。
「茜ったらなかなか起きないから、先に蓮をお風呂に入れてたのよ。その間、美作さんたちが茜を見てくれてたから凄く助かったのに、失礼なこと言わないでよね」
そうだそうだ!
母親になったら、少しはまともなこと言うようになったじゃないか。兄は嬉しいぞ。
出産を機に世田谷の道明寺邸に住まいを移した司たち。
そこへ、たまたま遊びに来ていた俺たちが赤ん坊の面倒をみて何が悪い。
感謝されることはあっても、司に怒鳴られる筋合いはないはずだ。
「つくしは、あきらのだらしねぇ顔を見てねぇから、そんな呑気なこと言ってられんだ! 気持ち悪りぃ顔して茜を抱いてたんだぞ、この俺様の茜を! なぁ、茜、変なオヤジに抱かれて怖かったよなぁ」
だらしない? 気持ち悪いだと?
自分の顔を鏡で見てから言え。
「司、おまえのその顔だって、人様に見せられたもんじゃないだろ」
「アホか。俺はどんな顔だって完璧なんだよ。てめぇも人の娘で家族ごっこなんてしてねぇで、直に産まれてくる子供を大人しく待っとけ。俺の茜に構うんじゃねぇ!」
面倒見てやったっていうのに、相変わらず勝手な男だ。
家族ごっこと言われればそれまでだが、人の子とはいえ赤ん坊は可愛いもんなんだよ。
それにしても司のヤツ、人の親にでもなれば、多少は大人になるかと思いきや、全くの変化なし。どこまでも我が道を行く男だ。
親バカぶりを発揮中の姿を見る限り、寧ろ後退しているとも言える。
まぁ、念願の子供だから、気持ちはわからなくもないが⋯⋯。
司と牧野は、信頼の置ける医者の元へ一年以上通い続け、排卵誘発剤を服用したのちに懐妊。
薬の影響があったのか、お腹の子は双子と判明し、そして今から三ヶ月前。牧野は無事に蓮と茜という一男一女を出産した。
そういう俺たちの元へも、間もなく天使がやってくる。
もういつ産まれてもおかしくない臨月だ。
「桜子ももうすぐだね」
蓮をベビーベッドに寝かしつけ、紅茶を入れ直してくれた牧野。
「えぇ。胎動も感じなくなってきたし張りもあるので、そろそろだと思うんですけどね」
「そっかぁ、楽しみだなぁ。もう名前は決まった?」
「一応候補だけは。でも、男の子か女の子かも訊いてないですし、最終的には、顔を見てからあきらさんに決めてもらおうかと思って」
ソファーに落ちついた牧野と、お腹を愛おしそうに撫でる桜子は、子供の名前の話で盛り上がっている。
蓮と茜は、植物から選ぶつもりでいた司が決めたそうだ。
蓮の花は、宗教色の強いアジアの国では、国花にしているところがあるほど崇められている花で、清らかに生きる象徴として捉えられている。
もしかして司は己の軌跡振り返り、決して清らかではなかった、自分のような生き方だけはしてほしくないと願い、名前に託したのかもしれない。
茜は多年草のつる草。
花や葉には、人を惹きつけるだけの華やかさこそないものの、枕詞としても使われるように、古くから染料として有名だ。
腕に抱いていた茜を、やっとベッドに寝かす気になったらしい司が立ち上がりソファーから離れると、牧野がこっそり教えてくれた。
「植物の茜って目立ちはしないけど、染料の他にも、漢方では咳止めや止血薬としても使われてるの。
目立たなくても良い。人助けだったり、誰かのために役立つことができる女性になってほしい、そう思ってるんだ。司も案外良い名前付けるでしょ?
今のところ茜は、興奮して頭に血が昇った司を鎮める役割を果たしてるんだから、これも充分人助けになってるわよね?」
そう言って、牧野はクスリと笑った。
かつて、決して目立つタイプの女ではなかった、雑草の牧野。
それがいざとなると、関わった人間の人生さえ変えてしまう影響力を持っている。
普段は目立たなくても色んな力を持ち合わせてほしい。司も、そんな思いで名前を付けたのだろう。
あいつが誰よりも愛する女のようにと願って⋯⋯。
蓮と茜。様々な意味と願いを込めて名付けたに違いない。
名前とは、親が子供に贈る初めてのプレゼントなんだから。
茜の方は早速、親の願い通り力を発揮してくれているようだ。
この世に猛獣使いが二人になったんだ。俺たちも心強いし、間違いなくそれは立派な人助けだ。
「茜、起きそうにない?」
ソファーに戻ってきた司に牧野が訊ねる。
「起きる気配すらねぇな。全く誰に似たんだか」
司は牧野に似ていると揶揄して言ったんだろうが、
「まるで類だな」
ふと浮かんだことを口にしてしまった、バカな俺。
「あ? 類だと? ふざけんなっ! 茜も蓮も俺の子だっ!」
やばい。冗談が一切通じない男に、余計なことを言ってしまったようだ。
真に受けた司のこめかみには、ミミズが這ったような青筋が幾つも浮かんでいる。
悪いが牧野。茜が寝てる以上、暴れかねない猛獣のお守りはおまえしかいない。
何とか大人しくさせてくれ。
なのに、何故だ。
「え、やだ。私ったらいつの間に類と!?……あっ、まさかあの時?」
どうしておまえが乗っかってくんだよ!
バカ夫の怒りに油を注いでどうするよ!
「つくし、てめぇっ!」
司の怒りは爆発寸前。
だが意外にも継続はせず、怒りよりも心配が上回ったようで、大の男が肩を落として、しゅんとなっている。
「つくし、嘘だよな? んなことあるはずねぇよな?」
何とも情けない声だ。完全に動揺していると思われる。
それに引き換え、笑みを浮かべている牧野は余裕の表情で、対照的な夫婦を呆れて眺めていると、俺の手をそっと桜子が握ってきた。
失言した俺を窘める意味で握ってきたのだろうが、牧野の顔を見る限り大丈夫だろう。幸い大事になりそうにない。
案の定。
数分後には、司を適当にあしらいながらスマホを眺めていた牧野が、顔を上げて司の耳元で何かを囁くや否や、表情筋をユルユルにさせた司は、飛びかかるようにして牧野を抱き寄せた。
「――――が一番に決まってんだろ」
微かに漏れてきた司の甘い声。
ははーん。なるほどな。これだけで事情は読めた。
茜、茜、と煩い司に、実は拗ねていた牧野が仕返ししたってわけか。
司の声が聞き取れなかった箇所は、『つくし』とでも言ってたんだろう。
にしても、司に仕返しするにしては、随分と早く片付けたもんだ。
尤も、平和が一番。俺たちの前で揉められても、それはそれで困る。
「落ち着いたみたいだな」
俺たちの前だっていうのに、密着して離れない二人に向けて言えば、睨みつけてくる司に反して、牧野はにっこりと笑った。
「うん、お陰様で。それより美作さん? いざとなっても慌てふためかないようにね?」
「何がだ?」
「桜子に陣痛がきたときよ」
「そうだよな。俺がしっかりしないとな」
経験がないだけに不安ではあるが、一番大変なのは身を削る思いで出産に挑む桜子だ。
せめて桜子が安心できるよう、落ち着いてサポートしてやらなくては。
「司なんて酷かったんだから。私が入院したって連絡受けた途端に会社飛び出しちゃって、駐車場で待機していた運転手さんを引きずり下ろして、自分でリムジン運転してきちゃったのよ?
しかも、途中でスピード違反で捕まったくせして、そのパトカーに先導させて病院まで来たんだから」
公道を爆走するリムジン。シュールな絵面だ。
よくマスコミに嗅ぎつけられなかったもんだ。
マスコミだけじゃない。今やスマホの普及により、一億人総パパラッチ状態。
足を引っ張ろうとするライバルは掃いて捨てるほどいるだろうに、道明寺HD支社長の傍若無人ぶりを晒された日には、目も当てられない。
まぁ、司のことだ。どんな手を使ってでも揉み消すだろうが。
「司、そりゃいくら何でもやりすぎだろ」
「しょうがねぇだろ。帝王切開だと思ってたのが自然分娩になるしよ、双子以上の出産はリスクが高くなんだよ。途中、帝王切開に切り替わる可能性もあったし、ジッとなんかしてられっかよ。立ち会うために急ぎもすんだろうが」
「あの時も言ったでしょ? 立ち会うにしたって、まだまだ時間かかるから急がなくて良いって。それなのにパトカーに先導までさせて、信号関係なくノンストップで来ちゃうんだから。
いい、美作さん。くれぐれも司の真似だけはしないでね?」
呆れながら話す牧野に、しっかり頷き返す。
当たり前だ。常識人である俺には、間違ってもそんな真似はできない。
司はばつが悪くなったのか、漸く抱き寄せていた牧野を解放した。
「俺ばっか悪いように言うんじゃねえよ。向こうが先導するって言ってきたのによ」
「司が権力に物言わせたんでしょ?」
「だとしてもだ! 屈したあいつらも悪りぃだろうが! 説教するなら奴らにも言え」
自分の非は認めず、何と横暴な言い分なんだか。
「あー、確かに。司もたまには良いこと言うね! 分かった。今度、警察にも説教しに行ってくる!」
違うっ! 牧野そうじゃねぇ!
母親になって少しはまともになったかと思えば、とんだ勘違い。
たまにどころか、司は何一つまともなことなど言ってねぇぞ!
警察の奴らを説教する前に、旦那の再教育をしろ!
じゃなければ、恥をかくのはおまえだ!
天然は未だ健在と知らしめた牧野は、時計にチラリと目を向けてから、俺たちに向き直った。
「ところで、桜子の入院準備はできてる?」
「あぁ。いつどこで産気づいても良いように、今日も車に積んである」
「なら大丈夫ね」
そう言うなり立ち上がった牧野は、部屋の端にある壁掛けの内線電話を繋ぎ、何か指示を出しているようだった。
暫くすると使用人がやって来て、一口サイズのサンドイッチや小さく握ったおにぎりが運ばれてくる。
「桜子、少しでもお腹に入れておいた方が良いわよ。食べたら病院に電話して、10分間隔くらいになったら、ここから病院に行こう。食べたらシャワーも使ってね」
「先輩、やっぱりこれって陣痛でしょうか」
……は?
じ、じん、陣痛!?
「多分ね。さっきから様子を見てたけど、定期的に痛みがきてるでしょう? 私の場合は最初、生理痛のような鈍い痛みがあったんだけど、桜子はどう?」
牧野は桜子の変化を見逃さず、とっくに気づいてたってことか!
「そんな感じの痛みです。でもはっきり分からなくて。違って迷惑かけたら悪いし、もう少し様子見ようと思ってたところで⋯⋯」
「そのうち痛みもはっきりしてくるよ。その前に、食べられるうちに食べとかなきゃ! なんせ出産は、長丁場の体力勝負なんだから!」
「桜子、牧野⋯⋯ほ、本当か? 本当に⋯⋯陣痛が!?」
頷きながら「多分」と桜子が言う。
「類がどうの、って騒いでいる辺りから、桜子の様子がおかしかったのよ」
牧野の話に言葉を失った。
類がどうのってことは、俺が冗談で言った、茜たちを類の子だと匂わせた時だ。
そのさなか、桜子は俺の手を握ってきたが、もしやそれは、嗜めやそんな類いのものじゃなく、痛みがきたサインだったのか?
そういえば丁度その頃、牧野はスマホを見ていた。
ひょっとしてそれは、桜子の異変にいち早く気づいて、時間を確認していたのかもしれない。
だから、司への仕返しも簡単に片付けたのか!
さっきも牧野は時計を気にしていたし、きっと陣痛の間隔を計ってたに違いない。
――何をやっているんだ、俺は。全く気づいてやれなかった。
それより!
「呑気にしてる場合か! 早く病院に行った方が良いだろ!」
「美作さん? 私、言ったわよね? いざとなっても慌てふためかないように、って」
「うっ」
じろりと睨む牧野は、もしかして先を見込んで会話を展開し、俺に忠告をしていたのか。
けどよ、牧野⋯⋯⋯⋯。
「これが落ち着いていられるかーーっ!」
興奮して喚いた俺に向けられるのは、牧野からの冷たい眼差し。
俺の隣では、首を横に振りながら、桜子までが深い溜息を吐いている。
桜子、おまえまで⋯⋯。
そんな俺を救ってくれたのは、神の声にも訊こえた司の言葉だった。
「あきら、パトカー先導させるか?」
「よろしく頼む」
天の声に即座に縋った俺と司の頭から、ぱっこーん、と軽快な音が響く。
「痛ぇっ!」
「痛ぇっ!」
頭を抱え声を揃えて痛がる俺たちは、牧野によって丸められた育児雑誌で、フルスイングされた。
仁王立ちした牧野が、俺たちをこれでもかってほどキツく睨む。
「司の真似はするなって言ったでしょ、美作さん! 司もいい加減にしときなさいよね!」
素早い動きで俺たちの頭を殴り、叱るだけ叱った牧野は、また桜子の前に座ると、一緒になってサンドイッチを摘まんでいる。
桜子もまだ苦しんでいる様子はなく、出産時の呼吸法について牧野からアドバイスをもらっているが、俺としちゃ全く落ち着かない。
どうしてそんな悠長に構えてられんだよ!
焦りと不安ばかりが募る俺は、のんびり座っている気にはなれず、桜子の背後に回って行ったり来たり。
牧野が苦笑しながら呆れた目を寄こしてくるが、ウロウロオロオロするばかりだ。
ここからだと病院までは20分ほど。
でも、渋滞していたらその限りじゃない。
途中の道は、工事している可能性だってある。
それに今日は日曜だ。人も車も多いことを踏まえれば、余裕を持って早め早めの行動、直ぐにでも病院に行くべきじゃないのか。
元々、心配性なのに、この状況で冷静でなんていられるかっ!
「あきら」
いつの間に移動していたのか。窓際に置かれた椅子に座る司が、人差し指をちょいちょいと折り曲げ俺を呼ぶ。
「駄目だ、司。とてもじゃないが、落ち着いてなんかいられねぇよ」
開口一番、司に弱音を吐いてしまうほどの狼狽えっぷり。
情けない俺を前にした司は、探るように桜子と牧野の方に目を遣り、二人がこっちを見ていないことを確認すると、俺との距離を詰めるように身を乗り出し、囁くように言った。
「あきら安心しろ。直ぐに動かせるようにしてやるから、家のヘリ使え」
「マジか? 良いのか?」
「ああ。だから今のうちに、車に積んである荷物を屋上のヘリに移しとけ」
「司っ、ありがとな! 恩に着る。じゃ、早速行って来るわ」
「おぅ」
普段は厄介な男でも、いざというとき頼りになるのが司だ。
持つべきものは、金と権力のある幼なじみ!
今日ほど司に感謝したことはない!
「あきらさん? どちらへ行かれるんです?」
直ぐにでも駆け出したいのを堪え、足早に部屋を抜け出そうとすれば、ドアの直前で桜子に呼び止められてしまう。
「あー、その、なんだ。落ち着かないから、少し庭でも散歩してくるわ。直ぐ戻るから、何かあったら電話鳴らせよ?」
桜子、嘘吐いてごめん。でもこれは、桜子と産まれてくる子供のためなんだ。
無事に子供が産まれた暁には、桜子と牧野からの説教を大人しく訊くから、今だけはどうか見逃してくれ!
心で謝りながら部屋を出ると、ドアが閉まる間際、牧野の声が訊こえてきた。
「ちょっと、司。何か余計なことを美作さんに言ったんじゃないでしょうね?」
「人聞き悪ぃこと言うな。変なことは言ってねぇ!」
「変なことは? 『は』って何?」
「ふ、深い意味はねぇよ。ホントなんも言ってねぇって」
勘の鋭すぎる妻は恐ろしいだろうが、すまん、司。何とか牧野からの攻撃を躱してくれ!
それが無理なら強硬手段、司の得意技のアレで牧野の口を塞いじゃってくれ!
お中元にお歳暮にと、未だに送り続けている携帯酸素はたっぷりあるはずだ。
くれぐれも命を奪わない程度に、牧野の口封じを頼む!
待ってろよ、桜子。そして、かけがえのない俺たちの宝。
愛する妻と、まだ見ぬ愛しい子供のためならば、俺はバカにだってなってやる!
髪を乱しながら車に向って全速力で走る俺は、もうすぐ会える我が子に迸る想いを心で語る。
俺と桜子の限りない愛を注ぎ大切に守るから、だから安心して元気な産声を上げてくれよ!
無事に、この世に産まれてくるんだぞ!
駐車場へと繋がる道明寺邸の広大なアプローチを駆け抜け、遂には熱い想いが喉元を突き破った。
「パパは待ってるからなーっ!」
――手を伸ばせば⋯⋯君の小さな手に触れられる時まで、あともう少し。
Fin.

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これにて『手を伸ばせばシリーズ』全完結です。
大変長いお話となりましたが、最後までお付き合いくださいました皆様、どうもありがとうございました!
心より感謝申し上げます。
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