手を伸ばせば⋯⋯ The Final 8.
おっ?
帰ってきたか?
玄関から訊こえてくる、あいつらの声。
動きを止めて、廊下の向こうへ一点集中、耳を澄ます。
これは――――明るい声、だよな?
なら、ようやっと問題解決か?
牧野はちゃんと笑ってるのか?
胸に期待が立ち昇り、妹よ、一刻も早く兄に安心させる笑顔を見せてくれ! とその時を待った。
手を伸ばせば⋯⋯ The Final 7.
「おぅ、遅かったな。司、牧野お帰り! その顔は……大丈夫だよな?」
二人がリビングのドアを開けるなり声をかけたのは総二郎だ。
総二郎も俺と同じ。何だかんだ言いながら待っている間、気が気じゃなかったに違いない。顔を見るなり真っ先に声をかけたのがその証拠。
俺は、出て行った時とは明らかに様子の違う牧野を探るように見た。
他人に無闇矢鱈に緊張を与える危険な無表情はない。柔らかさが復活した面持ちだ。
その表情から察するに、問題は解決したんだろうと思いつつも、いつまでも探らずにはいられなかった。
そりゃそうだろう。
今日一日、散々こいつらには振り回されたんだ。安心できる確かなものが欲しい。
何より、牧野が何かを抱えているのだとすれば、結局のところ俺は、放っておくなんて出来やしないんだから。可能な限り力になってやりたい。
しつこいくらいに表情から読み取ろうとする俺の眼差しに気づいたのか、司に腰を抱かれながらソファーに促される俯き気味の牧野は、チラチラと照れくさそうに俺を見る。
よし、いつもの牧野だな!
クール牧野なら、そもそも照れくさいって概念はないはずだ。
冷淡な視線は見当たらない。無愛想も消えている。
これなら一先ず安心して良いだろうと、漸く人心地つく。
なのに、人の気も知らぬ傍迷惑な男は――。
「あきら、なに見惚れてんだ。人の女いつまでもじろじろと見てんじゃねぇよ」
牧野に並んで俺の前にドカッと腰を下ろした司が、居丈高な態度で言う。
このバカにつける薬はないだろうか。誰か知ってたら教えてくれ。金は幾らでも払おう。
「見惚れてたんじゃねぇよ。心配してたんだよ、俺は。⋯⋯で、問題は無事解決したんだな?」
確信を持って訊ねたが、司はどこまでもいっても司だった。
「問題? 何の話だ。俺たちの間に問題なんてあるはずねぇだろうが。愛の前では問題の方が逃げてくつーんだよ。心配ねぇから、とっとと帰れ」
違った。俺に必要なのは、バカにつける薬じゃなかった。
銃だ。今すぐ銃を俺にくれ。
このバカは、一度死ななきゃ治らん。
何が帰れだ! 昼間っから迷惑かけといて、言う台詞がそれか!
「司くんよー、そりゃねぇんじゃねーの? 俺たちだって心配して待ってたんだぜ」
そうだ、そうだ。総二郎の言うとおり。もっと言ってやれ。
約一名はとっくに夢の国へと旅立ったが、こんな時間まで気を揉みながら待っていたんだ。
何があったのか、訊く権利くらい俺たちにもあんだろうが。
「うっせーな! もういいんだよ。おまえらも明日仕事だろうが。さっさと帰れ。あ、類も連れて帰れよ」
何様だ、おまえは!と詰め寄ってやりたくなるが、そうだった、俺様だった。と迫り上がりかけた言葉を喉で潰す。
俺だって尊大が服を着て歩いているような男から、『すまなかった』とか『迷惑かけた』とか、そんな殊勝な台詞を期待するほど愚かじゃない。端から諦めている。
が、俺たちを安心させるくらいの一言はあっても良いだろうよ。
なのに司ときたら、言うだけ言った今は、愛おしそうに牧野の左頬を手で包み、親指の腹で口端を撫でているんだから腹が立つ。
喧嘩が収まった途端にこれだ。
つーか、マジで話す気ないのかよ。
おまえたちに強制的に搾取された俺の貴重な時間は何だったんだ。
消化不良気味の気持ちを持て余し、だが不意に、別の思念が浮かんだ。
類は言っていた。司が反応したのは診察券じゃないかと。
だからこそ俺たちは余計に心配になったんだ。
もし、診察券に今回の騒動の発端が隠されているとしたら、幾らダチとは言え、無神経に踏み込んで良い話じゃないんじゃないのか⋯⋯。
そう考えれば、司が何も言わないのも頷ける。
血の気が引く。牧野の顔を見て安心するのは、まだ尚早だったのかもしれない。
俺は気を落ち着けて静かに訊いた。
「司、俺たちに言えないことか?」
だとしたら、何も訊かずに引こう。司たちが自ら話そうと思うまでは。
だが、俺の静かな問いにも答えず無言で立ち上がった司は、キッチンの方へと行ってしまう。
これは、俺の懸念が正しいと捉えるべきか。
心配の根が胸に張り付き動悸もするが、牧野を思えばこそ、ここは一先ず大人しく引き下がろう。
帰ることを告げようと、牧野を正面から見る。
しかしその途端、引いてた血が一気に上昇した。
さっきは俯き気味だったから気づかなかったのか、よくよく見れば、牧野の左頬が薄っすらと赤い。
だからか! だから司は、手を添え口端を撫でていたのか!
「牧野、まさかおまえ司に――」
言い終える前に司が戻ってくる。
その手には濡れたタオルが握られ、ソファーに座るなり牧野の左頬に宛てがえた。それが裏付けだ。
「司、牧野を殴ったのか」
静かに問う。だが、さっきのもとは違う質の俺の声。重く低い声が自然と出た。
「ああ」
牧野を見つめながらタオルを押さえている司は、あっさりと認めた。
瞬時に殺気立つ。俺も総二郎も。そしていつの間に起きたのか、類までも。
「司! 牧野を殴るなんてどういう――」
「違うよ、美作さん」
カッとなって飛び出した声を牧野が遮る。
「殴らせたのは、私。痛いのは、司」
庇う必要なんかない。どんな事情であれ、男が女を殴って良い理由なんかないんだ!
――けれど、言葉は続けられなかった。
殴られたはずの牧野が司を見つめる瞳は、あまりにも精錬としていて、慈愛に満ちていて。
牧野の言葉通り、痛々しさが伝わってくるような悲しげな眼差しを向ける司を、包み込むようにも、癒やしているようにも見えた。
空いているもう片方の手で牧野を抱き寄せる司。
そんな二人の姿は、まるで切り取られた絵画のようで、見るものを惹きつけ、圧倒させた。
殴るのは悪いとか、極当たり前の常識さえ立ち入れないほど、目に見えない絆が確かにここにある。そう思わずにはいられない、二人が紡ぎ出す世界に完全に呑まれた俺は、瞬きも忘れ沈黙した。
「あ、みんな、なんかごめんね」
カラッとした声に我に返る。
俺だけじゃない。誰しもが口を閉ざしていたのは、司と牧野の世界に入り込めないと思ったからであって。
なのに沈黙を破った声は、あっけらかんとしている。
さっきの光景は幻だったんじゃないかと思わせるくらい、余韻を引きずらない牧野の軽い声だった。
「⋯⋯い、いや。まぁ、なんだ。仲直りしたんなら、俺たちはそれでいいんだけどな」
性格だけでは飽き足らず、空気感まで自由自在に操る牧野に、戸惑いがちに言えば、
「せいり」
何故かぶつ切りの単語が返された。
⋯⋯俺はこれをどう取り扱えば良いんだろうか。トリセツが欲しい。
牧野は、ニッコリ笑って俺の顔をじっと見てくるが、果たして牧野が口にした「せいり」は、「整理」なのか「生理」なのか、それともまた別の「せいり」なのか⋯⋯。
たった一つの単語で、俺と会話を成り立たせようとする正しくこれこそ、天然つくしちゃんのお帰りだ。
だが、もし牧野の指す「せいり」が「生理」だったとしたら⋯⋯。
それを口にした途端、俺はもれなく猛獣に殴られるんじゃないのか、と危機感を募らせたと同時。
「つくしっ! ヤローの前で何を言い出すんだ!」
猛獣が叫んだ。
やっぱ「生理」だったか!
つーか、司の言う通りだ。いきなり男が気まずくなるような単語を突きつけてくるな。
生理と言われて、なんて返すのが正解なんだ。俺にはさっぱり分からん!
「えー、でも、迷惑かけたから、説明しようと思って。順序良く」
⋯⋯頭痛ぇ。
呑気な牧野の言い様に、頭を抱えたくなる。
どうして天然に戻った途端にそうなんだ。
説明しようと思って? 順序良く?⋯⋯出だしから破綻してるだろうがよ。
「つくし、余計なことは言わなくていい! 兎に角、おまえらはとっとと帰れ! ただの夫婦喧嘩だ。何も心配することはねぇ!」
喋らせないよう、司は牧野を腕の中に閉じ込めようとしているが、クールな仮面を消し去った牧野は、そんなもんお構いなし。
「あのね、元々不順だし、望まないのに生理が来ちゃうから⋯⋯色々と考えすぎちゃったりして⋯⋯えへへ」
一拍置いて理解する。
――――ああ、なるほど。そういうことだったのか。
漸く全てが腑に落ちた。
診察券は恐らく婦人科系の病院のもの。不妊かどうかを危惧して。
「体を酷使してきた私が悪いんだけどね⋯⋯赤ちゃんできないかも、って思っちゃったりしてね」
牧野は一人で思い悩んでいたのか⋯⋯。
日本を代表する家に嫁いだんだ。本人たちが望む以前に、余計な期待を振りかざし、介入してきた者たちだっていただろう。
中には、口さがない者も⋯⋯。
想像を絶するプレッシャー。それを一人背負った牧野は、だから秘書を辞めようとしたのか。追い詰められた牧野は、妻とは別の形で司を支える術を模索して。
どんな理由であれ、絶対に司は牧野を手離しやしないのに。
でもやはりこれは、俺たちが簡単に口を挟める問題じゃない。
だから司も、俺たちには明かさないつもりでいたんだと分かる。
不用意に触れて、牧野を傷つけないためにも。
なのにどうしてだか、当事者である牧野が、こんなんだ。
憑物が落ちたみたいに、世間話の気軽さに似た口調で、俺たちに明かしてく。
ここまで話されては隠している意味もなく、司も諦めたように重い口を開いた。
子供ができないかもしれないという不安に駆られ、司と距離を置こうとしたこと。
離婚も視野に入れながら、それでも司の力になりたかった牧野は、自分が一番能力を発揮できる部署へと今から移り、確実なポジションを築きあげておきたかったこと。
しかし、司に正された牧野は、司に連れられ、別の医師の診察を受け、信頼のおける医師と出会ったということまで。
司は淡々と、合間合間に補足する牧野は、スッキリとした笑顔つきで、俺たちにそう説明した。
「そうだったのか。牧野、信頼できる先生に出会えて良かったな。牧野は、そうやって笑っている方が似合うぞ。あとは、時を待とう」
子供ができるにしてもできないにしても時を待つしかなく、無責任な励ましや慰めは、負担にならないとも限らない。
こればかりは、神のみぞが知る領域。
だから、必要のない言葉は省いた。
「うん! なんか全部話したら凄くすっきりしちゃった!」
誤魔化しが一切ないと分かる、晴れやかな笑顔だ。
「ま、好きなことでもしてリラックスだな、牧野!」
総二郎からのエールにも、牧野は元気に頷く。
どうやら牧野の気持ちは前向きに切り替えられたようだ。
この様子なら一先ず、一件落着としても良いだろう。
これで漸く、本当に漸く俺たちも無事に解放される――――はずが。
「牧野、一人で悩まないで? それに司が原因ってこともあるしね」
類が、俺たちには見せないとっておきの笑顔を牧野に向ける。
見る間に染まる牧野の頬。
となると当然、面白くなく騒ぎ出す奴がいるわけで。
折角、これにて解散かと思われた状況は一変。
しかも、この類の発言をきっかけに、天然が天然たる所以の発想を暴走させたために、俺たちの滞在時間は、更に一時間延長となった。

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