手を伸ばせば⋯⋯ The Final 7.
街灯に彩られた煌びやかな街中を、俺たちを乗せた車はスムーズに走る。
戸惑うつくしを引き摺るようにして車に押し込めたが、しかしつくしは、繋いだ手を決して離そうとはしなかった。
その手を見て改めて思う。
────この小さな手があれば、他には何にも要らねぇ、と。
手を伸ばせば⋯⋯ The Final 7.
「緊張すんな、大丈夫だから。腕の良いって評判の医者だ」
少しだけ汗ばむつくしの掌。緊張が伝わってくるようで、小さな手の甲を、慰めるように親指で撫でる。
「⋯⋯今まで通ってた病院は、どこか事務的で、行く度に怖くて」
誰にも言わず、どんな思いで通っていたのか。始めて訊くつくしの心情を思うと、胸は張り裂けんばかりに痛い。
「ごめんな、気付いてやれなくて。夫、失格だな」
「それは違う。私が隠していたんだから、気付かなくて当然」
「つくし⋯⋯」
怯えたように視線を足元に落としたつくしは、ぽつりぽつりと胸の内を明かしていく。
「結婚する前、偏頭痛で司に病院へ連れて行ってもらったことあったでしょう? あの時に、お医者様に言われた言葉が、ずっと心に引っかかってたの。将来、出産を考えているなら、規則正しい生活をしなさい、って。
私、長い間、自分のことなんて労わりもしなかった。寧ろ痛めつけてたと思う。
自分が結婚するなんて思ってもみなかったし、ましてや子供を産むなんて考えもしなかったから」
俺のせいだ。記憶を失くして俺が馬鹿なことさえしなければ⋯⋯。
今でも、つくしが過ごしてきたあの十年を思うと胸は抉られ、自分自身を赦せなくなる。
無意識だったが、僅かばかり力んでしまったんだろう。
俺と繋がる手に視線を遣ったつくしは、口調を強くした。
「違うよ。司のせいじゃないからね。確かに、きっかけにはなったかもしれない。けど、そう言う道を迷わず選び突き進んだのは、他の誰でもない、私よ。それが正しい道だって疑いもしなかった、私自身の責任」
「⋯⋯いや、俺のせいだ」
つくしは首を振り、それから滔々と話した。
「止めてよ。私が言いたいのはそんな事じゃなくてね。司と再会して、愛し愛されて⋯⋯自分は女だったんだって思い知った、そう言いたかっただけなんだから。自分でもね、知らない自分が存在したの。
生理が少しでも遅れればそわそわして、そのたびに検査して。でもいつも結果は陰性。ただの生理不順で遅れてるだけだった。
来るべきものが来た時の落ち込みようったらなくってね。自分が、こういうことでショックを受ける女だったんだ、って事にも驚いた。
尖って突っ張って、一人でも生きていけるって思っていたのに、司と居ると私は、ただの女なんだって――」
そこまで訊いて口を挟む。
「⋯⋯なぁ⋯⋯俺と一緒になって後悔してねぇか?」
つくしが何を思い、何を感じたのか。詳らかに語られた今、気弱な心が顔を出し、訊かずにはいられなかった。
道明寺という怪物の家に生まれた俺なんかと結婚したばかりに、負わなくてもいいプレッシャーもあっただろう。
一人で抱え込んでいたつくしは、どれほど自分を責め、思い悩み、心を重くしたことか。
体の仕組みが違う男には、思い至らねぇ点も多いとはいえ、全く気づかず一端の夫気取りでいたんだから自分の馬鹿さ加減に呆れる。
愛想尽かされたって、反論できねぇレベルだ。
「後悔? 幸せは感じても、後悔なんてしたことないよ。普通の幸せを夢見る、ただの女だったんだって気づかせてくれたのは、他の誰でもない、司なんだから。気づけたことが、私は嬉しい」
答えを待つ間、心の内側では情けねぇくらいビクついていた。
無自覚につくしを追いつめたこともあっただろうと思うと、俺に嫌気が差しても仕方ねぇ。
捨てられたとしても文句は言えねぇ。
言えねぇが、どんなに嫌われようとも離れることだけはできねぇんだから、自分でも質が悪りぃって思う。
背後霊の如く纏わりつくであろう自分の姿を容易く想像し、しかし、それを実行せずに済みそうなつくしの返答に、張り詰めていた息を漏らした。
だからって、安心に胡座をかいてて良いわけがねぇ。
二度とつくしを不安にはさせねぇ。この先も結婚したことを後悔させねぇ。絶対に。そう心に誓う。
「でも、今回ばかりは、このままでいたら後悔したかもしれない。幸せだからこそ、私じゃ妻は務まらないんじゃないかって、怖くて⋯⋯取り憑かれたように、それしか考えられなかった⋯⋯ごめんなさい、司」
「気づいてやれなかった俺も悪い。けど、何でも抱え込んで、一人で答えを出そうとすんな。俺の心臓が持たねぇだろ?」
「うん」
強張りが解けて笑むつくし。だからこそ目立つ、僅かに赤くなった頬を撫でる。
「痛かったろ」
「司こそ、大丈夫? 痛かったでしょう?」
つくしは、軋む俺の胸を拳でトントンと二度ほど軽く叩いた。
「⋯⋯大丈夫じゃねぇよ。めちゃくちゃ痛ぇ」
弱々しく言って、つくしを一際強く抱きしめる。
互いの温もりを確かめ合う俺たちは、クリニックに辿り着くまで、一時とも離れようとはしなかった。
手を繋ぎ足を踏み入れたクリニック。
時間外の待合室は俺たち以外の患者は居ない。
シーンと静まりかえった待合室で、ソファーに二人並んで暫く待ち、やがてつくしだけが呼ばれた。
すっと立ち上がったつくしに、もう怯えた様子はない。
落ち着いた表情で俺に頷いて見せると、「行って来るね」穏やかな声でそう言って、診察室の中へと消えていった。
何を言われているのか、どんな結果が出るのか⋯⋯。
不安が膝の上で組んだ手を力ませ、診察室の扉を睨むように見る。
――きっと、つくしはこんな思いだったんだ。しかもたった一人で。
つくしが通っていたところは、こことは違って不妊専門の病院じゃない。産婦人科だ。
だとしたら、お腹の大きい妊婦だって、或いは、産まれて間もない赤ん坊だって見てきたかもしれねぇ。どんな思いでそれを目にしてきたか。
憂い漂う寂しげなつくしの顔が脳裡に浮かび、胸が潰されたように苦しくなった。
とうとうジッとしていられなくなって、意味もなく立ったり座ったりと繰り返し、遂には無駄に歩き回る。
つくしが診察室に入ってから30分。それが1時間にも2時間にも感じられ、いよいよ忍耐も尽きかけ、受付に「まだか」と訊ねようとした時だった。
「道明寺さん、先生からお話しがありますので、診察室の方へどうぞ」
看護師から声がかかり、ゴクッと唾を飲み込む。
不安と緊張と、そして救いを求めて、診察室のドアを叩く。
「道明寺です。失礼します」
「どうぞ、こちらへお掛け下さい」
声からして穏やかさが滲む医者に促され、示された椅子に座る。
「先生、今日は時間外にも拘わらず無理言って、申し訳ありません」
「いえ、構いませんよ。道明寺さんご夫婦の立場を考えれば、通院するのも世間の目があり大変でしょう。それが奥様の負担にもなりかねません」
「そう言ってもらえると……ありがとうございます」
運良く今までの通院はマスコミに嗅ぎつけられていなかったが、これから先、狙われないとも限らない。信用ならねぇ病院も避けたいとこだ。
だが、ここならある程度の融通が利くのはリサーチ済み。芸能人をはじめとするVIPも通い、評判も文句なく良い。
何より医者自身が、見た目からして穏やかで、直感的に、つくしとの相性が良さそうだと思えた。
丸みのある輪郭に、眼鏡の奥の目は下がり気味の愛嬌ある顔。何だか人をホッとさせる雰囲気を纏っている。
白い髭でも貼り付けたら、サンタクロースの格好が似合いそうな初老だ。
「まずは先ほど、奥様とお話しをさせていただきました」
柔和な顔で医者が切り出した。
「今は、別室で血液検査を受けてもらい待機してもらっていますが、話を訊かせていただいた限り、奥様はとても真面目な方のようですね。自分は若い頃、相当無茶をしたと悔やんでおられました。
それにプレッシャーも感じられていたようです。一般家庭でもそう感じられる女性は多いのですから、奥様のお立場を鑑みれば、それはかなりのものだったのではないかと察することができます」
歯ぎしりしそうなほど奥歯を噛む。
俺がどんなにただの男だって言ったって、周りはそうは見ねぇ。風当たりは、どうしたってつくしに向かう。つくしもそれを肌で感じてきたに違いねぇ。
挙げ句、不用意な俺の言葉が追い詰め、つくしの心を折ったんだろう。……自ら妻の座を降りようと考えちまうまでに。
「道明寺さん?」
後悔の波に浚われかけた俺を、柔らかい声が引き戻す。
「奥様は、妊娠を強く望まれています。お家事情もあるでしょう。ですが道明寺さん、それ以前に奥様は、何よりもあなたの子供だから欲しいのだと仰っておられました。一人の女性として、愛するあなたの子を産みたいのだと……」
……俺の……子だから。
瞬時に胸が震え、目の奥がじわりと熱くなる。
俺にとっちゃ、道明寺家の後継問題なんて些末なこと。
周囲がどんなに望もうが、まだ産まれてもねぇ跡継ぎより、共に生きて行くつくしの方が大事だ。
そもそも、子供が産まれたとしても、経営の才覚があるとも限らねぇのに、そんな不確かなものに期待する方がどうかしてる。違う生き方を望む可能性だってあるのに、今から勝手に人生を押し付けんのにも腹が立つ。
この先、子供ができずにつくしが肩身の狭い思いをするのなら、全てを放棄してつくしと二人、海外で静かに暮らせばいい。
たとえ、ふたりきりの家族でも、つくしに幸せだって言わせてみせる。心から思わせてみせる。俺の生涯をかけて、絶対に⋯⋯。
でもそれは最後の手段。
俺との子だから欲しい。それがつくしの望みであるならば、どんなことをしてでも叶えてやりたい。
込み上げてくるものに堪えながら、俺は滅多に下げない頭を下げる。
「⋯⋯先生、お願いします。力を貸して下さい」
つくし以外に懇願などしたことねぇ俺の声は、情けねぇほど上擦っていた。
――――だが。
「はい、勿論です。一緒に話をしていきましょう。それが私の一番最初の治療法です」
「は?」
医者が口にした、あまりにも意外な治療法に、込み上げてきていたものは途端に止まった。
話が治療?⋯⋯なんだ、それは。
懇願する相手を、もしや俺は間違えたんじゃないだろうか。
そんな不審が芽生えそうになった時、看護師と共につくしが診察室に戻ってきた。
「では、お二人に治療方針を説明させていただきます」
つくしが俺の隣に並んで座ったのを見届けると、やはり微塵も変わらない優しげな声で医者は話しだした。
「奥様の今までのカルテを見せていただきましたが、どこにも問題はありませんでした。
ですので先ずは漢方の服用と、基礎体温をつけてもらうこと。そして、カウセリングで沢山話をしてストレス発散しましょう」
「はぁ」
気の抜けた声は俺じゃねぇ。つくしだ。
俺と同じで、沢山話をするだとか、直ぐに妊娠に結びつきそうな治療法がないことに、戸惑いを覚えているようだった。
「後はタイミング療法で様子を見ていきます」
目をパチパチと瞬かせ、暫し思い迷う様子を見せていたつくしは、しかし、徐に口を開く。
「⋯⋯あの⋯⋯今までもタイミング療法は受けていたのですが⋯⋯」
俺の知らないことを、つくしが言う。
タイミング療法とやらを受けていたことも知らなければ、そもそも、タイミング療法なるものが何なのか、皆目検討もつかねぇ。
だが、つくしの目を見て説明しようとする医者に、疑問は差し挟めなかった。
「いいですか道明寺さん。確かに原因が分からず、なかなか妊娠に至らないケースはあります。今の時代、夫婦全体の3組に1組は不妊だと悩んでおられる。全国で不妊治療を受ける患者さんの数も、年々増加しています。
ですが、本当に高度生殖医療が必要な患者さんは、データーよりも少ないんじゃないかと、私は考えています。
先ずは妊娠を受け入れられる心と体を養う、そこから始めましょう。
ストレスを取り除き、東洋医学で言う病気が発症していない予備軍『未病』を漢方で治療していく。後はタイミング療法だけで、自然妊娠に至るケースも多いんですよ。
女性の身体はとてもデリケートです。不妊症に必要な検査にさえストレスを感じ、身体は反応してしまうのですよ。本人が自覚のないうちにね。
勿論、結果が伴わなければ、ご主人の検査も含め、次の段階に進み、別の治療法を提案させていただきます。
ですから、先ずはこの形から始めましょう。⋯⋯つくしさん?」
名前を呼んだ医者は、改めてつくしを真っ直ぐに見た。
「私たちはチームです。つくしさんが一人で頑張る必要はないんですよ?
辛いことも苦しいこと不安も、旦那さんにだけではなく、遠慮なく私どもにも話してください。
つくしさんがすべきことは、一人で頑張らないこと。落ち着ける場所で好きなことをして、ストレスを溜めないこと、それが何よりも重要で一番なのですから」
柔らかな声だった。温かい声だった。
「⋯⋯一人で頑張らないこと⋯⋯」
優しい声に導かれて小さく反芻したつくしは、真摯に語る医者の言葉に救われ、自分の身を預ける気になったのかもしれねぇ。
笑みを湛えた医者に引き上げられるように、見る間につくしの顔も穏やかな笑顔へと変化する。
「先生、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
そう言って頭を下げるつくしに、俺も倣う。
この先生なら信じられる。つくしの吹っ切ったような晴れ渡る笑顔が、そう語っていた。
怖がりながら医者に通ってた頃よりは、断然良い傾向だ。
なら俺も、この医者を信じ、やれるところまでやろう。
それでも駄目ならそのときは、二人で海外に移住すればいい。俺たちの人生の、新たな幸せを掴むために――――。
✦
帰りの車の中、ポーカーフェイスのつくしは、もういねぇよな? と、マジマジとつくしを観察する。
「うん? なーに?」
コテっと、つくしが首を傾げる。
よっしゃーっ!
間違いなく、いつものつくしだ。ポケットに入れて連れ歩きたくなるほど愛くるしいこの笑顔は、この二日間、俺が探してやまなかった、愛しいつくし。
思わず胸ン中でガッツポーズだ。
「いや、可愛いつくしが帰ってきたかな、って思ってよ」
「何よそれ。今までは可愛くなかったってわけ? ふーん。どんな私でも可愛いとは思ってくれないんだ」
や、やべぇ。不貞腐れてる。
どんなつくしでも愛してる。
けど、本音を言えば、この二日間のつくしは、可愛いが2割。すげぇ怖ぇが8割。
この割合を叩き出せるだけでも俺って凄ぇって、あきらなら褒めてくれるはずだ。
あいつなら、死ぬほど怖ぇ!が10割だろうから、多分。
だが、ここで対応を誤っちゃ元の木阿弥だ。
やっと取り戻したんだ。可愛い可愛い、俺のつくしちゃんを。またどっかに隠されては堪んねぇ。
「どんなつくしでも可愛いに決まってんだろ」
だから、8割はバレないように懐の奥にしまう。
「そう? なら、良かった」
にっこり笑うつくしに、俺も良かった、とホッと胸をなでおろした。
「それよりつくし。さっき医者が言ってたタイミング療法って何だ?」
「ああ、あれはね。ここ数日が一番妊娠しやすい排卵日ですよーって先生に教えてもらって、それに合わせて夫婦生活を営むってものなの」
「つまり、医者に指示されんのかよ。でも、つくし。前にもそれ受けてたんだろ? 俺、何も言われてねぇけど。全然、気づかなかった」
「それね。正直、私に必要なのかなって思うとこでもあるんだよね。だって排卵日だって知らせるまでもなく、いつだって司が襲ってくるし」
「⋯⋯襲う言うな」
過去に罪を犯したしただけに、その言葉は、ちょっとした俺のトラウマだ。愛情表現って言ってくれ。
だが、小さな抗議は聞き流された。
「でね、排卵日から約二週間。指折り数えて待つの。今度は上手くいったかな⋯⋯って。きっと、そんな風にして、私は自分を追い込んでいたんだよね。だから、もう止める。
私には司がいる。先生がいる。司、一人じゃないって思い出させてくれてありがとう。信頼できる先生にも巡りあわせてくれて、本当にありがとう」
男と女じゃ、身体の造りが違う。ゆえに、男には本当の意味で分からない部分は多いだろう。
女性にだけに起こる身体の変化。男の俺がそれを全部を理解し得るのは難しいかもしれない。
けど、その分、心に寄り添おう。
何が不安で何が辛いのか、今まで以上につくしの気持ちを感じよう。
そして、もたらそう。憂いのない輝かんばかりの笑顔を⋯⋯。
そのための努力ならば、俺は惜しんだりはしねぇ。たとえ他の何かを犠牲にしても。
「お礼なら、ベッドの上でいいぞ。この二日間、邪険に扱われ寂しい思いしたんだ。家に帰ったら早速仲直りしような」
心に誓いを立てつつ言えば、「えへへ」って笑うつくしが可愛くて、どうしようもなく頬が緩む⋯⋯⋯⋯が、待てよ。
俺は、何か忘れてねぇか。
視線を宙に置き思考を巡らせること数瞬。突如としてそれは浮かんだ。――――ヤロー三人のふざけた顔が。
「あ―――――っ! そうだったぁ――――っ!」
「ど、どうしたの? 急に大きな声出して」
「家にあいつ等いるの忘れてたっ! くそっ、とっとと追い出しときゃ良かった。俺とつくしの仲良しタイムが⋯⋯」
せっかく甘い時間を過ごせると思ったのに、奴らに邪魔されて堪るか!
まさか類のやつ、寝てねぇだろうな。
だとしても、布団で簀巻き状態にしてゴミ捨て場にでも放置しときゃいい。
全員纏めて直ぐにでも摘み出してやる!
運転手にスピードを上げろと指示を出し、邪魔者を排除すべく俺たちの愛の巣へと急いだ。

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