愛のカタチ 5.
「全部、思い出したんだよね?」
確かめるように俺を見入る滋に、これ以上は隠し通せねぇと降参し、俺は黙って頷いた。
「やっぱりね。司、分かりやすいんだもん。私、さっきもわざと『司』って呼んだんだよ? 道明寺って呼び続けてた私がね。なのに、特別驚くでもないし、私が大河原滋だって思い出したのなら、呼び捨てにされても違和感ないはずでしょ?
だから、あぁ、記憶取り戻したんだなぁ、って直ぐに気付いたよ。それだけじゃない。そんな予感もしてたんだぁ。今日のことも、全部あきら君から訊いたしさ」
「滋」
「でも、ホント久々だよねぇ~。司に名前呼んでもらえるの! 一年も一緒にいたのに、初めてだもんねぇ~」
「おい!」
「そう言えばさ、知り合った頃なんてサル女って言われてたんだよ、私!」
「滋っ!」
俺に口を挟ませる隙も与えず、不自然なまでに怒涛の勢いで喋る滋の手首を強引に掴むと、
「だからでしょ? だから、私の名前を一度も呼んだりしなかったんでしょ?
ここに住まわせる女の身元を、立場のある司が調べないはずないもん。名前だって知ってたはず。なのに司は、私を名前で呼ぼうとはしなかった。昔、私をサル女って呼んだ時みたいに、司は心を許した人じゃないと名前すら口にしない。どんなにつくしを真似てみても、私は司に受け入れてもらえないんだって、ずっとそう思ってた」
急降下で声音の威力を失くした滋は、悲しそうに笑った。
滋の言う通りだ。
邸に住まわせると決めた時点で、直ぐに滋の身元は調べ上げてある。
大河原の一人娘で、由緒ある家柄の滋なら邸に置いても安心だとも思った。
嘗ては俺と婚約までしていらしいと知り、やはりこいつが自分の過去に関係してるんだと考えた俺は、当然名前だって把握してたのに、一度だって名を口にしたことはない。
声にこそ出しはしなかったが、心の中では女としか言わず、大切な奴なんだと思いながらも、その存在を『カギ』だと表現して⋯⋯。
そんな風にしか見ていなかった俺は、こいつをどれだけ苦しめ傷つけたことか。
『カギじゃない。ただの生身の女だ』
あきらが俺に諭した意味が、今なら分かる。
「名前のことだけじゃないよ。だから司は、私に手を出さなかったんだよね?」
「えっ!!」
「マジか!!」
成り行きを見守ってた、ダチの内の二人から声が上がる。
一緒に住んでりゃ、とっくにそう言う関係だと疑われても仕方ねぇが、敢えて問われもしねぇのに、わざわざ自ら進んでする話でもねぇ。
ただ、漠然と抱いていた違和感を払拭出来ぬまま、手を出すなんて真似、どうしても俺には出来なかった。
「滋、俺が全部悪りぃ。おまえの優しさに甘えて、おまえを傷付けてるとも気付かねぇで」
「それは違う! 謝って欲しいわけじゃないの。寧ろ、謝らなきゃならないのは、私の方」
俺の手を退けた滋は、自嘲的な笑みを浮かべる。
「優しさなんかじゃないよ。私にあったのは、狡さだよ」
「そんなことねぇ」
直ぐに否定するが、訊き入れるつもりはないのか、滋は首を振った。
「ううん。本当なの。二年前にね、司のお姉さんから訊いたんだ。NYに行ってからずっと、司は荒れてるって。私だけじゃないよ。その場には、みんなもいた」
「姉ちゃん、が?」
他の三人にも目を遣れば、揃って頷き返される。
「うん。司がね、一度だけ酔って、お姉さんに漏らしたことがあるんだって。
夢の中に出て来る、顔は見えないけど華奢で黒髪の女に会いたいって。どうすりゃいいんだって、そう苦しそうに司が言ってたって」
俺が酒に酔うなんて滅多にあることじゃねぇ。が、日本に戻る一年程前。ちっとも記憶を取り戻せない自分に苛立ち、やり場のない思いとハードな仕事に心身共に疲れ果て、呷るように酒に逃げたことは数度ある。
記憶にはねぇが、恐らくその時にでも姉ちゃんに口走ったか。
「友人も近くにいない司は、一人で苦しんで荒れてるって。それでも、何とか記憶を取り戻そうと、無理に仕事を詰め込んで必死になって日本に戻ろうとしてるって。そんな司が痛々しくて、何も出来ない自分が情けない。そうお姉さん言ってた」
「⋯⋯」
「その話を訊いてね、司が日本に帰って来たら、絶対に近くで支えてあげようって思ったの。勿論、友達として、ね。
でも、私の記憶もない司が、普通に近付いても警戒するだけだって予想ついたし、だったら、その夢に出て来る女に為りすませば、近づくチャンスが生まれるかもって考えた。ちょっとだけ体重を落として、髪も黒く染めて。それがきっかけになれば良いって」
「⋯⋯」
「案の上、司は興味持ってくれた。だから、直ぐ司の所に押し掛けたの。傍で少しでも司の苛立ちを和らげてあげることが出来たら、そう思ってたはずなのに⋯⋯。
気づけば、司のことより自分の想いを優先してた。このまま二人でずっと過ごせたら良いのにって⋯⋯。いけないって思いながらも、そんな願望がどんどん大きくなって、司への想いを自分で断ち切ることが出来なかった」
「滋⋯⋯」
「私はね、記憶に関係してる女なんだって信じ込んでる司に、つけ込んだんだよ!」
全てを打ち明けようと必死になって話す滋は、笑顔を見せようとするものの上手く行かず、溢れる涙を乱暴に手で拭う。
そんな滋に、俺は何て言葉を掛ければ良いのか、見つけられないでいた。
「だから、覚悟を決めたんだ。本当の自分は殺そうって。荒れなくなった司を見てたら、こんな私でも少しは役に立ってるのかもしれない、そう都合良く自分に言い聞かせて。これから先、司が記憶を取り戻す日が来るまで、私は偽り続けよう、ってね。そんな狡い考えの私は、余計司を混乱させただけなのかもしれない」
「そんなことねぇ。おまえが自分を押し殺してまで、この一年俺を支えてくれたのは間違いのねぇ事実だ」
外に出れば立場が邪魔して感情さえ好き勝手できず、取り戻せねぇ自分の過去に不安や焦りが入り交じり、屋敷の物や使用人に当たっては紛らわしていた、NYでの荒んだ生活。
年ばっか重ねても、やってることはガキの頃と同じだった俺が、日本に戻って滋と出会い、少しずつ落ち着きを取り戻したのも嘘じゃねぇ。
喩え偽ってたとしてもだ。失くした記憶に近づいているのだと、胸に芽生えた仄かな期待や希望は確かにあって、俺を荒れなくさせた。
それは滋が自分を犠牲にしてくれたからこそだ。
そんな役をやらせちまったそもそもの原因である俺が、責めるなんて出来やしなかった。
「それは孤独だった司が、誰かが傍にいることで安心しただけ。友達でも出来ることだよ。それ以上は何にもしてあげられなかった。この一年、誰よりも近くにいたのにね。
でも、つくしは違う。見た目も苗字までも変わったのに⋯⋯」
思わず瞼を閉じ、歯を軋ませる。
あの頃と変わらない強い眼差しを持つあいつの顔に、一瞬にして脳が支配されていく。
「敵わないって思ったんだ。昨日、会った時から。
松崎さんとして、あきら君のところの秘書だと紹介されたつくしは、十年ぶりに会う司を前にしても、つくしを真似てる私を見ても、ちっとも動揺しないんだもん」
「⋯⋯」
「それどころか黙って私を叱ってくれて、それがつくしの優しさなんだって、直ぐに気付いた。
つくしが、記憶を取り戻すことを 『くだらない』って言ったのはね、私と司を前へと踏み出させるため。でも私は、それを否定した。何故だか分かる?」
閉じてた瞼をそっと開け、
「俺のことを思って言ってくれたんだろ?」
質問に質問で返せば、「違うよ」と滋は首を振った。
「私がそう言ったのは、自分のためだよ。覚悟を決めたなんてカッコ良いこと言っときながら、結局、私のやってることは、司を騙してるのと同じ。このままじゃいけないって思った。
夜遅くに帰って来た司が、寝てる私の部屋に来て、お前なんだろ? って。失くした俺の一部は、お前なんだよな? って、そう苦しげに問い掛けられる度に、司を騙してる自分の罪深さを思い知って、どうしようもなく良心が痛んで仕方なかった」
「!」
⋯⋯気付いてたのか。
一緒にいればいるほど、何かが足りないと俺の中に生まれる違和感。けど、面と向かって訊ねる度胸はなく、寝てる滋に向って問う日々。
日付もとうに回ってる時間なら、深い眠りについてるだろうと安易に考えてた俺は、まさか滋が起きてたなんて想像もしなかった。
だが今になって思えば、いつだって滋は、同じ場所に座る俺に背を向ける形で眠っていた。
顔が見られぬよう、意図してそうしていたんだと、漸く気づく。
そしてそれは、夜ごと繰り返される問いかけの苦痛を隠すためであり、俺が部屋から出て行くのをただひたすら待つ、堪え難い時間だったのかもしれねぇ。
「罪の意識ももう限界でね、だから、気持ちは揺れながらもクリニックへ誘ったんだ。記憶を取り戻せる希望が少しでもあるなら、手を尽くそうって。そして、あるべき場所に司が帰れるようにしようって。
そしたら、予想外のつくしの登場でしょ? イヴにつくしと再会して、クリスマスに記憶が戻るなんて、聖なる日に訪れた奇跡みたいだけど、でも違うんだよね。奇跡なんかじゃない。やっぱり司とつくしは、引きあわされる運命にあるんだよ。
私は見た目を変えて司の視野だけを捉えたけど、つくしは、見た目を変えても司の心を動かした。司に影響を与えられるのは唯一人、つくしって言う存在だけ。
流石に滋ちゃんもこれには完敗! だからね、司? 私に気遣いなんて要らないよ? 司は司らしく、思うままに行動して?」
精一杯明るく振る舞う滋に、今度は俺が首を振る。
「俺は思うままに動いてる。おまえと前へ向いて歩こうって。記憶を取り戻したと言えば、おまえが気を遣うのは目に見えてた。だから暫くは隠そうと思っただけだ。
もう十年だ。俺が過去に縛られてる間にそれだけの時間が流れてた。短い時間じゃねぇ。互いに違う道があって当然な時間だ。それに漸く気付いた」
「つくしの元へは行かないって言うの?」
「あいつはもう、自分の道を歩いてる。俺達は、とっくに終わってんだよ」
「だから私と一緒にいようって? それって私に同情してるの?」
「そうじゃねぇ」
「でもね。この先、記憶を取り戻した司と一緒に居たとしても、私はきっとそう思っちゃう。司は自分の気持ちを抑えて我慢してるのかなって。無理してるのかなってさ。そう思っちゃうのは、私がつくしを良く知り過ぎてるから。
私は、つくしの存在を思い出した司の傍で、ありのままでなんていられない。寂しさばかり感じて、でも無理して⋯⋯そして、いつか終りが来る」
「それって、別れるって言いてぇのか?」
「付き合ってるとは言えないよね? 私たち」
そう言われてしまえば口を噤むしかない。
何も始まってすらいないと言われたとしても、反論する術もなかった。
傍に置いときながら必要以上に踏み込みもせず、決して踏み込ませず、何一つとして思いやりある振る舞いをしてこなかったのは、他でもないこの俺だ。
口を噤めば、涙の跡がまだ消えてもねぇのに、滋は口元に弧を描いた。
「私が言うのも変だけど、私に逃げちゃ駄目だよ? 司らしく、何にも恐れずぶつからなくちゃ! それにつくしは、司のこと今も変わらず大切に思ってるよ」
「そんなはずねぇ!」
反射で否定した俺の胸に、ズキンと痛みが走る。
滋が言うように大切だと思っていてくれたとしてもだ。それは、過去に対してだ。
今は違う。だからあいつは自分の道を─────。
でも、それでいい。
あいつが幸せならそれでいいんだ。
だから俺は、あいつが導いた道を滋と歩もうと思った。
倒れ行く意識の中で見た夢は、道明寺って呼ぶいつもの夢で。でも一つだけ違ったのは、霞んでいたはずの顔が鮮やかに映り、高校生のあいつが笑って俺を見ていた。
瞼を閉じたまま意識と記憶が覚醒した俺は、
『あなたが記憶を失くしたままでも、あなたの過去は嘘になんてならないから、』
『あの頃のあなたも、間違いなく本当のあなただって、ちゃんと分かってるから、だから、』
『忘れてしまえばいい。記憶を失くしたことさえ、もう忘れてしまえばいいんです』
何度も何度も与えられた言葉を思い出し、あいつを心にしまおうと決めた。
『その時をあなたが幸せに過ごしているのなら、きっと彼女はこう言うはずです。
やっと思い出したかって、笑って許してくれるはず』
言われたものを噛み砕けば、この時の『彼女』は、あいつ自身を指し示し、俺が記憶を取り戻して初めて意味を持つものなんだと思い知る。
それは、俺が過去を思い出した時に己を責めぬよう、あいつがくれた慈悲であり、だから幸せになれ、と婉曲に背中を押してくれた、かけがえのない優しさだった。
そして、最後にあいつはこう言った。
『────幸せになる未来を、これからは探して下さい。彼女と二人で』
自分ではない別の『彼女』を指して。
ならば、過ちを犯した続けてきた俺は、あいつの導き通りに生きるしかねぇと思った。
胸を張って幸せだと、いつかあいつの望み通りに言えるように。それが、滋を泣かさねぇ方法でもあり、俺の犯した罪の贖罪だと言い聞かせて。
なのに、その決意が滋の言葉でグラグラ揺らぐ。
感情が疼いて止まらねぇ。
「嘘なんかじゃないよ。昨日、つくしが私から目を逸らしたのはね、流石に慌てたからなんだよ。私が気がついちゃったから。首元にある土星のネックレスにね。だから襟元を急いで隠してたでしょ?」
「っ⋯⋯!⋯⋯嘘、だろ」
胸の鼓動は一層高まり、喉が痛いほど詰まる。
何でだよ。
何であいつがまだそんなものを。
だってあいつは別の男と────。
「そんな思いを隠して、つくしは言ったんだよね。忘れればいいって。記憶を失くしたことさえ忘れてしまえばいいって。
私には出来ない。大切な人に自分を忘れてもいいなんて言える強さ、私にはそこまでの真似出来ないよ」
だったら、どうしてあいつは────。
脳が麻痺して思考は追いつかねぇのに、滋は矢継ぎ早に言葉を繰り出し待ってはくれない。
「つくしの覚悟はね、私の覚悟なんかとは、次元が違う」
「⋯⋯⋯⋯」
「そんな強い優しさを持つつくしを、私はやっぱり好きだし、超えられない」
「⋯⋯⋯⋯」
「だから知って欲しい。強い優しさに隠した、つくしの本当の想いを、司は知るべきだと思う」
そう言ってスッと立ち上がった滋は、存在を隠すように黙っていた男たちを見た。
「後はよろしくね! あ、でも、クリスマスパーティー開く気満々だから、三人とも後から合流して、滋ちゃんに付き合ってよね!」
チラッと視線を交わした類と、「しょうがねぇな」と大袈裟までに笑顔で答える総二郎。
そして、あきらが「ああ」と口元を柔らげると、滋はバッグから取り出したスマホでどこかにかける。
「あ、もしもし桜子? 色々心配掛けたけど、全部終わったよ。これが私の最終的覚悟だもん。だから、そんな滋ちゃんとパーティでもいかが? なーんて思ったんだけど、迷惑かなぁ?
うん⋯⋯うん⋯⋯。桜子、ありがとう。じゃ、今からダッシュでそっちに行くから、また後でね!」
俺たちに構わず大きな声で話す姿を見ながら思う。
俺が全てを思い出した時には、その身を潔く引く覚悟だけは、きっと貫き通すつもりでいたんじゃねぇかと⋯⋯。
「⋯⋯滋」
通話が終わった滋を呼ぶ。
「そんな困った顔しないでよ! 私ね、今凄く楽になったの。勝手だけどさ、私が私でいられることに、心底ホッとしてるんだ。だから司も早く楽になれ!」
「滋⋯⋯、俺にとっておまえは、大切なダチに変わりねぇから」
謝罪のあれこれを並べたところで滋が喜ぶとも思えなかった俺は、今掛けられる精一杯の本音を告げる。
「うん。私にとっても、司もつくしも大切な友達だよ。今度こそ私も、自分がありのままでいられる場所を探して私らしく生きてくから。大切な仲間に恥じないように、ね! さてと⋯⋯、」
俺達を見回し、
「パーティーの前に桜子と買い物するんだ!」
声を弾ませる滋は、一年住んだここへの名残りを一切見せず、「じゃあね!」と最大級の笑顔を振りまくと、颯爽とこの部屋から出て行った。

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