愛のカタチ 3.
「彼女を傷付けてるのは、道明寺さん⋯⋯、あなたでしょ?」
松崎の指摘に胸の奥にチクッと痛みが走る。
この痛みの原因が何なのかは分かってる。それは記憶を失くしちまった、あいつへの負い目。
けど、
「分かったようなこと言うな!」
そんなことは、おまえに言われるまでもなく俺が一番分かってる。
十年間ずっと記憶を失くし、今も尚、あいつを思い出せずに苦しめてるってことは。
だからこそ、あいつに言われるがまま診察だって受けた。
思い出して欲しい、そう言ったあいつの願いを叶えるためにも。
「あいつのためにも前へ踏み出す努力をしようって時に水を差したんは、てめぇだろうが! お陰でお前に会ってからあいつは、部屋から一歩も出て来ねぇよ」
「彼女のためにも?」
フッ、と小馬鹿にしたように嘲笑う松崎に、更に頭に血が昇る。
一方で、今度はこの女が何を言い出すのかと、警戒を強めた。
「彼女が部屋に引き籠ったのを私のせいにしたいのなら、勝手にどうぞ? でもこれだけは言わせていただきます。
まさか、彼女のためだと言い訳して、記憶を取り戻すことが前へ進むことだと本気で思ってるのだとしたら、馬鹿だとしか言いようがありませんね」
「んだと?」
相変わらず人をムカつかせる女だ。
胸倉を掴んでやりたい衝動に駆られるが、何とか堪え一歩詰め寄るだけに留める。
なのに、敵を見るような目をしたあきらは、ダチの俺よりもこの女を守るつもりか、俺が近寄るのを拒むように、片手を伸ばして松崎を庇った。
「司、こいつに何かしてみろよ? 俺だって黙ってねえぞ?」
「煩ぇっ! ここまで馬鹿にされる筋合いねぇんだよ!」
「馬鹿にされても仕方ないですよね。あなたは何も分かってないんですから」
すかさず口を挟んできた松崎は、どうみたって俺に喧嘩を売ってるとしか思えねぇ。
まだ言い足りないらしい松崎は、庇うように伸ばしていたあきらの腕に手を掛け下げさせた。大丈夫ですから、そう告げて。
「道明寺さん? 次世代を担う若きホープと期待されてるあなたなのに、意外とその眼は節穴なんですね」
「てめぇ、本気で俺を怒らせてぇみたいだな」
「だって本当のことでしょう? 彼女はいつだって、あなたの傍で無理して笑っていたはずです。それにあなたは気付いてないんですか?」
「⋯⋯っ」
『無理して』と、言う松崎のそれが胸のど真ん中に刺さり、咄嗟に言葉に詰まる。
基本、あいつはいつだって笑ってる。けど、時折垣間見える暗い影。
俺から逃れるように視線を逸らす、あいつの曇った顔が脳裏を過った。
「道明寺さん、あなたが今を生きながら、いつまでも過去に拘り続けるから、彼女は無理して笑わなきゃならないんです」
「知ったような口利くなっ! 失くした記憶は俺だけじゃねぇ! あいつだって思い出して欲しいって願ってる!」
「だったら教えて下さい」
少しだけ声の威力を落とした松崎は、一拍置いてから迷いのない口調で俺に質問を投げた。
俺が絶対に答えられねぇことを⋯⋯。
俺こそが一番知りてぇことを⋯⋯。
「その記憶はいつ戻るんですか?」
あきらが息を呑んだのが分かる。
幼馴染のあきらたちでさえ、俺の記憶に関してこんなにもストレートに言ってきたことはねぇ。
なのにこの女は、人の傷口を広げるように事も無げに言い放ち、ピリピリと緊張が走る空気を物ともせず、尚も遠慮会釈なく続ける。
「今の医学では、記憶障害を治す完璧治療法は見つかっていません。もし、道明寺さんの記憶が一生戻らなかったとしたら?」
「⋯⋯」
「一生、彼女に無理な笑顔を作らせる気ですか?」
「そんなこと、俺だって望んじゃいねぇっ!」
「だったら記憶なんて────」
「てめぇに何が分かる」
苦しげに絞り出した声で松崎の言葉を遮り、指先が白くなるほど強く手を握り込む。
記憶なんてだと?
そんなもの必要ねぇとでも言いてぇのかよ。ふざけるな。
俺が失くしたものが、どんだけ大きいものかくらい本能で分かる。
それは、ダチたちのかつての無言の視線からも間違いないって確信してる。
まだ思い出せねぇのかよ、とでも言いたげな奴らの俺を見る目。
肩を落とし重い溜息を吐く奴らの姿は、俺を責めてるようにも映って、何度、思い出したいのは俺だ、と叫んでやりたかったかしれねぇ。
取り戻してぇ、取り戻してぇんだよ、と毎日毎日もがき苦しむしか出来なかった俺の気持ちを、おまえのような女に分かられて堪るか。
胸の中で荒れ叫ぶ俺を、まるで見透かしたように、
「誰も責めたりしない」
松崎が静かに紡ぐ。
「道明寺さんが幸せなら、誰もあなたを責めたりなんかしない」
「⋯⋯」
「彼女だって同じです。彼女がどんな気持ちで道明寺さんの傍にいるのか、分かりますよね? 同情であなたの傍に居るわけじゃない」
同情で一年も傍にいられるはずがねぇ。
あいつは俺を想ってくれている。そう思えるのは、決して自惚れなんかじゃねぇはずだ。
「道明寺さんが幸せそうに笑えば、きっと彼女も本当の笑顔を見せるはずです。過去に頼らず、別の方法で二人幸せになったっていいじゃないですか」
「⋯⋯」
「それが彼女のため、そうは思いませんか?」
「⋯⋯」
「そして、あなたのためにも⋯⋯。
道明寺さん、あなたは十分苦しんだ。もう、楽になればいいんです」
固めていた拳が無意識のうちに緩まり、今まで冷たく感じていたはずの松崎の声が、柔らかく耳朶を打つ。
それまで松崎の隣で固唾を飲んでいたあきらは、ソファーへと移り静かに腰を下ろすと、煙草に火を点けた。
けど、煙を吐き出したのはその時だけで、膝の上で絡めた両の指を見つめたきり、動きが止まる。
力なく座るその姿は、俺の記憶障害は俺やあいつだけじゃなく、こいつをも悩ませてたりするのか? そう思わせる姿だった。
「あなたが記憶を失くしたままでも、あなたの過去は嘘になんてならないから、」
あきらを映していた俺の目が、自然と松崎に引き寄せられる。
「あの頃のあなたも、間違いなく本当のあなただって、ちゃんと分かってるから、だから、」
棘々しさをとうに失くした松崎の眼差しが、窓へと移る。
ゆっくり、ゆっくりと言葉を刻み視界を別に置いた松崎は、瞬きも忘れてるようだった。
それは窓よりも向こう、遥か遠くを見つめてるようにも見え、俺は急速に違和感を覚える。
「おまえ、もしかして昔の俺を───」
問いかければ、窓から俺へと戻ってきた松崎の視線。だが『知ってるのか?』と最後まで言えずに、沈黙が二人の間を満たす。
言葉を見失うほど、強い意志のこもった瞳。凛とした態度。
けど、それだけじゃねぇ。
あまりにもらしくない姿を目の当たりにし、驚きで声を出すのを忘れた、そう言った方が正しい。
想像もしなかったものを、松崎の瞳に見つけたせいで。
────どうしてそんなもんを、おまえが滲ませるんだ。
「忘れてしまえばいい。記憶を失くしたことさえ、もう忘れてしまえばいいんです」
薄っすらと光る瞳に目を奪われたまま、誰にも言われたことのない言葉が胸の奥で反響し、今度こそ本当に声が出せなかった。
出そうとしても出せないほど、喉の奥は締め付けられ、ドクンと鼓動が高鳴る。
何で、何でそんなことを言う?
生意気なはずのおまえが瞳に涙を浮かべ、どうしてそんなことを⋯⋯。
俺にとって、かけがえのないもので、俺自身をも変えたはずの失くした過去。それを葬っていいとでも言うのか。
責められることはあっても、現状を受け入れてはくれない周りの視線に、記憶を取り戻すしかねぇって、自分が思い出したいと願うより先に、追い詰められたことだって少なくねぇのに。
何故お前が⋯⋯。
そんな逃げ道を与えられたら、俺のこの十年はどうなる?
俺の大事なもんは、思い出してやれねぇ、あいつは────。
混乱して、目の奥がチカチカする。
意識していなければ、一瞬にして脳内が真っ白になりそうで、立っているのかさえ不明な不安定な感覚に包まれながら、松崎の柔らかい声だけがリアルに響く。
「彼女なら、大丈夫ですよ」
「⋯⋯」
「もし、もしもあなたが、いつか記憶を取り戻す日が来たとしたら、」
「⋯⋯」
「その時をあなたが幸せに過ごしているのなら、きっと彼女は、こう言うはずです」
「⋯⋯」
「やっと思い出したかって、笑って許してくれるはず」
「⋯⋯」
「だから、きちんと前を向いて生きて下さい。あなたには、その義務がある。折角助かった命なんですから。幸せになる未来を、これからは探して下さい。彼女と二人で」
記憶を失くしたままの俺に、一体どんな幸せが待ち受けているかなんて、想像もつかねぇ。
けど、松崎の言葉は俺の胸を温かくさせ、目の奥のチカチカは止まらねぇのに、心が解放されていく気がした。
それはまるで身体が宙に浮遊しているような感覚で、松崎が背を向け部屋から出て行っても尚、治まらなくて。
やがて。
「司⋯⋯? おい、司っ!」
あきらが叫ぶ声を、遠くに訊く。
脳裏に『道明寺!』と笑顔で呼ぶあいつの顔が浮かび上がった刹那────。
視界は暗転し、真っ白な世界へと意識を落とした。

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