Overturn 【前編】
2話完結の短編です。宜しければお付き合い下さいませ。
「副社長お時間です。雅(みやび)様は、既にお支度のためにメープルのお部屋にご到着された模様です」
「分かった」
西田の言葉にPCをシャットアウトする。
重みを乗せた吐息を覚悟が代わりに吐き出すと、立ち上がって西田と共に部屋を出た。
地下で待機してあるリムジンに乗り込めば、今でも哀しみが宿る場所でしかない、赤坂にあるメープルへと音もなく滑り出す。
今夜そこでは、祖父の代から親しく付き合いのある、日本有数の大企業主催のパーティーが開かれる。現社長の息子の婚約祝賀会だ。
親しき者だけが招待されているそれは、本来なら然程、気を張ることもなく過ごせる場となるのかもしれない。
だが、俺には無理だ。あの場所は、嫌でも俺を過去へと引き摺り込む。苦しみをも引き寄せて。
胸に鉛を抱えたまま見る窓の向こう側は、灯りを纏う街めがけ、風に踊る雪が落ち始めていた。
どこまで一緒なんだと、目を反らし瞼を閉じる。
あの日もそうだった。今夜と同じように粉雪が舞っていた。
今から六年前。愛しい女を手放したあの夜も……。
俺がNYから帰国したのは、約束を一年オーバーした23歳の時だった。
遠距離時代、弱音を吐かず俺を支え続けてくれたのは、他の誰でもない牧野つくしだ。
それは、とてつもなく長い時間だった。普通の恋人のようには過ごすことは赦されない。束の間の時間を見つけては、全てを捧げてくれたつくしを愛し、互いを名前で呼び合う関係へと変化は遂げはしたが、その短い逢瀬ですら片手で足りるほどしか叶わず、時差と距離に阻まれる日々。
どんなに文明の利器に頼ってみても埋められぬ苦しみが、何度込み上げて来たか知れない。何度日本に逃げ帰ろうかと考えたか分からない。
その度に『司が戦い終えるまで、あたしはいつまでだって待ってるよ。いつでも気持ちは側にいるから』愛しい気丈な声に励まされ、俺の愛情は更に嵩(かさ)を増していった。
自分の弱さも辛さも見せず、ただひたすらに日本で待つ身は、どれほどのものだったか。人知れず痛む胸を抱え、涙したことも数えきれぬほどあっただろう。それでも堪え忍んでくれたつくしは、俺が帰国した日、初めて涙を見せた。
化粧が落ちるほど泣きじゃくり、ぐちゃぐちゃになった顔。その顔が何よりも愛しく、俺には誰よりも美しく映って見えた。
この女だけは、俺の全てを掛けて守り抜こう、そう改めて誓いを立て見つめたあの日の涙を、俺は今でも忘れちゃいない。
帰国してからは、望めば会える喜びを胸に、可能な限り時間を共有し、時に遠く離れていた日々を埋めるかのように、時間も言葉も忘れ朝陽が昇るまで体を重ね合わせたことある。
天辺を知らない愛を育みながら、掴み取りたい未来のために、俺は仕事に全力を注ぎ、牧野は教養と作法を可能な限り身に付け走り続けた。全ては永遠の愛を神に誓う二人の結婚へと向かって。
その想いが報われたのは、帰国して同じ季節が二度ほど巡り、専務という肩書きが付いた頃だ。
幸せだった。全てを乗り越え報われたのだと信じて疑わなかった。
両親にも認められ押さえた披露宴会場。式は二人きりで挙げよう、婚約発表はいつにするかと、話を詰める最中にも胸に広がる幸福感。これから先の描く未来には、どこを切り取っても隣につくしが寄り添う絵図だったのに……。
俺達は、神様に見放されたのか。翻弄される運命にあるのか。
悲劇は音もなく静かに俺達に忍び寄った。
────道明寺総帥死去。
突然だった。
一度倒れたとはいえ持ち直し、安定していると思われていた。
家族すら予想だにしなかった突然の逝去。それは普通の家庭とは違う側面も顔を出す。家族の死に、泣き、嘆き、受け入れる前に訪れたのは、道明寺ホールディングス内部の混乱だった。
未だ稀少なカリスマ性で社員を引率していた父親の死によって生まれた不安視。同時に、この日を待ちわびていたかのように激化する反乱分子。
ある者達は技術を他社に身ごと持ち逃げし、ある者達は預かり知らぬところで起きていた不正をリークした。
知らぬ存ぜぬで通せる立場にはない。喩え道明寺家の失脚を狙う罠であったとしても。
過激なマスコミ合戦が始まり、株価は下降の一途を辿る。誰が敵で味方かも分からず目まぐるしく変わる状況下。対策は後手に回り八方塞がりとなった。
そんな時だ。
融資を含む提携という形で手を差し伸べようと、日本の大企業が名乗りを上げたのは。
しかし、そこには社長の娘と俺との婚姻が条件に含まれていた。
頷くわけにはいかない。そんな条件、飲めるわけがない。何のために今まで身を粉にしてきたと思ってる。全てはつくしを守るために力を入れ、二人の幸せをこの手に掴むためだ。
それなのに、望みもしない現実だけが押し寄せてくる。
頑なに首を縦に振らない俺に、母親は何も言わない。それがもどかしく感じるのか、自分の保身に気を取られ説得を試みる役員達。
将来を約束してる女性がいるからと、条件を突っぱねれば、相手企業側からは情報操作を仕掛けられる。
"道明寺司氏 大企業令嬢と婚約か!?"
"大学時代から交際育む"
そう、相手の女はNY時代、大学のキャンパスで共に学んだ顔見知りだった。俺に恋人がいるのも知ってた筈だし、『彼女とお幸せに』と、声を掛けられたこともある。それが数年後には、事実をねじ曲げられこの有り様だ。
操作された情報は、マスコミを更に加熱させた。彼女が道明寺を救うと連日報道され、マスコミに追われる女は、すっかり為りきってるのか、何も発せずともしおらしさを演じ、意味深にカメラの前で恥じらいを装った笑みまで見せた。何の否定もせずに。
嘘偽りのない本物の恋人であり婚約者のつくしは、これを観てどう思うか。考えるほどに胸は鷲掴みにされ、女に対して日毎に憎しみが募る。
『心配するな。俺にはつくしだけだ。愛してる。だから信じて待っててくれ』
同じ空の下にいながら、抱えた問題処理に忙殺され会えない恋人に、根拠もなく電話で言い続ける俺は、どれだけ頼りなかったことか。それでも諦めたくはなかった。つくしだけは、絶対に。
俺が力を注いでいた開発が成功すれば逆転出来る。だが、結果を出すにはまだ遠い。他に手段はないか、道明寺を救える道は本当に残されてはいないのか、寝食も忘れて駆けずり回った。
でもそれは、真っ暗な道を闇雲に走り、針先ほどの穴から射す光を求めるようなものだった。
追い詰められ、挙げ句、顔見知りだった女は、どこまで調べ上げていたのか『会場も押さえてあるみたいだし、その日にそこで、私達の披露宴を挙げればいいわ』有ろう事か、俺とつくしの為に押さえた会場を指定した腹黒さまで見せた。既に逃げ道はないとばかりに。
早くしなければ、早く救える道を探さなければ、然もなければ、つくしが身を引くかもしれない。道明寺の為に自分の気持ちを殺して別れを切り出すかもしれない。それが何よりも恐かった。つくしの居ない人生を生きることが。だから、早く、早く───。
その日は、見渡す限りの雪模様だった。
夕方になり小雪が舞い散る中、恐れていた電話が西田の許に届く。
『牧野様がお時間を頂きたいそうです』
夜になり、マスコミの目を盗みながら、つくしを待たせてあるホテルのスイートへと向かった。同行すると言って聞かない西田も連れて。
外気の冷たさ同様、俺の心も凍てついていく。つくしから何が語られるのかは、分かり過ぎるほど分かってる。とうとう、その日が来たのだと。
向かう車の中、ひたすら自問を繰り返した。俺が守りたいものはなんだ。俺の全てで守りたかったのは、つくしだけじゃなかったのか。何を捨ててでも良い。道明寺なんかくれてやる。つくしさえ居れば。それさえ叶わぬと言うのならば……。
掌に収まりかけた幸せが、砂のように零れ行く感覚に身を包まれながら、自分の想いの秤が一方に片寄っていく。
鉛を引き摺る様に重い足取りでスイートに入れば、ソファーには、つくしと三条が座っていた。西田も付いて来た上に三条もいる。連絡を取り合っていたのか否かは知らない。だが、危うさを孕んでると警戒したんだろう。事実、俺の中には、二人が危惧してるだろう考えが芽生えていた。
『つくし、俺は絶対別れねぇからなっ!』
開口一番、俺は怒声を上げた。それに動揺を見せないつくしは、二人に目を向ける。
『西田さん、桜子。司と二人で話をさせて下さい』
つくしの言葉に顔を見合わせる二人からは、案の定、迷いが窺える。俺達だけにして良いのかと。
『10分、10分だけで良いんです。お願いします』
冷静に見えるつくしに頭を下げられ、二人は黙ったまま、俺達がいるリビングから隣の部屋のドアを開け入って行った。
『司』
立ち尽くす俺の腕を引っ張り、ソファーへと導く。並んで座ったつくしが、俺の顔を見て口を開きかけた時、
『何も言うな……言わないでくれ』
掠れる声で先を封じ、つくしの白く細い首へと右手を伸ばした。力を入れてしまえば簡単に折れそうな首元に、宛がう手。
他のものは失ったって構わない。でも、つくしは、つくしだけは……。
失うくらいならば、いっそ、この場で二人の身を滅ぼしてしまおうか。
西田達が心配していただろう、危うさだけに思考が取り憑かれる。
つくしは動じなかった。俺が何をしようとしているのか分かってるはずなのに、黙って俺を見つめていた。
『司』
穏やかな声だった。優しい声だった。
声帯の震えが伝わる手には力が入らず、その俺の手もまた震えていた。
『思い出して。NY行きを、あたしに告げた時のことを』
『……』
『お義父様が倒れられて、やらなきゃならないことが出来たって。司が決めたって、道明寺司として。そう言ったよね?』
18の俺は、確かにそう言った。それが牧野を手に入れる為の近道でもあり、道明寺への恩返しだと覚悟を決めて。
『お義父様が亡くなられた今。もっと司にはやらなきゃならないことがあるはず。それは、道明寺司にしか出来ない』
『……俺に……好きでもねぇ女と……政略結婚しろって言うのかよ』
『司と付き合うってことは、こういう日が来るかもしれないって、ずっと思ってた』
『信じてなかったのか、俺を……』
震える弱い声に、つくしは小さく首を振った。
『違うよ。誰よりも信じてる。きっとあたしを思って必死に守ろうとしてくれるだろうってことも。そんな司だから、あの時、司が覚悟を決めたように、あたしも覚悟を決めたの。もしかしたら別れを選ばなければならない日が来るかもしれない。それでもあたしは、あたしのやり方で司を守り抜くって。司……?』
『……』
『この身は離れても、あたしはずっと司を愛し続けるから。この気持ちだけは、一生司に添い遂げるから。あたしには、司を愛することしか出来ない。何の力にもなってあげられない。でも忘れないで? 世界を敵に回しても、あたしだけは味方だって、あたしの心は常に司と共にあるって。気持ちだけは司を一人にさせない! この気持ちだけは絶対誰にも邪魔させない! 司は一人じゃないの。だから、お願い。生きることに絶望しないで! 司は司のやるべきことを全うして!社員の方達を守って! 司なら出来る。あんたは道明寺司なのよ!』
『つくし……』
力を無くした手が、重力に負けするりと落ちる。
『遠距離の時から言ってたでしょ? 司が戦い終えるまで、いつまでだって待ってるって。いつでも気持ちは側にいるって。今度は来世で待ってるから』
遠距離の頃から、ずっとそんな覚悟を胸に秘めていたのか。
『それじゃ……つくしが……』
幸せになれねぇだろうが、不幸になるだけじゃねぇかよ。そう言いたいのに喉が詰まって言葉にならない。
別の男と生きる道だってあるのに、そんな道は選ばないと言うのか。幸せにしてやれなければ、傍にすら居てやれない俺に恨み言一つ言わず、生涯想いを添い遂げると言うのか。おまえに手を掛けようとした俺なんかに、人生全てを掛けて愛してくれると言うのか。その愛で俺を守ろうと……。
俺は、初めて声を上げて泣いた。
何度も何度もつくしの名を呼びながら。
隣の部屋にいる西田達にも聞こえていたはずだ。それでも止められず、二人して泣きながら抱き締めあった。
抱き締めて抱き締められて、涙に濡れながら拭いもせずに唇を重ね合わせて、最後に『愛してる』と告げた。
西田と目を真っ赤にした三条が部屋から出て来る。馬鹿な真似はしないと判断したのか、約束以上の時間が過ぎていた。それがせめてもの二人の優しさだと分かる。
つくしは乱暴に手で涙を拭うと、無理矢理作っただろう笑顔を見せ、俺の手を掴み立ち上がらせた。
『いつまでもここにいられないでしょ!』そう言って俺を促す。ドアまでもう少しの所で、振り返りつくしを見た。
『何、情けない顔してんの!』
つくしが俺の頬を両手で包み込み、残っていたらしい濡れるものを拭う。
『道明寺司を誇りに思ってる。司は、あたしの誇りなのよ? だから、背を向け堂々と出て行って!』
一生離さないつもりだった小さな手が、俺の背中を押す。押し出され、一歩前に踏み出し止まった俺は、一度瞼を強く閉じ、歯を食い縛る。力の抜けた腕の先に拳を固めて、そして、開いた手で目の前のドアを静かに開けた。
『司のこと宜しくお願いします。西田さんも、お体には気を付けて』
つくしが西田に掛ける声と、
『はい。牧野様もどうか……どうかお元気で』
冷静なはずの西田の震える声を背中で聞きながら、俺は二度と振り返らず部屋を後にした。
──それから3ヶ月後。
つくしと幸せを噛み締める筈だった会場で、俺は別の女と並び座った。

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