手を伸ばせば⋯⋯ The Final 5.
司と牧野に何の進展もなく、寧ろ後退したとも言える中、やっと夕飯となり牧野の手料理をご馳走になる。
精神的疲労が蓄積された俺は普段より食欲はなかったものの、素朴な家庭料理の味わいは、心をほんのりと温かくさせ、ささくれ立った気分も少しだけ緩和されるようだった。
そんな束の間の休息も、総二郎が話を蒸し返したのをきっかけに、敢えなく終了する。
せっかく、お気に入りの肉じゃがをつついていたのに⋯⋯。
手を伸ばせば⋯⋯ The Final 5.
「しっかし、司がレイプ魔だったとはなぁ!」
「だから、レイプ魔じゃねぇっつってんだろうが! 誰かれ構わず襲ってるみてぇに言うな! んなことしなくても女になんか困ったことねぇよ」
⋯⋯最後のそれって、失言なんじゃ?
バカ男の迂闊な発言に箸を置く。
司に向かって小刻みに首を振り、その発言は牧野の前ではよろしくない! と音無しに指摘する。
直ぐに理解したらしい司の顔色が、さあっと蒼白になった。
「いや、違う! つくし、今のは言い方間違えた、撤回する!」
「本当のことじゃない。勘違いしてるようだけど、私は何も気にしてないわよ。大勢の彼女たちによろしく」
対して妻は顔色一つ変えず、ワイングラスを無表情で傾けている。
司、おまえってつくづくバカだな。
どうして冷戦中であるこの微妙な時に、自分で自分の首を絞めるような発言するんだか。
「な、なに言ってんだ! 俺がつくし以外の女に興味あるはずねぇだろ」
「いいのよ、私に気を遣わなくても。割り切った関係に戻るって、昼間に言ったばかりだし」
「ふざけんなっ! そんなの認めねぇからな! やっと夫婦になれたってのに、何を割り切る必要があるんだ!」
確かに牧野の割り切る発言は、斜め上過ぎた不可思議な結論で、些か乱暴とも言える。
訊いていた総二郎も目を丸くしているし、類だってパチパチと瞬きしていて、二人とも驚きが先行しているのか、まだ続いている夫婦のやり取りを黙って眺めるばかりだ。
「その大きな声、何とかならない?」
「てめぇが怒鳴らせるようなことばっか言うからだろうが!
⋯⋯なぁ、いい加減、機嫌直してくれよ」
怒鳴ったと思ったら、瞬く間の急降下。縋るように弱気な発言へと変わるが、
「怒ってないけど」
妻の方は相変わらず感情の起伏がない。
「怒ってんだろ。怒ってねぇなら笑え。な、頼むよ。俺が悪かった。俺が全部悪りぃから機嫌直してくれ」
遂に司が白旗を揚げ完全降伏しても反応のない牧野は、まるで人形のようだ。
そんな平行線を辿る、夫婦の会話とも言えない会話に、類が介入した。
「牧野、怒ってないの?」
「うん、怒ってない」
「良かったね、司。牧野、怒ってないって」
自ら介入しときながら、そりゃないだろ。牧野の返答をまともに受けてどうするよ。
「どこがだよ。いつもと違うだろうが」
司の言うとおりで、昔ならいざ知らず、どう見たって今は、いつもの牧野とは明らかに様子が違って変だ。
類だってそれは分かるだろうに。と息を吐いたところで、類がさらりと付け足した。
「怒ってはいないけど、司との間に壁でも作ろうとしてるんじゃないの? ね、牧野。違う?」
「⋯⋯⋯⋯」
それまで素っ気なくも返事をしてきた牧野の口が止まる。
その反応が、また司を刺激したようだ。
「なに黙ってんだよ、つくし。さっきまでいちいち可愛くねぇこと言ってたのに、何で言い返さねぇんだよ。類の言ったことが本当だからか? はっきり答えろっ!」
「司、怒鳴ったら牧野が話せないでしょ」
いや、類。牧野なら、猛獣が怒鳴ろうが暴れようが、言いたいことがあれば絶対に言う。それだけ強靱な心臓の持ち主だ。
なのに押し黙ると言うことは、類の指摘が図星ってことか。
でも、何故?
「牧野、思ってること話して? 牧野は、二日前に語学勉強をしたいって言ったんだよね? それが原因じゃないの?」
ここに来てから笑ってばかりいた類が、真剣な面持ちに変わり牧野に問い訊ねる。
逃さないとでも言うように、じっと見つめる類に観念したのか、暫く黙然としていた牧野は、小さな吐息を吐いて漸く口を開いた。類に答えるのではなく、司に向けた形で。
「二日前、勉強したいって言う私に、司は何て言ったか覚えてる?」
「⋯⋯⋯⋯いつまでも仕事なんてしてねぇで家に入れ⋯⋯、そう言った、かもしんねぇ」
「正しくは、おまえもいい歳なんだから、いつまでも仕事なんてしてないで子供でも作って大人しく家に入ってればいい。そう言ったのよ」
「⋯⋯っ」
あぁ、これはいろいろと駄目なヤツだ。人知れず溜息が出る。
歳のことは勿論、その後も言い方がまずい。
周囲の男に焼きもちを妬いたがために、感情任せに口走ったんだろうが、言われた当人はどう思うか。
女は子供を産むためだけの存在じゃない。ましてや、仕事に全てを懸けてきた女だ。聞き捨てならなかったんだろう。
二人に生じた罅が何だったのか、ここにきて朧気ながら片鱗が見えた気がした。
「司の言ったことは正しい。確かにいい年よ。十年以上も遠回りさせてもらったし」
牧野、嫌味を忘れないところは感心だ。
「悪かった。つくしを見るヤローの目が許せなくて、頭に血昇って言っちまったけど、言い方が悪かった。⋯⋯つくし、ごめんな」
そうだ。そうやってここは謝り倒すしかない。
だが、牧野は謝罪を足蹴にする。
「謝って欲しいわけじゃないの。私は、司の言ってることは正しいって言ったはずよ。確かに遠回りした。でも、遠回りした時間も全部が無駄だとは、私は思わない」
「⋯⋯どういう意味だよ」
「お願いがあるの」
「お願い? 何だ」
「私を秘書から外して欲しいの」
唐突な牧野の申し出に、訊いている俺の方がギョッとして目を剝く。
「⋯⋯秘書辞めてどうする気だ」
「企画経営部に転属させて欲しい」
「企画経営部だと? 腰掛けで務まる部署じゃねぇって分かってるよな? それを分かってて言ってんのかよ」
今までと格段に違い、司の声が迫るような低いものに変わる。
すーっと体温を失したように形相も険しくなり、これは不味いんじゃないかと心が落ち着かない。
「勿論、腰掛けのつもりなんてない」
「じゃあ、どういうつもりで言ってる」
「私の能力が生かせる場所だと思ったからよ。司としてではなく、道明寺支社長として、私の能力を判断して欲しい」
今更、それはないだろ。
そう思ったと同時。グラスを振り上げる司を目にし、
「司、落ち着け!」
怒りで熱くなりすぎた司を抑えようと、反射で立ち上がり司の腕を掴もうとするが一歩遅く、
ガシャン! と音を立て壁にぶつかったグラスは、無残にも破片を飛び散らせた。
頭に血が昇った司が、これ以上興奮して何かしでかさないよう、俺と総二郎で左右に分かれ司の肩を押さえ込む。
「今すぐ答えを出してとは言わない。でもきっと、この方が道明寺財閥のためにも、司にとっても、良い選択になるはず」
「いつまでも訳の分かんねぇこと言ってんじゃねぇぞ! そんなに俺を怒らせてぇのかっ!」
「牧野! その話は一旦止めろ! 唐突にそんな話したって、司だって混乱するだろ?」
今にも振りほどかれそうになりながら司を押さえつつ、牧野を諭す。
「⋯⋯分かった。私、ちょっと買い物行って来るね。ケチャップなくなっちゃったし」
「つくしっ! 話はまだ終わってねぇっ!」
牧野が立ち上がり背を向ける。
馬鹿力で俺と総二郎を振り飛ばした司は、バッグを掴ん出て行こうとする牧野を追い掛け、手首を掴んだ。
その拍子にバッグが床に落ち中身が散乱するが、手首を掴まれた状態の牧野は拾う術もなく、芯の強そうな眼差しだけを司に向ける。
「今の話、撤回するつもりないから」
「納得できるか! 俺との結婚が決まって、あきらんとこで秘書の経験積んだのは、俺の傍でサポートするつもりだったからだろうが。それがどうして気が変わった! 仕事がしてぇんなら、今まで通り秘書として働け。それ以外は認めねぇ!」
「何度も言わせないで。秘書だけじゃ私の能力は発揮できない」
「誤魔化してんじゃねぇよ! これまでだって、おまえの力は生かされてきたはずだ。それなのに発揮できないだと? ふざけんなよ、そんなもんこじつけだろうが!
俺から離れてぇんじゃねぇのか。俺から離れてぇから秘書を辞めてぇんだろうが! 言いたいことがあんなら、文句でも何でもいいからはっきり言え! 理由もまともに明かさねぇで、ごちゃごちゃ考えて勝手に決めやがって。てめぇは昔からそうだ。全く成長してねぇじゃねぇかっ!」
「言い過ぎだ、司!」
止めに入る傍から牧野が落ち着いた声で遮る。
「気が済んだなら、手を離して」
何を言っても受け付けない牧野を睨んだまま、司がゆっくり手を離す。
相当力を入れていたのか、うっすらと赤付く牧野の細い手首。
それを気にする風でもなく、床に散らばったものを掻き集めバッグに詰め込んだ牧野は、何も言わず足早に出て行ってしまった。
「⋯⋯あのバカ女」
牧野が居なくなったリビングに立ち尽くしたまま、司が小さく吐き捨てる。
「司、追い掛けなくてもいいのかよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「夜だぞ。女一人行かせていいのか?」
「⋯⋯⋯⋯SPがついてる」
重ねて問い掛ければ絞り出すような声で答えた司は、それっきり口を閉ざし突っ立ったまま。
吹けば飛びそうな灰みたいに放心するくらいなら、もっと冷静に話し合えば良いものを⋯⋯。
呆れつつも、取り敢えず座らせて落ち着かせるか、と司を促そうと足を踏み出した時だった。
司がふと何かに気づいたようで視線を僅かにずらす。
見ているのはアンティークのチェスト辺りか。
どうしたんだ? と訊く間もなく司はそこに近づくと、しゃがんで何かを拾った。
手にしたものを見ていたかと思えば、今度は急に立ち上がり、凄まじいダッシュ力でリビングから出て行く。
遅れて聞こえてきたのはドアが乱暴に閉まる音で、どっかの部屋に駆け込んだようだが、一体、何が起きたのか⋯⋯。
司が部屋に籠もってから、既に三十分。
「何やってんだよ、司は」
主の姿がないリビングに取り残され、訊くともなしに訊く。
「ヒントが見つかったんじゃない? あの機敏な動きからすると」
ヒント? と呟く総二郎は、俺と同じで思い当たる節はないらしい。
「司が拾ったの、多分、診察券。牧野のバッグから落ちたんだろうね」
瞬時に血の気が引く。
まさか、牧野はどこか悪いのか?
顔が青ざめるのを自覚し不安を募らせていると、バタバタと騒々しい音が響くなり司が乱暴にリビングのドアを開けた。右手にはコートを掴んで。
「あのバカ女、とっ捕まえに行ってくる。おまえら勝手にやっててくれ。類、寝たきゃ空いてる部屋勝手に使え」
それだけ言うと、疾風の如く走って行ってしまった。
何の説明もないまま、今度こそ本当に取り残された俺たち。
「ねぇ、あきら。昼間から付き合わされてるんでしょ? 今なら逃げられるよ?」
遠慮もなく人の顔を覗き込んでくる類は、俺がどう思っているかなんてお見通しとばかりに微笑んでいて、何とも居心地が悪い。
「⋯⋯心配で、帰れるわけないだろ。ここまで来たら最後まで見届ける」
「あきらって、やっぱり世話好き⋯⋯ごめん、良い人だよね」
本気で謝る気があるなら、人の顔見て笑うのは止めろ。
「仕方ねぇな。あのお騒がせ夫婦が帰ってくるまで、三人で飲み直そうぜ」
無駄に明るい声で総二郎が言う。
診察券、と耳にした時から、総二郎だって心配しているに違いないのに、それを振り払うような声音は、何も分からないうちから、無闇に不安を募らせても仕方がない。そんな思いが伝わってくるようだった。
俺たちは何もできない。今はただ、二人を待つだけしか⋯⋯。
何もないことを祈り、司が早く牧野を連れ帰って来くるよう、密かに願う。
出来れば、可愛いつくしちゃんも一緒に。そう心で呟きを添えて⋯⋯。

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いつもお付き合いくださいまして、ありがとうございます!
『手を伸ばせば⋯⋯ The Final』の途中ではありますが、明日からはXmasウィークということで、別のお話を更新したいと思います。
これも昔のお話で申し訳ないのですが、修正をしながら19日〜25日までの連日更新の予定です。
ただ、修正と更新で手一杯になると思われ、有り難いことにコメントをいただいたとしましても、お返事を書くのががかなり遅くなってしまうかもしれません。
ですが、それでは余りにも申し訳なく、今回のお話に限ってはコメント欄は閉じ、最終話のみオープンにしようと考えております。
Xmasが終われば、また『手を伸ばせば〜』に戻りますので、何卒、よろしくお願いいたします。
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