手を伸ばせば⋯⋯ The Final 1.
いつもお付き合い下さいまして、ありがとうございます。
今日から『手を伸ばせば⋯⋯』の続々編『手を伸ばせば⋯⋯ The Final』を更新いたします。
途中、注意事項を挟まなければならない回もありますので、ご理解いただきました上でお進みになられますよう、お気をつけ下さいませ。
一話が無駄に長い回もありますが、三度見届けてもらえたなら嬉しいです。それでは、どうぞ。
「お疲れさまです、美作副社長」
綺麗な身のこなしで俺の前にお茶を出す女は、しかし、顔に愛想の一つも刻んじゃいない。
背中がぞくっとするほど冷たい眼差しのその女の名は、牧野つくし────もとい、道明寺つくし。
そして、もう一人。
この部屋の主もまた、下手を打てば切り刻まれそうな双眸を持つ、道明寺HD日本支社長────道明寺司。
そんな二人がいる空間に、俺はやって来ていた。
手を伸ばせば⋯⋯ The Final 1.
大事な話があってアポまで取ってやって来たこの場所は、司の支社長室。
事前に約束をしていたとはいえ、俺が来ても直ぐには手を離せそうにないほど、二人は忙しそうだ。声を掛けるのも憚れる表情で、片付けるべき仕事に無言で取りかかっている。
流石は巨大企業を支える二人であると言えよう、その姿。
備わった能力と圧倒的なカリスマでトップに立つ司と、その妻であり秘書であり参謀でもある牧野は、世界に名を馳せる巨大企業を引っ張っていくに相応しい二人である。
しかし感心はするものの、一方できびきびと働く二人の表情は、見る者に無駄な緊張と威圧を与えてくる。
それを落ち着かせるためにも、牧野が淹れてくれたお茶でも飲もうと、湯吞み蓋に手を掛けた時だった。
潜在的危機管理能力とでも言おうか、『危険! 危険!』と俺の中の何かが警鐘を鳴らす。
⋯⋯俺は、この状況を見誤ってはいないだろうか。
ふと浮かんだ不安を検証すべく、キョロキョロと黒目だけで二人の動きを追いながら、ここに来てからの状況を振り返って思索を巡らす。
俺が来た時、迎え入れてくれた二人は完全なるビジネスモード。
忙しい時間の真っ只中に来たのだから、それも仕方ないと思ったわけだが、本当にそうだろうか。
お茶を淹れてくれた牧野は声を掛けてくれたが、それは素っ気なく、尚且つ、引き返す時の牧野は、他に見向きもせずの真っ直ぐ目線。────よく考えてみれば、これは非常におかしなことだった。
牧野が動く度に視線を追わずにはいられないのが司だ。この時だってそうしていたに違いない。
だとするならば、脇目も振らずだった牧野は、司の視線を無視したことになる。
いや、気づかなかった可能性もあるが⋯⋯、そう思ったところで、様子を窺っていた二人のうちの一人、司が顔を上げた。
司の目線の行く先は、もちろん牧野だ。険しい顔ながら、物言いたげに牧野を見ている。
PCに向きあっているとはいえ、勘の良い牧野がそれに気がつかないはずはない。しかも、肌でも感じ取れそうなほどの圧の強い視線だ。なのに、平然とキーボードを叩き続けている。
幾らビジネスモードとはいえ、隙あらばバカップルに成り下がるこの二人が、だ。俺以外にはいないこの場所で、視線だけではなく会話一つも交わさないなんて、やはり異常だ。
────つまりこれは、二人が険悪な状態にある、ってことじゃないだろうか。
俺ったら、なんてうっかりさんなんだ。こんなことに直ぐに気づかないなんて。
牧野が俺の秘書だった頃は毎日振り回されていたものだが、その度合いも週一程度に減ったもんだから、気が緩んでいたのかもしれない。
間違いなく今この場所は危険区域。自分が巻き込まれ体質である自覚はあるだけに、危険を嗅ぎ取ったならば、被害から逃れるべく速やかに避難すべきだろう。
結論を導き出した俺は、手にしていた湯吞み蓋を、そっと元の場所へ戻した。
「司、悪い。おまえらも忙しそうだし、俺も他に行かなきゃならないとこがあるんだ。また改めて出直してくるわ」
さり気なく、あくまでも自然に、間違っても声を震わせないように。そうして普通を装ったのに⋯⋯。
「あ?」
牧野を見ていたはずの司の視線が、縫い付けるような危険な物へと様変わりし、即座に俺へと向かって飛んでくる。
目つきも悪けりゃ口調も悪い。たった一文字である「あ」を、これほどまでに鋭く変換出来る奴を、俺は他には知らない。
「何をそんなに警戒してるんですか」
抑揚のない声で続けたのは、PCに目を向けたままの牧野だ。
前々から思っていたが、クールな時の牧野は気配に聡い。その牧野が旦那からのしつこい視線に気づかないはずはなく、やはり無視していたものと思われる。
俺のことも遠慮なく無視してくれたら良かったのに、俺の様子だけ勝手に窺い突っ込んでくるのは止めて欲しい。
「あきら、もうすぐ昼だ。メープルから飯運ばせるから、おまえも食ってけ」
「いや、いい!」
こんなデンジャラスな場所で司の誘いなんかに応じてなるものかと、間髪入れずに即答だ。
なのに何故だ。断ったのに何故、司はもうメープルに電話してるんだ。
しっかり三人分を注文している謎。どう考えてもおかしい。
誘いは断ったはずだが、司には通じなかったのだろうか。日本語だからダメだったのか? なら、英語でお断りをいれてみるか。と、俺が口を開きかければ、
「逃げられないみたいですね」
「ひぃっ!!」
僅かに開いた口からは、英語の代わりに情けない驚きの声が漏れた。
いつのまにやら俺の傍らに立っていた牧野。
気配を全く感じさせずに近づかれたんだ。元部下が、まさか忍者の術まで取得していようとは思うまい。驚くなってほうが無理な話だ。
「に、逃げるとかじゃなくてだな⋯⋯その、俺には行くところがあって────」
「お茶、飲まれてませんね。コーヒーを淹れ直してきます」
人の話を訊け。俺は行くとこがあるって言ってんだろ。⋯⋯嘘だけど。
「いや、コーヒーはいいから。本当に帰らないと────」
「逃げられないみたいですね、と私は言ったはずですが、聞こえませんでしたか? それとも理解できなかったとか」
何だとっ! 俺の言葉を遮っ上に、おまえのバカ亭主と一緒にすんな!
単純な日本語、この俺が理解できないはずがないだろうが! ただ理解したくないだけだ!
ついでに言えば、こうして心の中でしか文句を叫べないのは、感情の一切こもらないおまえの冷たい目が恐いからだっ!
⋯⋯やめよう。内心での文句もこの際慎もう。
だから頼む。文句は言わないから、俺を見逃してくれ。
心の底から願うのに、悲しいことに全く届かず、牧野はコーヒーを淹れるためか、部屋から出て行ってしまった。
どうしてだ。どうしてこんな険悪なムードの中に身を置かなくてはならないんだ。
「あきら、つべこべ言わずに飯食ってけ」
電話を切るなり司は言ってくるが、不機嫌モードのその口調が居心地を悪くさせ、余計に帰りたいと思わせると何故に気づかない。
俺を思いやる気持ちなど一欠片も持ち合わせていない司が、対面にドカッと座った。
「⋯⋯⋯⋯おまえら何かあったのか」
気持ちが伴わない棒読みで訊ねてみる。
本当ならば訊きたくない。二人の問題に首を突っ込みたくなんかない。そう思っても、簡単に逃げられる状況じゃないのなら、避けて通ることもできやしない。
もっと器用に振る舞えたなら良かったが、生憎といつだって上手くはいかず、こうして面倒事に介入してしまう自分の性質が恨めしくなる。
「ああ。でも、あいつがあそこまで怒る理由が分かんねぇ」
そうか、牧野は怒っているのか。だからあんな目を。
でも、これじゃまるで────
「司とよりを戻す前の牧野だろ、あれは。おまえら周りの迷惑も考えずに、ラブラブで上手くいってたんじゃなかったのかよ」
「二日前からあの調子だ」
「もしかして、家でもああなのか?」
「そうだ。ずっとあんなんだ。あの可愛いつくしちゃんは二日前から行方不明。俺があの手この手と頑張っても全く姿を現さねぇ」
「⋯⋯⋯⋯そうか」
無意識に半眼になる。
自分の妻を『可愛いつくしちゃん』とか、言い方にドン引きなんだが。
「はぁ。捜索願でも出せれば⋯⋯。一体、どこに出しゃいいんだよ」
今回ばかりは警視総監に頼んでも無理だと思うぞ、と相当に病んでいるらしい親友に念じたところで、思わぬ矛先が俺に向いた。
「あきら、何とかしろ」
「っ⋯⋯!」
これか! これだったのか、俺を引き止める理由は!
何て無謀な要望なんだ。
あのキャラに変身中の牧野に、この俺が何かを言って聞かせられるとでも思ってるのか? だとしたら甘い。
この際だから開き直るが、そんなの無理に決まってる。恐いもんは恐いんだ!
冷たい目に怯まないでいられるのなら、上司だった頃だって苦労はしてない。
それに、司の命令口調も気に入らない。人に頼むなら頼み方ってもんがあるだろうが。
「自分で何とかしろよ。どうせおまえが怒らせたんだろ?」
「それが出来ねぇから頼んでんだろうが」
全くぶれない横柄な態度に、頭が痛くなりそうになった俺は、こめかみを指先で揉んだ。
「全く⋯⋯。何が原因でこうなったんだよ。⋯⋯あっ、まさか司!」
懸念が脳裡を掠め顔を上げる。
「なんだよ」
「また女絡みじゃないだろうな。他の女に手を出したのがバレたとか」
「アホか。つくしと再会してから他の女に手は出してねぇし、興味もねぇ。つーか、今じゃ他の女の裸見たって、俺の息子はピクリとも反応しねぇよ。想像しただけで吐き気する」
それもどうかと思うぞ。その若さで反応ナシとは⋯⋯。
同じ男としては司の一物が心配になるとこだが、一先ずそれは横に置く。
「女絡みじゃないとなると、何だよ、原因は」
「語学勉強だ」
「語学? 確か牧野は、軽い会話くらいなら何カ国語か話せなかったか?」
「中国語はダメだ。俺もだけど。つくしは中国語も学びてぇらしい」
「だったらやらせてやればいいだろ。これで問題解決だ」
「ダメだ」
どうしてだよ? と首を傾げる。
「それくらい良いだろうが」
「あいつが中国語を習いてぇのは、来年のプロジェクトに中国企業が関わってくるからだ。そのプロジェクトが始まれば、また一年くらい費やす。一体あいつはいつまで働く気なんだよ」
「司は牧野に家に入ってもらいたいのか?」
「これ以上、他の男の目に触れさせたくねぇ。俺と結婚したってのに、つくしをイヤらしい目で見てくるヤローが後を絶たねぇんだよ」
うわ、やだ、男のヤキモチってサイテー。と思っても、学習能力がある俺は決して口には出さない。
かつて若かりし頃の俺は、これを口にしたばかりに司にぶん殴られ、「なんで俺だけーっ」と叫びながら吹き飛ばされた苦い思い出がある。
あれは、司の似非イトコが現れた頃だ。牧野が合コンしたことにヤキモチを焼いた司をからかったんだっけ。
思わず懐かしい記憶に浸りそうになり、頭を振って現実に戻す。
「その程度でいちいち苛つくな。本気で司から奪い取ろうなんて奴はいないから安心しろ」
「あったりめぇだ! そんなことしようとした時点で抹殺してやる」
まだ何も起きちゃいないのに想像だけで青筋を立てるなんて、随分と器用な奴だ。
「落ち着けって、司。そんなことよりもだ。牧野をどうしたいのか考えろ。このままあの状態で家に入ってもらうのか、それとも語学勉強させて可愛い牧野に戻ってもらうのか、おまえはどっちがいいんだ?」
「⋯⋯そりゃ、会話も成り立たねぇのは辛ぇ。仕事中はまだいい。必要とあれば話もする。なのに家に帰ってみろ。話すどころか俺の話さえ訊いてんのかどうか⋯⋯」
そりゃ酷い。司が項垂れるのも分かる気がする。
これじゃ、司と付き合う前のあの頃に逆戻りだ。
「司、こうなったらおまえが諦めて、牧野に勉強させてやれって。ずっとこのままなのは嫌なんだろ? くだらないヤキモチ焼いてる方が愛想尽かされるぞ」
「なんであいつは、そこまで怒んだよ」
唸るようにブツクサ言ってはいるが、現状から脱却できないのは堪えられないと思ったのだろう。
大きなため息を吐いた司は、心を決めたのか項垂れていた顔を持ち上げた。
「あきら、おまえがつくしに伝えろ。勉強させてやるって、おまえが言え。どうせ俺の話は訊かねぇだろうし」
何で威張って命令する!
伝えて下さいと言ってみろ。頭を下げてお願いしますと頼んでみたらどうだ。
何なら、いつだったか牧野にしたように、土下座でもしてみろってんだ。
土下座の仕方を忘れたんなら、俺のスマホの待ち受け見せてやるぞ?
相変わらずの傲岸不遜のバカに、温厚な俺も流石に一言物申してやろうと口にしかけたが、それは不発に終わる。
コーヒーの香りを漂わせながら牧野が戻ってきてしまったからだ。
どうすんだよ、本人戻って来ちゃったじゃないかよ!
司、自分で言わない気か? 俺が言うのか? 本当に俺がか!?
必死になって司に目で語るが、返ってくるのは、早く言えとばかりの偉そうな睨みのみ。
このヤロー、いっそ何も言わずに放置してやろうか。そんな考えが頭を過ぎったとき、コーヒーを俺の前に置いた牧野が、先に言葉を発した。
「美作副社長、何を言われても言いなりにならないで良いですから」
⋯⋯ん!? そうなのか?
なるほど、猛獣の思考回路なんてお見通しってわけか。
牧野がそう言うんなら、遠慮なくその通りにさせてもらおう。
俺は牧野の淹れてくれたコーヒーを楽しむことにした。
一口飲んで、香りと酸味とコクを味わう。うん、旨い。
だが、堪能する俺の足下で不穏な音が立ち始める。
カップの縁から口を離して下を見れば、俺の方にまで放り出された司の長い足が、コツコツと乱暴に床を叩いている。
その足先から上へと目線を移すと、切れ長が更に細まった剣呑な猛獣の目とぶつかる。
額には無数の青筋がくっきりと浮かび、指をボキボキと物騒に鳴らして⋯⋯。
おいっ! ダチをどこまで威嚇する気だ!
殴る気満々じゃねぇか!
何なんだよ、全く!
口を噤めば殴られる可能性大なら、屈するのは癪だが言うしかねぇじゃねぇかよ。
どうせ司と牧野の関係を解決しないことには、ここから解放される可能性だって低い。どの道逃げられないんならやるしかないと、カップをソーサーに置き、自棄くそで牧野に声をかける。
「ま、牧野」
自棄くその割にどもってしまうとは、我がことながら情けない。
「何でしょう」
とっくに自分のデスクに戻りPCを弄っていた牧野は、返事とともに俺へと振り向く。
だが、お世辞にもその眼差しは、友好的とは言えない。
「こ、こ、コーヒー旨いな」
うっかり言うべき台詞を変換したくなるほどの力を持つのは、感情が削ぎ落とされた冷淡な牧野の瞳。
片や猛獣も、ますます目を吊り上げてくる。
頼むから落ち着け、司。⋯⋯それに俺。
「お口に合ったのなら何よりです」
平坦な声で言う牧野に挫けそうになりながらも、もう一度話しかけた。
「ま、牧野。⋯⋯ちょっとこっちに座って話さないか?」
「まだ仕事が残ってますので」
そう言って、さっさとPCに向き直られてしまう。
取り付く島もないとはこのことだ。
業を煮やしたのか、司が腕時計をチラリを見てから言った。
「つくし、もう12時回った。休憩してこっちに座れ」
悩んだ末に諦めたのか、少しの間ののち牧野が椅子から立ち上がった。
牧野は冷ややかに司を一瞥したものの、大人しくこっちへと来る。
が、牧野がソファーに座ると同時。
『ひ、ひぇーーーっ!』
俺は内心で絶叫した。声に出さなかった自分を褒めて欲しいくらいだ。
⋯⋯何故だ。何故、俺の隣に座る!?
「つくし! なんであきらの隣に座ってんだよ! おまえはこっちだ! 俺の隣に座れ!」
「美作副社長、話って何ですか?」
鋼だ。司がこんなにも怒鳴ってるのに全く怯まず、平然と俺に話かけてくる牧野は、鋼の心臓だ。
その心臓に毛まで生えてんだとしたら、是非とも俺に植毛してくれ。⋯⋯一応、言っておくが、頭皮にじゃない。心臓にだ。
それにしても牧野のヤツ、本当に司の言うことを訊く気ないんだな。
「牧野⋯⋯、まずは司の隣に座ったらどうだ」
「話はなんでしょう」
⋯⋯残念ながら俺の話も訊く気はないようだ。
こんなんで大丈夫なんだろうか、と不安を募らせながらも、頼まれたことをようやっと口にする。
「牧野、中国語の勉強したいんだって? 司もな、考えを改めて習わせてやりたいそうだ。良かったな。心置きなく勉強させてもらえ」
よし、言った! 俺は言ったぞ!⋯⋯と、安心するのは早かったようだ。
「それなら、もう手続きを済ませ、昨日から習い始めています。勉強させてもらうつもりは初めからありませんし、ただ勉強すると報告したまでです。支社長が何を言おうが関係ありません」
「え?」
「え?」
てっきり語学勉強を反対したのが原因だと思っていた司と、それを信じた俺の反応が被る。
まさかの返しに、司も俺も続けるべき言葉が見つからない。
休憩時間になっても支社長と呼ぶ妻と、呆気に取られているバカ夫。
おい、そこのボケッとした夫!
怒らせた原因が見当外れとは、一体なんの冗談だ!
有り得ないだろうが!
勘弁しろよ。いつになったら帰れるんだよ。
解決の道が途絶えて、俺は盛大に頭を抱えた。

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