手を伸ばせば⋯⋯ The 2nd 8.
悪夢のパーティーから二週間が経った。
司にとってあの一夜は、生きながらにして味わった地獄であったろう。
地獄に招待したのは、何を隠そう婚約者。
自らが招いた種とはいえ、司は膚で、心で、嫌と言うほど婚約者の恐ろしさを知ったはずだ。
だが、恐怖をいとも簡単に作り出す婚約者ではあっても、司の愛は微塵とも変わらないらしい。
あの日、あの晩、俺たちが帰った後。シャワーを浴びた司が寝室で見たものは、目を赤く染めた牧野の姿。
一人こっそり涙を流していたらしい。
司の過去の女性問題は、どんなに強がってはみても牧野の心を揺さぶるだろうし、本気で司を想っていた女性に対しても、複雑な気持ちがあっただろう。
何より司だけではなく、牧野自身も、自らの過去に悔いを感じずにはいられなかったようだ。
負の感情に囚われていた故に招いた、視野の狭窄。自分を案じる者の声さえ届かなかった。
司への憎しみだけが生きるよすがで、その他のものは、人生においてのただの付録程度。そう信じて疑わなかった牧野は、だからこそ今は強く思うのだと言ったそうだ。
どんな事情があれ、人の気持ちや想いを踏みにじり、誰かを傷つけて良い理由にしてはならない、と。
そんな当たり前のことに気づきもせずに、独りよがりに生きてきた過去に、改めて後悔を覚えた牧野は、
『一つのものに囚われて、周りが見えなくなった前科が私にはある。だからもし、また私が間違った生き方をした時は、傍にいる司が思いっきり殴って、私の目を覚まさせて? 司が間違った時は、ボコボコにしてでも、どんな手を使ってでも、絶対に矯正してみせるわ。過ちを犯した者同士、完璧じゃない私たちは、二人で一人前なのかもしれないから』
そう言って、赤い目をしたまま笑ったと言う。
司もまた、そんな牧野を見て心から反省したそうだ。
二度と同じ間違いは繰り返さないと。そして、こんな風に牧野を泣かせたりはしないと。
それからの司は、牧野を思いっきり抱きしめ⋯⋯、やがて甘い雰囲気が漂い始め、ああなって、こうなって────と、要らん話までバカ丁寧にバカ男が俺に訊かせてきたのは、パーティー翌日の電話でだ。それもはた迷惑なことに、まだ夢の中にいた朝っぱらから。
最後に司はこう締めくくった。
『まぁ、色々あったけど、つくしは俺に惚れてるし、隙ありゃ愛を確かめ合うから心配すんな。俺たちは離れられねぇ運命だからよ。全ては、愛だな、愛』
余計な話まで一方的に訊かされた身には毒にしかならならず、朝から俺は砂を吐きそうになった。
ともあれ、今は平和にバカップルをやっているらしい。
⋯⋯にしても、色んな顔を持つ女だ。
改めてジッと観察してしまう。
「何かご用ですか、副社長」
不躾な視線に返ってくるのは、平坦な声。
仕事中となると、相も変わらずポーカーフェイスだ。
司の土下座が功を奏してか、元の仕事に戻るのを断念した牧野は、結婚するまでは予定通り、こうして俺の秘書を継続している。
「いや、牧野が幸せで良かったなぁ、としみじみ思っただけだ」
怪訝に俺を見る牧野の表情は冷たい。
色んな顔を持つ牧野だが、恐いか天然かの両極端に偏り、その中間の顔がない。
もうちょっと、普通の顔は出来ないのだろうか。少しは可愛らしく愛想を良くしてみるとか。
「今は勤務中です。私のプライベートを語る時間ではありません」
出来ないらしい。愛想のあの字もなく、あっさりばっさり斬り捨てられた。
「それより副社長。本日18時より木下物産のパーティーが入っております。社を出るのは17時半、私も同行致しますので宜しくお願い致します」
「了解」
秘書の牧野と一緒に出るパーティーは多い。
喩え恐い一面を持つ女であっても気心が知れた仲だ。それに加えて仕事の面では優秀ときている。
同じパーティーに司さえ出席していなければ、挨拶回りは捗るし、会話もスマート。パートナーとしては最良と言える。
今夜は、邪魔しかしない司は欠席と訊いているし、気を揉ます必要のないパーティーになるだろう。そう気楽に考えていた。
だから気づきもしなかった。
牧野の腹の内など⋯⋯。
思っていた通り今宵のパーティーは、穏やかな中で時を刻んでいる。
猛獣が現れないだけで、どれだけ平和なことか。
司さえいなければ優秀な秘書の仮面を崩さない牧野は、挨拶回りも無難にこなし、俺のアシストに専念してくれている。
今夜も一見、非の打ち所がないように見える牧野には、男たちからの熱い視線とは別に、タヌキ親父どもの息子に是非に、と俺を通して縁談話が舞い込んでくる。
司の婚約者であることは勿論のこと、見えている姿が牧野の全てじゃないとは知らないんだから仕方はないが、それにしても相変わらずの多さだ。
が、それらを適当に捌くくらい何てことない。
バカップルに振り回されることに比べたら可愛いもんだ。小蠅を片手で振り払う程度のもの。
平和だ。何とも平和なパーティーだ。
穏やかな時間は俺の心にゆとりを齎す。
司までとは言わずとも、俺にだって気を向けてくる女性はそれなりにはいるわけで、今夜はその内の一人と、親密に距離を縮めてみるのも悪くない。そう考えるまでに気持ちに余裕が生まれてくる。
思えば最近、自分のプライベートを蔑ろにし過ぎていたような気がする。
それもこれも全部バカップルのせいなんだが、いつまでもあいつらに振り回されてばかりではいられない。俺だって、幸せを探しても良いはずだ。
牧野が料理を取りに行っている隙に、俺は会場を見回した。
さっと流した視線の先。一人の女性と目がぶつかる。どうやら相手も俺を見ていたようだ。
がっつき過ぎない程度に、一つまみの誘惑を紳士的な笑みに乗せれば、相手は引き寄せられるように俺の元へと近づいてきた。
「初めまして。美作副社長でいらっしゃいますよね。私、S社の竹下亜美と申します。前から一度、美作副社長とお話ししてみたいと思っていたんです」
「初めまして、美作です。綺麗な女性に願われてたなんて、これは光栄だな」
「ずっと憧れていたんです。思いがけず夢が叶って嬉しいですわ」
「挨拶程度の会話で満足だとしたら、それは残念だ。物足りないと思うのは、俺だけかな。夜はまだ長い」
うん、悪くない。
大人の色気を纏いながら品を損なっていない美人は、スタイルも文句なし。
それに声が良い。
高すぎず低すぎず落ち着き払ったしなやかな声は、ベッドの上ではどんな風に啼くのだろうか。きっと今以上にそそられるに違いない。腰にダイレクトに響くくらいに。
パーティーが終わって牧野と別れたら、場所を移して続きを楽しもう。そのままホテルに流れるのも決まりだろう。
艶めく邪な想像を膨らませながら、連絡先が認めてあるプライベート名刺を、スーツの内側から取り出した────その時だった。
「あきらさん、こちらにいらしたのね。もう、探したんだからぁ」
背後から聞き慣れた、しかし、何かが決定的に違う秘書の声に、ギクッと背中が強ばる。
⋯⋯ど、どっから出したその甘い声!
それに何故に名前呼び!?
恐ろしげに後ろを振り返り、そして俺は絶句した。
な、ななななんで、笑顔で目をキラキラさせているんだ!
そういう顔は司限定だろうがっ!
こんな場面、司に見つかれば俺が殺される。
よせ、上目遣いで俺を見るんじゃない!
何のキャラに変身中だ!
少しは可愛らしく愛想良くしてみろとは思ったが、違う! 断じて違う!
望んだのは、こんな薄ら寒いものでもなければ、こんな場面でもない!
得たいの知れない突然のキャラ変に、恐怖が全身を這い回り、毛穴という毛穴が一斉に粟立つ。
止めてくれ。
これじゃまるで────恋人を見つめる目じゃねぇかよ!
「美作副社長、私はこれで。失礼致しますわ」
どうやら、知り合ったばかりの彼女に、見事に勘違いされたらしい。
俺の折角の出会いは、強制終了。愛が芽生える前に、横から摘み取られた。
絶句して牧野の異変を見つめるしか出来ない俺と、キラキラと瞳を輝かせる牧野との仲を完全に勘違いしただろう彼女は、この場に未練も残さず颯爽と人波に消えていった。
「こちらを召し上がって下さい。食べ終わりましたら、残りの挨拶を済ませます」
料理が乗った皿を牧野が差し出してくる。
俺は目をゴシゴシと擦った。
俺が見たのは幻だったのだろうか。
皿を差し出してきた牧野の瞳からは、キラキラが消え失せていた。
擦った目を開けば、やはりそこに居るのは、いつものポーカーフェイス牧野で、笑みの欠片も見当たらない。
「お、おい! 一体、今のは何の真似だ。俺に幻覚を見せるとは、何の技だ!」
「副社長に余計な虫がつかないようにしたまでです。これも秘書の役目ですから、お気になさらずに」
気にしますから! すっごくすっごく気にしますからっ!
余計な虫を排除される役目は、司のはずだ!
担当じゃない俺が、何でこんな目に遭わなきゃならないんだ!
そもそも独り身の俺は、誰に遠慮も要らずの女性ウェルカムなんだよ!
虫かどうかの品評も自分でする!
そう抗議したいのに、
「何をぼっーとしてるんですか。時間は無限ではありません。急いで食べて有効に使って下さい。それと、その右手にあるプライベート名刺は必要ありませんので、私の方でお預かりします」
表情をごっそり削ぎ落とした能面の牧野は、付けいる隙も与えず名刺ケースごと奪い、永久凍土より冷たい視線で、俺から声までも奪う。
結局この日、幾度となく幻覚を見せられ、近づく女性たちを悉く排除した牧野。
平和だと思えた時間は、いま何処。
帰る頃には、出会いを求めた俺の肩は落ち、背中にはどんよりとした影を背負っていたに違いなかった。

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