手を伸ばせば⋯⋯ The 2nd 7.
今夜のパーティーには、杉崎とはまた別の過去女がいたと話す牧野に、誰も口を挟もうとはしなかった。
それは、今までの様子から一変した牧野のか細くなった口調だったり、瞳に悲しみが浮かんで見える表情だったり。
無闇にからかって良い話の類いではないと察せられ、お調子者たちの口を噤ませた。
「彼女のこと、全く覚えてないみたいね」
牧野から探るような眼差しを向けられている司は、牧野の言葉通りなのだろう。心当たりがないようで、困惑が顔に滲み出ている。
「司? 今夜会場で、女性と肩がぶつからなかった?」
眉間に縦皺を刻み思案顔となった司は、少しの時間を要してから「そう言えば」と、小さな呟きを落とした。
「その人よ。司と関係のあった女性の一人。本当に覚えてないの?」
「⋯⋯覚えてねぇ」
気まずげに視線が下がる司を見据える牧野。その表情に険しさが刻まれる。
「彼女は本気で司のこと想ってたのよ? それなのに司は、彼女の想いを踏みにじった。勿論、合意の上でそういう関係になったんだろうから、司だけを責め───って、まさか!」
静かに言葉を紡いでいた牧野は、しかし、突然中断すると声量を格段に上げ、「まさか、無理やりってことはないわよね?」今にも切り刻みそうな鋭い眼光で司を刺した。
どうやら牧野は、喋りながら最悪の事態を想像してしまったらしい。司が力尽くで女性を穢したんじゃなかろうかと。
が、流石にそれはないだろう。
「んなことはしてねぇ⋯⋯⋯⋯あの時だけだ」
案に違わず、すぐに司は否定した。
最後の方は声が小さすぎて何を言っているのか聞き取れなかったが、やはり無理やり致したってことはなさそうだ。
そりゃそうだろう。
金と権力と美貌まで備わった男だ。冷酷無情な一面を差し引いても、数多の女たちにとっては魅力的で、自分のものにしたいと願って、自ら科を作りすり寄ってくる。
向こうから近づいてくるがために、遊び相手には困らなかっただろう司が、乱暴を働いてまで女を欲するとは考えにくい。
何より、女に対してそこまでの執着があったとは思えない。特例は牧野だけ。
過去の司が最低な男だったってことには激しく同意するが、来るもの拒まず去るもの追わず精神を地で行っていただろうことは間違いなく、『だから、そこまでは疑ってやるなよ?』と、諭すような気持ちで牧野を見る。
牧野はまだ胡乱な目を司に向けているが、束の間の空白ののち「そう」と、答えたところを見ると、ひとまず疑念は懐に収めてくれたようだ。
「とにかく、司がいい加減に付き合っていた女性の中には、本気で司を想ってくれていた人もいたのよ!
⋯⋯彼女、私に司の婚約者かって訊いてきたわ。嘘つけないと思った。正直に答えた私に、彼女が言ったの。ずっと寂しい目をしている人だと思ってたって。以前とは違う幸せそうな司を見て、これでやっと自分も思い出に出来るって。これからも司を幸せにしてあげて下さいって、そう言われたわ。彼女は、自分のことより司の幸せを願ってた」
これはきつい。その女だけじゃない。牧野にしてみてもだ。
杉崎みたいな女に攻撃を仕掛けられれば、牧野は遠慮なく反撃に出て退けただろう。
だが、この女性は違う。澱みのない誠実な思いは、牧野の胸にも痛かったはずだ。嫌みを言われた方が何倍マシだったか。
実際、ずっと強気でいた牧野の瞳に、うっすらと涙が滲んでいる。
「牧野大丈夫?」
類が牧野を労るように、柔らかい声で優しく訊くが、
「もう、司のこと嫌になっちゃった?」
続けた言葉は司にとっては手厳しい。
焦った司は立ち上がって距離をつめると、牧野を覗き込む類の肩を押しのけた。
「類、邪魔だ、どけ! つくし、嫌な思いさせて悪かった。俺が全部悪りぃ。そういう相手がいたなんて、正直、気づきもしなかった。俺に近づいてくる女どもは、どいつもこいつも上辺だけを見てるバカな連中ばっかだと⋯⋯。見抜けなかった俺が悪りぃ。相手にもすまねぇと思う。何より、つくしを傷つけて本当に悪かった。もう二度とつくしに嫌な思いはさせねぇ。だから、結婚やめるとか言わないでくれ! 頼む!」
冷や汗ダラダラだろう司は、相当に必死だ。気分は、処刑を待つ咎人、といったところか。
どんなに恐い牧野の姿を目にしようが、司の一途な想いを曲げる理由にはならないらしい。
捨てられまいと、懸命な視線が牧野に追いすがる余裕のなさだ。
果たして、牧野は何と答えるのか。皆の注目が集まる。
「やめないわよ」
怒りを隠そうともしない牧野の低い声。けど、どうやら最悪の事態は避けられそうだ。
「やめるわけにはいかないのよ。彼女と約束したから。
⋯⋯私も決して褒められた生き方をしてきたわけじゃないけど、これからは自分を正しながら、生涯掛けて司のねじ曲がった根性を責任もって叩き直します、ってね。
いい、司。過去は取り消せないけど、この先は、どんなことがあっても同じ過ちは繰り返さないで! 絶対だからね!」
「約束する! つくしを傷つける真似だけは絶対にしねぇ!」
牧野の言葉は、女を軽んじて扱ってきた司への咎めであっただろうが、今後においては杞憂だ。
これから先、もし過ちを犯すとすれば、それは即ち浮気になる。そんな馬鹿げたことするはずがない。司が牧野以外の女に目を向けるなんて有り得ない。前提からして論外だ。
言葉通り司は、牧野を泣かす真似などしないだろうし、口にした約束を違えやしないだろう。
牧野を幸せにする。それが司の最大の幸せでもあるんだろうから⋯⋯。
何はともあれ、これにて一件落着か。
と、思ったところに水を差す奴が現れるのは、もうお約束なのだろうか。
無邪気な顔で「そうだよね」と割り込んできた類に、どっと疲れそうな予感がして、俺は重い溜息を吐き出した。
「また司が女の恨みでも買って刺されでもしたら、シャレになんないもんね。おまけに記憶まで失くされたりでもしたらさ、堪んないよね。ね、牧野」
何でほじくり返すんだ!
ここは、二人を収束させる場面だろうがよ!
おまえの言葉こそシャレになんねぇんだよ!
「ちょっと、花沢類。不吉なこと言わないでよ」
全くだ。そんなもん、人生に於いて何度もあって堪るか。
それでなくても司は、二回も刺されているんだ。マジでシャレになんねぇって。
しかし、不吉なことを言うなと返答したはずの牧野が、首を傾げて空を見つめ、何やら考えるような仕草をみせた。
「でももし、同じようなことがあったとして⋯⋯」
呟きだした牧野は何を言うつもりなのだろうか。
「また、記憶を失くしたりして最低男に成り下がるんだとしたら⋯⋯」
何の想像を膨らませてるんだ! と心で言いつつ、
「だとしたら?」
俺の口は心とは別の動きをみせ、合いの手を入れて先を促す。
「その時は、」と繋げた牧野が、射るような視線で司を捉えた。
「私が止めを刺す。静かに眠らせてあげるわ、司。永遠にね」
お見事! 是非、そうしちゃってくれ!
どうせ司は、牧野を悲しませることなんてしない。だからこそ安心して送れるエールだ。
牧野だって冗談で言ってるだけだろう。
一瞬だけ牧野の目が冷え冷えと氷のように光りマジな様に見えたが、多分それは気のせいだ。
現に今は、目を三角にして司に噛みついている。冷え冷えとした目ではなく、怒りの炎をメラメラとその瞳に揺らめかせて⋯⋯。
「だいたいね! 何で私が司の尻拭いなんかしなくちゃなんないのよ!」
「悪かった! 本当に悪かった」
「ふざけんじゃないわよっ!」
立ち上がった牧野は、盛大な雷を司に落とした。
今日の溜まりに溜まった牧野の鬱憤は、とうとう爆発したらしい。
「あらら。つくし、ヒートアップしちゃったね」
滋の言葉に即座に返す。
「ほっとけほっとけ。やらせとけばいいさ」
牧野が今宵一番の喧しさで司を責め立てているが、逆に俺はホッとしていた。
笑って怒るよりも、冷ややかに責めるよりも、この状態の方がよっぽど良い。
計算ずくの策を練っていた牧野だったけど、何もかもが面白くない話ばかりで、決して無心でいられたわけじゃなかったはずだ。
我慢は良くない。こうして怒りを溜め込まず、思いの丈を吐き出す方が健全だ。実に健全と言える。
今日初めて肩の力を抜くことが出来た俺は、テーブルに置かれていた年代物のワインを遠慮なく味わった。
周りの奴らも俺に続き、バカップルを放置してグラスを傾けだす。
「しかし、これじゃ先が思いやられんな。司の奴、一生鬼嫁に頭上がんねぇんじゃね?」
飲みながら嘆いたのは総二郎で、それに微笑んでみせたのは類だ。
「いいじゃん、鬼嫁。牧野、怒った顔も可愛いし」
おまえは、牧野以外の女に興味を持て。
それが類のためであるし、延いては皆の平和へと繋がる。
「それにしても、あの二人。内容が低レベルすぎません? あれを大の大人が真剣に言い合ってるって⋯⋯」
残念そうな眼差しを向ける桜子に引っ張られるように、俺たちはバカップルにチラリと視線を遣りながら、二人の攻防戦に耳を傾けた。
「なーにが、胸が大きいのは好きじゃない、よ! 記憶のない司が相手してきた女の人たち、9割がたがDカップ以上じゃない! 残りの1割はCカップだったわよっ!」
「なっ、なん、何でおまえがそんなことまで⋯⋯。ま、まさか、つくし、それも調べたんじゃ⋯⋯」
「そんなことまで調べるはずないでしょうがっ! ご丁寧にも譲り受けた資料に、スリーサイズとアンダーバストまで記されてあったの! トップとアンダーの差の平均は18.3㎝! 大きいのは好きじゃないとか、そんなのはいなかったとか言ってたくせに、ホント最低! この巨乳好き! 大嘘つき男っ!」
「だ、だ、だからって直ぐに平均値を出すなっ! そ、それにな、大きさなんて本当にどうだっていいんだよ。おまえのが一番いい! 毎日見ても全く飽きねぇし、触り心地も大きさも感度も抜群だ! ずっと裸を見ていてぇくらいだ! つーか、家では裸でいてくれ! 今も昔も、俺の好物はつくしだけだ! つくし以上に綺麗なものなんて見たことねぇよ!」
「今も昔も? ちょっと、何よそれ! まさか昔と同じだとでも思ってたわけ? バカにしないでよね! 昔よりサイズは上がってんのよ!」
そうか。サイズは上がったのか。Bダッシュくらいにはなったのか? って、突っ込む気にもならん。
怒りを内に秘めるべきじゃないとは思ったが、まさか胸の話ばっかになるとは⋯⋯。
過去女の胸のサイズを知っていたからこそ、牧野はコンプレックスを拗らせたてたわけか、とやけに胸に拘る事情は飲み込めはしたが、流石にこれはアホすぎて聞くに堪えない。
しかし、どんなに泣けてくるほど幼稚な内容ではあっても、過去女のスリーサイズまで握られていたとは露知らず、そんな女はいなかったと嘘を言い張ってきた司としては、どこまでも必死になって嗜めるしかないようだ。
「ち、違げぇよ! そういうことを言ってんじゃねぇって! とにかく落ち着けって、な? 賢いおまえがそんなくだらねぇことに頭使うのはもったいねぇだろ? 余計な心配や計算してねぇで、そのパワーは仕事に生かせ! な?」
「落ち着けですって? くだらない? 余計? 冗談じゃないわよっ! 誰も好き好んでこんなことしてるわけじゃないのよっ!
⋯⋯でも、確かにそうよね。こんなことに頭使うために今まで努力してきたわけじゃないもの。司の言うとおりかもしれない。
よし、決めた! 私、結婚しても自分の能力を生かす! だとしたら、それは秘書じゃないわよね。ねぇ、美作さん、結婚しても美作商事に残っても良い? 出来れば、前の仕事に戻りたいんだけど」
おお? 美作に残ってくれるのか?
素直な俺は、顔がニヤけるのを抑えられなかった。
優秀な牧野が残ってくれる。美作にとっては願ってもない話だ。
「勿論だ。早速、明日から前の仕事に戻って良いぞ!」
本心を告げた途端、烈火の如く司が怒りだす。
「あきら、てめぇっ、ふざけたこと言ってんじゃねぇっ! こいつは道明寺に入るんだ! 邪魔してみろ、次のプロジェクトからは美作外すからなっ!」
クソ、脅しかよ。
だが、この司の発言が燃料投下となって更にキレた牧野。
防戦一方となった司は、
「おまえら何で家に居るんだ! 見てんじゃねぇーっ! とっとと帰れーっ!」
牧野にやり込められている憂さを、俺たちに怒鳴って晴らそうとする。
しかし、迫力は皆無だ。どんなに威嚇しようとも、その動きが残念すぎた。
今、俺たちが目にしているもの。それは、仁王立ちする女の足元で、でかい図体を縮こめ、床に座りこむ司の姿。
そんな格好でがなりたてられても、滑稽がすぎて恐れようがない。
やがて────、
「悪かった、つくし! この通りだ! 頼むから許してくれ!」
傍若無人と呼ばれる男が勢いよくひれ伏した。
それは見事なまでの、The 土下座。
俺たちは、跪かせるのが常である男の、貴重極まりないシーンの目撃者となった。
そして、こんなまたとない場面を取り逃さない奴が一人。
「今後の取引に使えそう」
謝るのに必死な司は知らない。
無邪気な笑顔の悪魔が、その姿をスマホのカメラに収めていたことを⋯⋯。
加えて、その写真が俺たちにも回り、全員のスマホの待ち受けになっていることなど、きっと司は永遠に知らない。

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