手を伸ばせば⋯⋯ The 2nd 5.
「もう喉カラカラ!」
たった今。女同士による苛烈な戦いに幕を閉じたばかりの牧野は、その余韻すら見せず、テーブルに並んだカクテルの一つを手に取り、喉を潤している。
その横顔は、品が漂い美しく、愛憎が生み出した修羅場を演じた女だとは、目撃者でなければ誰も信じまい。
まるで何事もなかったような牧野の態度。
端から見ても分かるほど恐怖に凍りついている司は、言葉も見つからないのか、牧野を目で追うのみ。
気持ちは、よーく分かる。我が身のことじゃない俺ですら怖かったんだ。今もまだ心臓がバクバクと煩いくらいだ。
遊び相手だった女を婚約者自らが成敗するという厄など、はっきり言ってホラーでしかない。慌てふためき狼狽えるのが普通だ。叶うものなら、今すぐにでも気絶して現実逃避したいとこだろう。
だが、ここには普通じゃない男がいた。その名を類と言う。
「ぷっ、くくく! 牧野、最高!」
身体を折り曲げ、腹を抱えて笑う類を見る。
⋯⋯おまえの心臓は、鋼か。
俺たちは今しがた、牧野が持つ恐ろしさの一面を見せられたばかりだ。
あれを見て『最高』だとのたまい喜ぶおまえは、もしかしてマゾなのか!?
疑問を並べる俺のすぐ傍では、類の無神経が伝播したのか、滋と桜子までが手を叩いてはしゃぎだし、牧野を「カッコいい!」と褒めそやす。
おまえら、少しは司も気にかけてやれ。
身から出た錆とはいえ、最低最悪の状況に突如と置かれ、身の毛もよだつ経験をしたばかりなんだぞ。
そんな司を気にも留めない筆頭が牧野なわけで、無神経三人組を相手にコロコロと笑っている。
どうもそれが、俺には解せない。
敵が去った今。怒りを司にぶつけても良いはずだ。寧ろ、その方が自然にも思える。
なのに陽気に笑い怒らない牧野の様は、どうしたって不自然だ。
俺は、なけなしの勇気を掻き集められるだけ掻き集め、思い切って口を開いた。
「ま、ま、牧野」
駄目だ。牧野の恐ろしさを目の当たりにしたばかりで、怯んで声が震えてしまう。こんな時、鋼の心臓を持つ類が心底羨ましくなる。
「なに、美作さん。もしかして風邪ひいた? なんか震えてるみたいだけど」
「い、いや、風邪じゃないから心配要らない。そ、それよりだな⋯⋯、あの⋯⋯、そのな?⋯⋯、怒ってないのか? ついさっき、おまえにとっては凄ーく嫌なことがあったように思うんだが」
よし! 訊いてやった、訊いてやったぞ!
「うん。それはね、狙われてるからよ」
勇気を振り絞った質問に、不可解な答えが返ってきた。
「狙われてる?」
「そう。全く、どんな警備になってるんだが⋯⋯。ほら、あそこ見て。あの柱に一人。向こうのテーブルにも一人。あの人達、週刊誌の記者よ。20分前から狙われてる。だから、泣いて怒鳴り散らすわけにはいかないでしょ? スクープネタ提供するわけにはいかないじゃない。道明寺HDにとっても、美作商事にとっても」
そう説明する牧野はやはり笑顔のままで、しかし、不自然に思えたその真意は理解した。
20分前といえば、あの女と牧野が鉢合わせしたタイミング辺りか。
だから今も怒るわけにはいかない牧野は、女にも笑顔で応戦したってわけか。なるほどな⋯⋯⋯⋯って、やっぱ普通に怖ぇわ!
それにしても、
「よくあいつらが記者だって分かったな」
「前にも司と撮られたことあるでしょ? あの二人は、その時に私たちの周りをウロウロしてたからね。婚約した今、色々と気をつけないと」
納得し、また、安堵もする。
『婚約した今』と気に掛けた牧野は、あんな修羅場があったにも拘わらず、少なくとも婚約破棄するつもりはないようだ。
ひとまず良かったな、と氷結し固まる司を見れば、鉛のように重くなっていると思われる口が動いた。
「つく、つ、つくつく、つ、つくし」
上には上がいた。やっとの思いで振り絞ったであろう声は、俺以上に震えている。
人のことは言えんが、それにしても情けないまでに震えすぎだろ。
蝉の鳴き真似でもしてんのかって、思わず吹き出しそうになったぞ!
だが、牧野が発した言葉で、吹き出す寸前だった笑みは速攻で引っ込んだ。
「話なら、家に帰ってからゆっくり訊くわ」
司に微笑みかけ、そして、司に近づき耳元近くに顔を寄せた牧野は、
「逃げんじゃないわよ」
どこから出してんのか、恐ろしく低い声で言った。
一瞬、笑みを消し、近距離から鋭い眼差しを司にくれると、これまた一瞬にして笑顔を取り戻した牧野は、NY時代の仕事関係者を会場に見つけたらしく、「ちょっと行ってくるね」と、知り合いの元へと行ってしまった。
「⋯⋯こ、怖ぇ」
牧野がいなくなって呟いたのは、俺と同じ感性を持つ総二郎で、俺は激しく頷いて同意する。
「寧ろ、怒りまくってくれた方が、まだマシだよな」
俺が返せば、今度は総二郎が二度三度と首を縦に振った。
俺たちの会話など届くはずもない司は、牧野の背中を見送ったまま再び氷結して固まり、そんな司を、類がちょんちょんと指で突っついている。
「大丈夫? 司。もしかして牧野にビビってる?」
大丈夫なわけがない。ビビらないはずないだろう。
それでも、永遠のライバルである類に反応し半解凍された司は、
「お、おおお俺が、な、なんなんでビビるんだよ」
再起動して強がってはみせたものの、台詞と声音が一致せず、目は泳ぎまくりだ。
それを見た類が、またもや腹を抱えて笑い出す。
「る、類っ! いつまでも笑ってんじゃねぇ! よ、よし、そうだ! この後、おまえら全員家に招待してやる。あ、あれだ、家で飲み直そうぜ! 総二郎、おまえの女も呼べ! おまえら全員、家に来い! 二次会だ!」
「げっ!」
「げっ!」
上から目線の誘いに、二つ重なる俺と総二郎の引き攣り声。
「おいおい、まだ俺たちをおまえらの喧嘩に巻き込むつもりかよ。ごめんだっつの」
そうだそうだ。総二郎もっと言ってやれ。
俺だって沢山だ。今夜は、ベタ甘トークで胸焼けし、修羅場で肝を冷やし、忘れてるかもしれないが、ぴょんぴょんまでしたんだぞ!
心身ともに疲労困憊だ! 残ってる体力も気力もない!
「うっせぇーっ! 俺が誘ってやってんだ。文句言わず有り難がって来りゃいいんだよ!」
⋯⋯どんだけ俺様なんだ。
牧野の前じゃカチコチだったくせして。
そこへ「ぷっ」と盛大に吹き出した類が、頭を傾けながら司の顔を覗きこんだ。
「司、家に帰るの怖いんだ。怖いなら俺、一緒に行ってあげてもいいよ」
クククク、と言い終えた傍から、また類の笑いは止まらない。
司の強引さにもムカつくが、類のその怖いもの知らずも何とかしてくれ。笑うのを今すぐやめろ!
司を見てみろよ。おまえが怒らせたせいで完全解凍したは良いが、熱しすぎて青筋浮かべてんじゃねぇかよ。
これ以上、無駄に司を煽るな! 怒った司から八つ当たりされるのは、俺だと相場は決まってる。
だから、頼む。そろそろ大人しくしてくれって、マジで!
だが、必死な願いも虚しく止まりそうにない抱腹絶倒。
案の定、再び司が喚き散らした。
「てめぇ、ふざけんじゃねぇーっ! いい加減笑うの止めろっ! おまえらもいいな! 俺んちに来るのは命令だ! 拒否してみろよ。参加しねぇ奴には制裁があると思えっ!」
分かったな! と最後に付け足すと同時、司は俺の背中をバシッと叩いた。
⋯⋯ほらな。やっぱりだ。
何で俺だけ叩かれるんだよ。それも一切の手加減なしに。
周囲には、「行く行く~!」と、司の誘いに喜ぶ騒がしい女二人と、飽きもせずに笑い転げる腹黒王子。
叩かれたせいで咳き込む俺は、こっそり逃げ出そうとする総二郎の服の裾を素早く掴むと、咳で涙目になる俺を気遣いもしない薄情な友人達に、恨めしげな視線を送った。
結局、ダチに制裁を加えることも厭わない、最大権力を持つ司に屈した俺は今、司と牧野の家に来ている。
逃走を図ろうとした総二郎も勿論、道ずれだ。
渋々ながらも諦めた総二郎は、彼女である優紀ちゃんを途中で拾い、道すがら事情を説明して、こうして全員が顔を揃えている。
「さぁー、二次会ってことで、パァーっとやろうよ! ね、つくし!」
皆が腰を下ろしてから程なくして口火を切ったのは滋だが、少しは察しろ。
あんな修羅場があったんだぞ? 盛り上がれるかよ。
なのに、俺の予想とは裏腹に、
「だよねぇ、もうジャンジャン飲んじゃって!」
何故か滋に乗っかる牧野。
てっきり俺は、怒りを露わに司に詰め寄るだろうと思っていただけに、まるで違う牧野の様子に首を捻った。
ここには記者の目はない。取り繕う必要はないはずだ。
司に逃げるなとまで言ったのは牧野なのに、これはどういうことだろうか。
見れば司も、この状況をどう受け止めれば良いのやら分からないようで、戦々恐々と牧野の様子を窺っている。
そんな司に絡みに行くのは、この男しかいない。
「ねぇねぇ、司。やけに大人しくない? 具合でも悪いの? それとも、牧野を傷つけちゃって胸が痛むとか? あー、そっか。牧野が恐いんだっけ」
訊ねる顔は、牧野がよく言うところの『天使の微笑み』ってやつだ。
だがな、本当に天使ならば、司が胸を痛めていると知りつつ、こんな風に傷口に手をぐりぐりと突っ込んで塩を塗りたくったりなんかしない。
俺は常々思っていた。これは天使の微笑みなんかじゃない。悪魔だ。悪魔の微笑だ。
悪魔は牧野に成り代わり、俺様に罰を与えてるつもりなのか。それとも純粋に楽しんでいるだけなのか⋯⋯。
いずれにしても、そろそろ止めろ。反論もせずに口を噤んでいる司に、ツンツンするのはよせ。
喋れないほど、過去の後悔と今の恐怖で打ち震えているに違いないんだ。もう勘弁してやれ。
「まあまあ、折角ですし飲みましょうよ。ね、道明寺さん」
見かねたのか、執り成しに傍に来たのは桜子だ。
こっちも若干、呪いをかけそうなほどには悪魔がかっているが、基本は気遣いの出来る女だ。空気の読みも上手い。
そんな桜子の気遣いを知ってか知らずか、反応しない司に飽きたのかもしれない類は、興味の対象を牧野に変えた。
「ねぇ、牧野。さっきの女のこと、詳しく知ってるみたいだったね。調べたの? あの女だけじゃなく、もしかして他の女のことも知ってるとか?」
おいおいおいおい。直球でそこ突っ込むのかよっ!
訊いてるこっちが冷や汗かくわ!
固まっていたはずの司だって、顔が引き攣り出したじゃねぇか。肩だって、めちゃ大袈裟に跳ねたぞ?
⋯⋯とか心で言いつつ、罪深くも人は好奇心に抗えないものだ。
皆に違わず、ついつい恐怖と隣り合わせの興味が先立ち、牧野がなんて答えるのかと、怖いもの見たさで耳をそばたててしまう。
全員の視線が注ぎ込まれる中、牧野が軽く息を吸い込む。
そして───
「さっきの女性はね、ファイルナンバー11番よ!」
びしっ、と牧野は勢いよく言った。
「⋯⋯??」
「⋯⋯??」
「⋯⋯??」
「⋯⋯??」
「⋯⋯??」
「⋯⋯??」
「⋯⋯??」
訪れた静寂。
キョトンとする者もいれば、首を捻る者、口をあんぐりする者もいる。
前のめりで牧野に耳を傾けていた俺たちは、主旨がつかめず揃いも揃ってアホ面だ。
ファイルナンバー⋯⋯!? 何だそれ。
意味不明な説明でドヤ顔されても理解に苦しむ。
仕事では理路整然と話すお前は何処に消えた。
頼むから牧野、日本語は正しく丁寧に順序よく、相手に伝わるように喋ってくれ!

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