手を伸ばせば⋯⋯ 50
なんて言った⋯⋯?
何を言い出したんだ、牧野は。
唐突に吐かれた突拍子もない台詞に一瞬頭が空白になり、咄嗟に出せる言葉がない。
「私が言ったこと、そんなに可笑しい? 今までだって好きでもない男と寝たし、時間潰しみたいなもんだった。それは、道明寺だからって変わらない。それを確かめたかっただけよ。
でも無理ならいいわ。沢山の美女たちを相手にしてきた道明寺だものね、私が相手じゃ無理かもしれないしね」
「違ぇよ! そんなんじゃねぇ!」
今度は反射で大きな声が出た。
「好きな女目の前にして抱きたくないはずねぇだろうが。⋯⋯けど、それ以上に、俺はもう牧野を傷つけたくねぇ」
牧野を傷つけるのが何よりも怖ぇ。
自分が仕出かした罪の大きさを身に染みて分かってるからこそ、牧野に傷が増えることを何より恐れる。
「何よ、今更。私が傷つく? 私が傷ついたのは17の時だけよ。
⋯⋯道明寺、あなたに教えてあげる」
牧野は言葉を区切り顔を俯かせた。
「あの頃の私が一番傷ついたのは、忘れられたことでも、無理やり抱かれたことでもない。忘れられてからずっと私が恐れてたのは⋯⋯、道明寺に捨てられることだった」
「牧野⋯⋯」
「だから怯えたのよ。無理やり抱かれたことに。あんな風に抱かれてしまったら、後は捨てられるだけじゃない。飽きたおもちゃを捨てるようにね! それが何よりも怖くて絶望したのよ!
でもね、もうそんな思いは消えてなくなった。今の私は、道明寺を憎んでる私でしかない!」
きつく睨み上げてくるのに、その顔は苦しそうに歪み泣きそうにも見えて、当時の心のままを告げられた俺もまた、胸の奥から迫り上がるものが喉を圧迫する。
それを逃すように、肩で大きく息をした。
「あの時、俺はおまえを自分だけのものにしたかった。あの日、おまえが類に抱きしめられてるのを見て、俺は嫉妬したんだ。おまえに別れを切り出されて、やっぱ類のとこに行くのかって。他の男に取られるくらいなら俺のものにしてやるって、勝手な感情を抑制できなかった。
だからって許されることじゃねぇのは分かってる。俺がどうしようもなく愚かだったんだ。ちゃんと自分の気持ちをぶつけもしねぇで暴挙に出た俺が悪い」
「そんなの嘘よ! あなたは私を性の捌け口にしただけよ!」
違う! そんなわけあるはずねぇだろ!
心で叫ぶが、そう思わせたのは他でもない俺だ。
唇を戦慄かせる牧野に近づき華奢な体を腕に閉じ込める。
「おまえをそんな風に見たことなんて一度もねぇよ。昔からおまえだけは俺にとって特別なんだ。あの時だって、今だって。記憶が戻った今、もっとおまえを愛してる。
そんな自分の命より大事な女に酷ぇことして、辛い誤解をわざと与えた俺が全部悪い。それでも俺は、おまえを諦められねぇ。牧野、俺にはおまえだけだ」
「信じない。あんたの言うことなんて信じない!」
拒絶する大きな声が震えている。
「嘘じゃねぇ。本当だ」
「じゃあ、なんでよ。⋯⋯何で忘れたのよ! 島でだって、もう離れないって約束したじゃない。なのに⋯⋯、なのに私だけ忘れて⋯⋯。
あんたの言葉なんてもう信じない。私にはもう道明寺は必要ない!」
必要ないと言い放ちながら、心で泣く声なき悲鳴を訊いているようだった。
本音を隠すために必死に藻掻いてるように見えてならねぇ。
そう思うのは俺の思い上がりかもしれない。それでも、心を武装していた牧野が、愛情と憎しみの相反する想いに揺れていると感じずにはいられない俺は、即座に弱気は捨てた。
迷わず牧野の気持ちに攻め入る行動に出る。
信じないというなら、もう一度信じさせるまで。牧野の全部を取り戻してみせる。
俺は牧野を抱え上げると寝室に向かった。
ベッドに静かに下ろした牧野を横たえ、その上から見下ろす。
「愛してる、牧野。どうしようもなく惚れてるからおまえを抱きてぇ。だが、嫌なら絶対に無理はするな。逃げるなら今のうちだ」
「⋯⋯逃げるわけないじゃない」
「本当にいいんだな?」
「何度も言わせないで」
────俺は、ネクタイの結び目に指を掛けた。
✾
触れる傍から「愛してる」と囁く道明寺は、何度もキスを落としてくる。
大きな手は力だって強いはずなのに、まるで壊れ物でも扱うように私に優しく触れ、初めてでもないのにその手は僅かに震えていた。
嫌でも遠い日の記憶が呼び覚まされる。
もう忘れていたと思っていた、初めて結ばれた日の記憶が⋯⋯。
あの日と同じように、触れあう肌の温もりと共に伝わるのは、道明寺からの想い。
肌から染み込むように、大切にされている、そう思ってしまう。私を傷つけた後悔までもを感じ取ってしまう。
時折、薄い涙の膜を張った切なげな瞳で「愛してる」と囁く男は憎むべき相手のはずなのに、守られるように包まれる腕の中に安らぎ、心地良さを覚えてしまうもう一人の自分。
あの時のように身体を貫く痛みはもうないけれど、胸の奥がずきんと痛むのは⋯⋯何故?
大きな手が、広い胸の温もりが、愛を語る声が、全部で私の心を掻き乱し、この男を否定したいのに、それは出来ないと抗いたくなる。
何層にも覆った憎しみが、一枚、また一枚と剥がれ落ち、心を裸にされた私に残るのは────連綿と続いていた、道明寺のへの想い。
私はずっと道明寺を求めて⋯⋯いた?
大きな手も、広い胸の温もりも、愛を語る声も、道明寺の全部を、きっと私は、もうずっと前から──────。
そうか。求めていたのか、私は。いつだって道明寺だけを⋯⋯。
道明寺と繋がった今、自分の心と身体が漸く一つになる感覚に包まれる。同時に、道明寺を憎んでいなかった自分の愚かさを思い知る。
自分の心から目を逸らし己を騙し続けて、私は12年もの間、一体何をしてきたのだろう。
ふと、『一つのことに囚われるあまり、大切なものを見失ってはいけません』以前、楓社長から言われた言葉を思い出した。
憎しみにばかり囚われていた。そうやって無意識に道明寺を失う恐怖を追いやっていたのかもしれない私は、見失っていたんだ。自分自身を⋯⋯。
愛する人から逸らした目から、一筋の涙が流れ落ちる。
────そして。
高みに登らされ頭が真っ白になる寸前。初めて結ばれた10代の時の私たちが、額を突き合わせて幸せそうに笑う姿が、一瞬、脳裡に浮かんだ気がした。
あれから私はシャワーを借りると直ぐ、道明寺の部屋を後にした。
遅いから泊まっていけと言う道明寺に、
『⋯⋯一人で考えたい』
すっかり力の入らなくなった声音で伝えれば、車を用意してくれた道明寺は大人しく引き下がった。
完全に威勢を失くした私に、無理は通せなかったのかも知れない。
玄関を出る間際、小さな箱を手渡してきた道明寺は、『おめでとう』と言い、その言葉で日付が変わった今日が、自分の誕生日であると気づく。
『新たな時を刻めるよう願って、腕時計だ。おまえの誕生日を一番に祝えて良かった』
道明寺の眼差しは、どこまでも優しい。その優しさを疑う術はもうない。
だからこそ考えたい。自分の気持ちに気づいた今、どうすれば良いのかを。
自宅に戻ってから一晩中考えを巡らせ、やがて気持ちを固める。
自分の心を封印して過ごしてきた、この12年。
だけど、自分を偽っていたとも呼べるこの時間も、確かに私が歩んで来た道だ。
自分で選び、突き進み、そして得てきたものがある。
だからこそ、このプロジェクトだけは全うしたい。12年の道のりも無駄にしないためにも。
今は余計なことは考えず、その後の身の振り方は全てが終わってから。時間をかけて自分に向き合えば良い。
私は、道明寺への想いを封印するのではなく大事に胸に据え置いて、しかし、目先の仕事に没頭すべくビジネスモードに切り替えた。
この仕事が終わるまで。全てはその後で⋯⋯。
✾
牧野を抱いた翌日。
会社のエレベーターに向かう途中、向こうから歩いてくる牧野を見つける。
俺とすれ違う手前で立ち止まり、
「おはようございます」
一礼する牧野からは、昨夜帰り際に見せた、今にも倒れそうな弱々しさは感じられない。
足を止めてじっくり牧野を観察してみても、やはりいつもと変わらなかった。
「何か? 何もないようでしたら急ぎますので失礼します」
再会してからずっと見てきた無表情で、近寄りがたい隙のなさも同じだ。
まるで、昨夜の出来事はなかったかのように。
でも、俺には分かる。
なかったことにしたわけじゃねぇ。取り繕うことも出来ずにあんなに弱り切った姿が一晩で変わるんだとしたら、それは考えて導き出した結果だ。
根が真面目な女だ。一人で考えたいと言った言葉通りに頭を悩ませ、そして改めて決めたに違いねぇ。固い決意をもって、この仕事だけは遣りきると。
「牧野」
遠ざかろうとする背中を呼ぶ。
その他のものは後回しにし、今は仕事を第一優先とする牧野の構えは分かった。
だが、これだけは言っておく。
再び立ち止まった牧野との距離を詰め、断言する。
「おまえがプロジェクトを遣りきったら、俺は、おまえの全てを全力で取り戻しにかかる」
それだけ告げると、互いに別々の方向へと歩き出した。
その後の俺たちは仕事以外で会うこともなく、年末年始も吹っ飛ばす勢いで仕事に全てを注いだ。
実際、最後まで牧野の力は必要だったし、たった一人で築き上げてきた実力を、思いのままに発揮させてもやりてぇ。
そして全てが終わったとき。今度こそ俺は全力で動く。そう決意を胸に懐いて。

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