手を伸ばせば⋯⋯ 49
「どこに向かってるの?」
「着けば分かるよ。もう少しで着くから」
牧野はそれ以上は何も言わなかった。
それから暫くして、目的地に車が止まる。
俺は初めから、牧野と話すならこの場所しかないと決めていた。
「牧野、着いたよ。降りて」
「ここは⋯⋯」
窓から望む景色でここがどこか分かったようだ。
待っても降りようとしない牧野の細い手首を掴んで車から降ろし、降りてからも足に力を入れているのか、抵抗を感じる牧野を引っ張って歩く。
きっちり同じ場所まで来て足を止めると、牧野は顔を背けた。
「牧野、ちゃんと見て? 牧野が恐れている事の始まりは全てここにある」
牧野を連れてきた場所は、約12年前に司が刺された桟橋前。
「どうして顔を背ける? 病気じゃないって言うんなら、冷静でいられるはずだ。
ここだよね、牧野。司が刺されたのは。あれからもうすぐ12年になる」
牧野は決して見ようとはせず、唇を噛んでいた。
「牧野、どうして普通にしていられない?」
「⋯⋯⋯⋯」
「答えられないなら俺が教えてあげるよ。
ここは、司が刺された場所だから。生死を彷徨うほどの怪我を負って、恋人を失う恐怖を味わった場所だからだ。それをきっかけに全てを変えてしまった恐怖が、今も牧野の心を支配している。まだ、牧野の傷は癒えていない」
「ちが⋯⋯ち、違う」
否定する声は震えて説得力を持たない。
「あの日、司はここで刺されアスファルトを血で染めたはずだ。そして意識のなくなった司は、牧野の前で倒れた」
「止めて⋯⋯」
「これが牧野が受けた最初の傷。あの時、病院で牧野は、危険な状態にあった司が助かるようにって、ひたすら祈ってたよね。
その祈りが通じてか助かったのに、司は牧野だけを忘れた。それが二つ目の傷だ。
そして三つ目。牧野が最後に受けた傷。それが⋯⋯、司にレイプされたこと」
逸らしていた目を最大に見開き俺を見る。
「な、なに言って⋯⋯そんなことない⋯⋯馬鹿なこと言わないで」
「やっぱり庇うんだね、司を。そうやって庇うのに、一方で牧野は司を恨んでる。でも牧野は、そうするしかなかったんじゃないかって、俺は思ってる。第三の傷を受けても尚、司へと向かってしまう自分の気持ちに理由を持たせるには、憎むしかなかったんじゃないかって。
全ての傷の始まりは、ここから始まった。あの事件さえなければ、二人は幸せになれたかも知れないのに、この場所が牧野を想っていた司の記憶を奪い、何もかも滅茶苦茶にした。そんな二人の運命を変えてしまったあの事件が、司を失う恐怖が、未だに牧野を支配し苦しめている⋯⋯違う?」
また目を逸らしてしまった牧野の肩を掴み、強引にアスファルトに目を向けさせる。
「牧野、目を逸らすな。12年前、司はここでどうなった? その時の状況と牧野が見て苦しんでいる夢は同じじゃないのか?」
あんなに見るのを拒絶していたのに、無理やりアスファルトに向けられた目が突如と変わる。
瞬きもせずに一転を見つめ、それは遠い何かを見ているようで、次第に顔が歪みだした牧野は、
「いや⋯⋯⋯⋯いやーっ!」
泣き叫び、崩れるようにその場に膝をついた。
「牧野! 今の自分の状況が分かるか? いつもの自分じゃないって分かるだろ? これが病気である証拠だ。
牧野、もうこんな風に苦しむのは止めよう。おまえを苦しめているものは、全て終わった過去だ。現に司は生きてるし、牧野のことも思い出した。何より司は、今も牧野を変わらず愛してる。いや、昔以上だよ。司は、おまえを受け止められるだけの男になってるよ」
それから暫く牧野は、しゃがみこんだまま止めどなく溢れる涙を拭いもせず、声を上げて泣き続けた。
「花沢類⋯⋯、私の病気は治るの?」
帰りの車中、か細い声が訊いてくる。
「大丈夫だよ。きっと治る」
「そう⋯⋯。治療は受けるわ。だけどお願い。この仕事だけはやり遂げたいの。残りあと一ヶ月もない。それまで治療は待って?
それに、時間が欲しい。まだ⋯⋯、受け止められない自分もいる。
だからお願い。それまで待って欲しいの」
「仕事をやり終えたら、ちゃんと治療を受けるって約束してくれる?」
瞼が腫れて縁が赤くなった瞳を見つめれば、牧野もしっかりと俺を見返してくる。
「約束は守る」
その言葉に嘘はないと確信した俺は、
「分かった。治療は今の仕事が終わってからだ」
そう約束をし、牧野を自宅まで送り届けた。
✾
自宅に着くなりお酒を飲む。飲まずにはいられなかった。
夢のことまで花沢類は知っていた。おそらく、道明寺から訊いたんだろうけど。
まさかその長いこと悩まされてきた夢が病気のせいだったなんて⋯⋯。
確かに私は、あの場所で我を忘れた。いつも見る夢も、道明寺が刺される夢だ。
でも⋯⋯。
でも違う。花沢類が指摘した理由とは絶対に違う。
まるであれでは、私が道明寺を未だに想い続けているような言いぶりだ。
それだけは違う。そんな理由でこんな風になったわけじゃないはず。
どうしても花沢類の言葉だけは否定したくて、私はバッグを掴み部屋を飛び出した。
✾
夜になって類から連絡が入った。
類は、牧野に現実を受け入れさせるため、俺が刺された現場に連れて行ったと言う。
そこで何があったのか改めて思い出させ、それと同じ夢を見ているんじゃないかと、そう突きつけたらしい。
牧野は冷静さを失いその場で泣き崩れ、取り乱した自分を理解し、そして病気であることを受け入れたのだと⋯⋯。
また怖い思いをさせてしまったことに胸は苦しく、どんな気持ちで牧野は受け入れたのかと思うと、苦しい胸は張り裂けそうになる。
プロジェクトを最後までやりたいと希望する牧野に、それ以上は無理強いできないと判断した類は、必ずプロジェクトから離れたら治療を受けるよう約束し、自宅まで届けたとのことだった。
あいつがプロジェクトから離れるまで一ヶ月もない。
その間も苦しむんじゃねぇかと心配は尽きないが、まずは自分の状況の受け入れることはクリア。
ただ、これを朗報だと受け止めるには、あまりにも牧野の傷が深く気持ちは沈む。
仕事にも身が入らず、俺は早めに切り上げ帰路についた。
車に揺られながらも考えるのは牧野のことばかりで。だから、幻覚を見たのかと思った。
マンションの車寄せに停車したその場所に、頼りなく佇む姿。
目に入ったそれが本物の牧野だと認識するなり、俺は慌てて車を降り牧野へと駆け寄った。
「牧野、どうした?」
「道明寺を待ってた」
化粧は剥がれ落ち、重たそうに腫れた瞼。
どけだけ泣いたんだ。
直視するのも憚れる痛々しさに、ずきんと胸に痛みが走る。
「気分は大丈夫か?」
「最低に決まってるじゃない。みんなに病気だって言われて、行きたくもない所に連れて行かれて⋯⋯。どうせ花沢類から訊いて知ってるんでしょ?
⋯⋯私、やっぱり病気なんだって。笑っちゃうわよね」
精彩を欠いた声で自分を嘲る牧野の足下は、安定悪くふらつき危うい。
「牧野、もしかして酒飲んでんのか?」
「悪い?」
「⋯⋯⋯⋯取り敢えず、部屋で話すぞ」
嫌がってる様子はねぇか探りながら、何も言いそうにない牧野の腰を支えてマンションへと誘う。
自分の部屋に入りリビングへと通すと、牧野は俺の手を払いのけ向き合った。
「ねぇ、道明寺。NYでは、散々女性と関係持ってきたんでしょ? どんな時に女性を抱いてきたの?」
「な、何だよ、急に」
それはあまりにも唐突で、予測もしなかった質問だった。
答えにくい内容にたじろぎ、見上げてくる牧野から視線が逃げる。
そんな俺の様子に、牧野が「ふっ」と嘲笑う。
「あなたの女性関係が派手なことなんて有名な話じゃない。今更、口籠もるなんて。
私はね⋯⋯、今日みたいに苛ついた時、愛情の欠片もない男と寝たわ」
今度は訊きたくもねぇ受け入れがたい話に突入し、一体何を言いたいのか分からねぇまま、堪えるように歯を噛み締めた。
「今日ね、花沢類に言われたの。私は道明寺を失う恐怖に支配されてるって。それが病気の原因だとでも思ってるみたい。それじゃまるで、私が道明寺に未練があるみたいじゃない。おかしな話だと思わない?。
愛情もない男と寝れちゃう女が、誰でも構わず女を抱く男を、今も思い続けてるはずないじゃない。ねぇ、道明寺もそう思うでしょう?」
「牧野、飲み過ぎなんじゃねぇのか」
普段よりスローテンポな口調と覚束ない足下。明らかに酔ってる。
「酔ってても記憶も意識もはっきりしてるわよ。
私はね、確かにあの場所で取り乱した。ずっと悩まされてる夢も、道明寺が刺される夢。
でもね、私の病気に道明寺は関係ない!
まだ子供だった私は、目の前で人が刺されるのを見たのよ? その衝撃がトラウマになっただけでしょ。⋯⋯道明寺だからじゃない!」
感情をしきりに抑えようとしてるようだが、完全には上手くいかずムキになって俺を全否定にかかる。
「おまえは何かの意図があってここに来たんだろ? 思ってることをはっきり言えばいい」
「そうね。だったらはっきり言うわ。私はあなたに気持ちなんてない。あるわけがない。それを確かめに来たのよ」
「確かめる?」
「そう」
そして次の瞬間。
俺はあまりの驚きと動揺で声を失い、硬直した。
「道明寺⋯⋯⋯⋯、私を抱いてくれる?」

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