手を伸ばせば⋯⋯ 48
道明寺の社員である女に司が刺された件は、世間に知られれば醜聞にしかならず、事は秘密裏に処理された。
そこには、牧野への配慮も多分に含まれている。
悪夢と同じ状況から、なるべく牧野を遠ざけたい思いがあったために。
司法に委ねれば、刺された司だけでなく、本来狙われていた牧野も状況を確認され、証言も必要になってくる。
病を患っている牧野には、精神的負担が大きすぎる。そう判断したからだ。
その牧野は一日入院したが、俺たちが迎えに行く前に勝手に退院をし、病院からは直ぐに司の元へ連絡が入った。
医師の話によれば、落ち着きを取り戻した牧野は、診察で偏頭痛は認めても悪夢については終ぞ口を割らなかったと言う。
パニックを起こしたことから、ストレス性の障害が潜んでいる可能性もあると医師が示唆しても、自分はそんな病気とは違うと突っぱね、治療は必要ないと頑として受け付けなかったそうだ。
悪夢の苦しみよりも、自分が病気であることを受け入れたくない気持ちの方が強く働いている、それが医師の見解だった。
それを受けて俺たちは、治療まで持っていくために、牧野を納得させるにはどうすべきか。知恵を突き合わせるため集合をかけ、その日の夜、牧野以外の全員が俺の家に集まった。
全員が揃ったところで、まずは昨夜一緒にいなかった総二郎や桜子、それに優紀ちゃんに事の顛末を話す。
「⋯⋯嘘だろ。牧野が⋯⋯」
それきり言葉をなくした総二郎は天を仰ぎ、桜子と優紀ちゃんは涙を零す。
牧野に気持ちに寄り添えば寄り添うほど、胸は軋み心が苦しくなってるに違いない。
昨夜の俺もそうだった。
だが一夜明け、牧野が病気を認めないと知り、退院したその日に遅れながらも当たり前のように出勤してきた牧野を見て、気持ちを切り替えた。
嘆いている場合じゃない。
昨夜の件は、気が動転したとして俺に謝罪し、後は何事もないように振る舞うポーカーフェイスの下に隠れる苦しみから、一日も早く牧野を解放してやらなければ。
然もなくば、あいつの身体の方が先に音を上げる。
司も類も同じ思いだろう。言葉にしなくても分かる。固い決意を抱いていると。
ただ、手段が分からない。どうやれば牧野を説得出来るのか。最良の方法は何なのか。
俺は切り出した。
「まずは、どうやって牧野に病気だと認めさせるかだな」
「俺が話す。あいつが見てる夢は、多分、医者が言ったように俺が刺された時の夢だ。尚の事、俺が絶対に牧野を救う」
苦悶に満ちた顔ですかさず答えた司は、それから牧野が夢で魘された時の状況を話し出した。
牧野が体調を崩し司の家で預かった時のことだ。司は、小さな悲鳴に気づきその場面に出くわしたらしい。
徐々に大きくなっていった悲鳴は昨夜と同じ状態で、何度か声を掛けて漸く目を開けた牧野は、司を目に入れるなり『良かった⋯⋯、道明寺、良かった』司の両頬に手を添え、安堵したように微笑んだのだと言う。
────これこそが牧野の深層心理。
恨む気持ちがある一方で、別の本心も確かに存在する。
決して表には出て来なかったそれは、心の奥深くに秘められた、司への想い。
その想いがあるからこそ、司を失う恐怖に脅かされ、今も牧野は怯えている。
「あの時は分からなかった。どんな夢かまでは⋯⋯。牧野は、夢の内容は忘れた、寝惚けてたって一点張りで。けど、翌日もあいつは魘されて。もしかして俺が関係してるんじゃねぇかって踏み込んだが、自惚れるなって一蹴された」
司の話を聞き終え、誰しもが声に詰まる中、一人、「司じゃ無理だよ」類がいつもの調子で言う。
皆の視線が類に集まる。司に至ってはそこに鋭さを乗せて。
「何が無理なんだ!」
類は泰然と司を見返した。
「司が話したところで、牧野は絶対に認めないよ」
「絶対に認めさせる! 俺が説得して治療を受けさせる!」
「無理だって。だって牧野にとって、一番知られたくない相手でしょ、司は。司が刺される夢見て怯えてるなんてさ、牧野が司に言うはずないじゃない。
牧野はさ、自分のことも受け止めきれてないんだと思う。その夢だって、ただの夢で処理したいんでしょ。司が刺される夢だから怖がってるんじゃないって、司と夢は全く関係ない別物なんだって、そう思いたいんだよ。無自覚の下にある自分の気持ちに気づきたくないためにね」
類の言う通りかもしれない。
それに、以前に桜子も言ってたじゃないか。紙一重なんだと。憎むほど愛しているのだと。
その境界線が分からなくなった牧野は、類が言うように、自分の想いを自覚していないのかもしれない。或いは、絶対に認めたくないのか。
そこに病まで被さってるんだ。複雑化した気持ちに踏み込めば、一層頑なになる危険もある。
当事者の司が介入すれば尚更⋯⋯。
だったら、どうすれば良いんだ? と言いたげに類を見れば、類はきっぱりと言った。
「俺が牧野に話す」
だが、疑問が残って直ぐに聞き返した。
「どうやって牧野に言うつもりだ? ただ病気だって告げただけじゃ、牧野が納得するすどうか⋯⋯」
司じゃなければ話に耳を傾けるのかと言えば、そうとは言いきれない。医者の話も突っぱねたくらいだ。
認めないことが牧野にとっては、きっと今の自分を保つ防御。それを認めさせるのは容易じゃないと思えてならなかった。
「荒療治。大丈夫。絶対に牧野に納得させる」
荒療治!?
「とにかく、俺に任せて欲しい」
了解を得ようと、類が司を真っ直ぐに見て言う。
司は眉間に縦皺を刻んだ苦渋の表情で、自分で助けたいという思いと葛藤しているようだった。
しかし、類は本当にこれで良いのだろうか。
多分これは、厳しい役目になる。
「恨まれるかもしれないぞ。類、それでもいいのか?」
何せ牧野は、12年もかけた強固な殻を纏ってると同じだ。それを俺たちは打ち砕こうとしてるんだ。反発してくるだろうし、それ相応の覚悟がいる。
だが、類はまるで気にしてないとばかりに笑った。
「恨む感情だろうが向けられないよりマシだよ。昔は無理だった。話そうともしなければ、見てくれようともしない。何の反応も示さなかったんだ。今度こそ、昔の牧野を取り戻したい。そのつもりで俺は戻ってきた。
でも、最後に本物の笑顔を取り戻せるのは、司⋯⋯、おまえしかいない」
笑みを引っ込め、相手を逃さない芯の通った眼差しが司を捉える。司も強い視線で真っ向から受け止めた。
司にしても類にしても、牧野を救うためならば己の犠牲も厭わない強い想いを目に宿している。
この男たちのためにも、ダチの俺たちのためにも、何より牧野自身の幸せのために、自分を取り戻してくれ。俺はひっそり心で願った。
「類」
沈黙を置いたあと、先に口を開いたのは司だ。
「力を貸してくれ。類⋯⋯、牧野を頼む」
葛藤の末、自分の気持ちを呑み込み、牧野にとって何がベストかを考えて決めたのだろう。司は深く頭を下げた。
それからの俺たちは、いつ牧野に話をするのかを話し合った。
互いの仕事のスケジュールを突き合わせ、年内には方を付けようと日にちを探った俺たちは、司の抜糸も済んでいる二週間後に決行することを決めた。
────そして、二週間後の午後。
『1時間以内に牧野を迎えに行く。あきらたちも覚悟しておいて』
類から電話が入り、俺は急いで司のオフィスへ向かう。
到着した司の執務室には先客の桜子がいて、居ても立ってもいられず来てしまったと言う。
「今日か⋯⋯」
机の上で手を組む司の呟きは、どこか沈んでいた。
気持ちは同じだ。牧野の反発が予想出来るだけに、どうしたって気は重くなる。
それでも、どんなに気が重かろうが悠長に構えてはいられない。
「いつまでも引き延ばすわけにはいかないだろ?」
「分かってる」
司が刺されてパニックを起こしてからも、牧野は一切仕事に手を抜かず、あんなことがあったのが嘘のように忙しい日々を過ごしている。
今日もプロジェクト本部のあるここで、妥協も知らずに働いているはずだ。
この間にも悪夢に見舞われて居るかもしれないと思うと気が気じゃなく、これ以上の先延ばしなんて出来やしない。
司が時計を見る。それを合図に、いよいよ俺たちは覚悟を決めた。
そろそろ類も来る頃だ。その前に牧野を呼び出しておく。
俺たちは、近くに用事のあった桜子が、牧野のその後の調子を心配して訊ねて来た、という設定にして牧野を呼びつけた。
「失礼します」
暫くして、何も疑った様子のない牧野がやって来た。
「先輩! 心配してたんですよ、この前、倒れたって訊いて。もう大丈夫なんですか?」
全く動揺も見せずに演じる桜子は流石だ。完璧な演技力を前にして、牧野も疑った様子はない。
「少し驚いて気を失っただけよ。大したことじゃないの。それより、桜子がここに来るなんて珍しいわね」
「これでも遠慮してたんです。先輩、お忙しそうだし。でも、こうでもしなくちゃ会えないでしょう? だから今日は思いきって押しかけてみました」
桜子が普通を装い会話で繋ぐ間に、もう一人の来客、類が来た。
桜子がいて類まで来たとなると、いくらなんでもおかしい、そう思ったのかもしれない。
牧野が俺に目を向ける。
「今日は何かあるんですか?」
問いに答えたのは、部屋に入ってきたばかりの類だ。
「今日は牧野に理解してもらいたいことがあって来たんだ。医者からも少しは訊いてると思うけど、牧野はPTSDって病気の可能性が高い。それをちゃんと受け入れ、治療を受けて欲しい」
いきなりの直球。類はオブラートに包みもしない。
いきなり突き付けられた牧野は、数秒固まったように類を見つめ、そして、冷ややかに微笑んだ。
「私が病気? そんな心配なら要らない。何を勘違いしてるか分からないけど、私は病気なんかじゃない」
「うん。牧野はそういうと思ったよ。だから、俺に少し付き合ってくれない? 本当に牧野は病気じゃないのか、確かめさせて欲しいんだ」
「今は勤務中なの。仕事を投げ出すわけにはいかないわ」
「いいよね、あきら。牧野を借りても」
類が俺に矛先を振り、牧野の眼差しも一緒に俺へと流れてくる。
俺はまともに顔を見れず、顔を伏せた。
「牧野。類と一緒に行って来てくれ。今日はそのまま直帰でいい」
「副社長、どういうことですか?」
納得のいかない牧野の声に険が混じる。
「上司のあきらが良いって言ってるんだからさ、牧野、俺と付き合ってよ」
「副社長が何と言おうと、仕事はまだ残ってるの。それに支社長から頼まれた書類だって、まだ───」
「それなら心配ねぇ」
類に食い下がる牧野を遮ったのは司だ。
「書類は佐々木に頼んだ。おまえは類と一緒に行ってこい」
「牧野、おまえのためでもある」
司に続き、今度こそ牧野をしっかり見据えて口を添えれば、牧野の表情に翳りが差し、僅かに顔を俯かせた。
「副社長⋯⋯。副社長も私が病気だと?」
「あぁ。ちゃんと治療を受けて欲しいと思ってる」
唇を噛みながら顔を上げた牧野は、司のデスクの前へと歩み、正面から司を捉える。
「支社長⋯⋯いえ、道明寺。道明寺も私が病気だと思ってるの?」
「ああ」
認めた途端に牧野の目は冷たく鋭くなったが、司は牧野に固定したまま逃げない。
「そう。私の仕事を他の人に回して、病気の私は必要ないってことかしら。
そうよね⋯⋯。そうだったわ。仕事でも無駄なことは排除して、私生活でも要らなくなったものは簡単に切り捨てる、あなたの得意とするところだったわね」
「あぁ、そうだな。今のおまえは必要ねぇな」
辛辣に詰る牧野に素早く司が切り返し、牧野が息を呑むのが分かった。
「長い間、一人苦しんできたおまえとは、おまえ自身が決別しろって言ってるんだ。今のおまえにとって一番必要なのは、自分自身を受け入れることだ」
病気なんかじゃない。と小さく呟いた牧野に、再び類が促す。
「牧野、一緒に来て欲しい。みんなの思いは同じだよ。牧野を救いたい」
じっと立ち尽くす牧野。
その牧野に、今まで成り行きを見守っていた桜子が近づき、細い体を抱きしめた。
「先輩、もう良いでしょう? 先輩は良くやりましたよ。十年以上もの間、一人で頑張って来たじゃないですか。もう、自分を解放してあげましょう?」
「桜子まで⋯⋯。私は⋯⋯、私はどこも悪くない」
「先輩、受け入れたくないのは分かります。でも私は、受け入れた上で治療をして欲しい。私たちの決断は間違ってないと思ってます。だから、今ここで諦めるわけにはいかない。先輩は大切な人だから、黙って見過ごすわけにはいかないんです。先輩の苦しみを私たちにも分けて下さい。お願いします、先輩!」
桜子の瞳からは止めどなく涙が流れるが、声に揺るぎはない。
「牧野、嫌だと言っても連れてくよ。担いででもね」
真剣味を帯びた類の眼差しを見て逃げられないと悟ったのか、桜子から離れた牧野は類に向き合った。
「花沢類がここまでお節介だとは知らなかったわ。出来れば一緒になんていたくない。でも、私に拒否権なんてないんでしょ? だったら行くわ、一緒に。私が病気じゃないって証明するためにも」
棘を散りばめた不満を語りながらも了承した牧野は、類と共に背を向けドアへ向かう。
「牧野」
その背中を司が呼び止める。
椅子から立ち上がり近づいた司は、牧野の腰を引き寄せると、俺たちがいるのも構わずに牧野にキスをした。
静かに離れる唇。
攻撃的な目つきで見る牧野の腰を片手に抱く司は、もう一方で牧野の頬を指の腹で優しく撫でる。
「俺が憎いか? 牧野」
「⋯⋯⋯⋯」
「憎まれても仕方ねぇって思ってる。それだけのことを俺はした。どうしても許せねぇなら、牧野。俺を殺せ。おまえが死ねって言うんなら、俺はいつだって命を捨てる。それでも俺は、おまえを愛することを止めない。これから先もずっと、牧野だけを愛してる」
たった一人にだけ向けられる、慈愛に満ちた顔。
心からの想いを声に乗せた司は、
「類、牧野を頼む」
小さな体を反転させ背中を押すと、愛する女を類に託した。

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