手を伸ばせば⋯⋯ 47
悲鳴混じりの叫びを響かせながら、類たちと共に司たちの元へ駆け寄れば、
「牧野! どこも怪我ないか?」
抱きしめている牧野の身を案じる司が、傷はないかと隈無く牧野に目を走らせている。
どうやら牧野に怪我はないようだが、牧野の心配ばかりしている状況じゃない。
牧野を庇った司が切り付けられ、司の大腿部からは少なくはない量の血が流れ出ている。
「司、直ぐに病院だ!」
俺が車の手配をさせていると、顔面蒼白になった牧野が自身のドレスからサテン地のベルトを引き抜き、司が切られた箇所の上部をそれで縛った。止血だ。
それでも止まらない血に、牧野はバックからティッシュを取り出すと、それを傷口に押し当て迷いなく両手で圧迫する。
「血が⋯⋯ち、血が⋯⋯」
両手を真っ赤に染めながら、牧野の肩が小刻み揺れる。
「いや⋯⋯、いやーっ!」
しかし、徐々に体が激しく震え出して、完全にパニックに陥ってしまう。それでも離そうとはしない血に塗れた手。
「牧野っ!」
「牧野、落ち着いて?」
「いやー! 血が⋯⋯、いやーーーーっ!」
俺と類で牧野を呼ぶが、耳に届くどころか牧野の興奮具合は酷くなり、泣き叫ぶ声も一段と跳ね上がる。
完全に我を忘れた普通じゃない様子に言葉を見失い、その隙に司が落ち着いた声音で話しかけた。
「牧野、大丈夫だ」
自分の大腿部にあった牧野の手を引き剥がし、牧野をきつく抱きしめる。
「大丈夫だ。大丈夫だからな?」
司の腕の中でも悲鳴を上げ続ける牧野に、司は言い聞かせるように優しく声を掛け続け、落ち着かせるために背中を撫でている。
「何も心配しなくていい。牧野、俺は大丈夫だから」
やがて牧野の興奮は落ち着きを見せ始め、しかし突然その体から、すとんと力が抜けた。
司の胸にだらりと身体を預け目を瞑る牧野に、
「お、おい、牧野⋯⋯?」
焦る俺は気の利いた台詞一つ出てきやしない。
「医者だ! 牧野を早く医者に診せろ! 気を失ってる」
司の指示で、既に裏口に待機している車に急いで向かった。
司はSPの肩を借りて、牧野は類が抱きかかえて一台の車に乗り込む。俺と滋は別の車で後に続く。
向かった先は道明寺系列の病院で、牧野が酷い頭痛を起こしたときも、ここで診てもらったという。
病院へ着くなり、お偉いさんが司と牧野を別々の処置室に案内しようとしたところで、司が声を荒らげた。
「俺は後でいい! 牧野が先だ!」
「司も早く診てもらった方がいい」類が傍に寄り司を嗜める。
「牧野には、俺たちもついてるし、ちゃんと診てもらうから。司の方は縫わなきゃ駄目だと思うよ。牧野が意識戻したら心配するから、急いだ方がいい」
牧野が心配する、の言葉が効いたのか、牧野に心を残しながらも司は診察室へと入っていった。
一方の牧野は、気を失った状態からは脱しているものの、目は閉じたまま魘されたように何かを呟いていて、直ぐさま処置室に運ばれ点滴に繋がれるようだ。
外で待つよう言われた俺たち。
長椅子に腰を下ろし、ただ二人の回復を祈るしか出来ないでいる俺に、
「あきら、牧野を狙った女、誰?」
類が静かに問いかけてくる。
だがその声は、底冷えするほど鋭く、憤りが孕んでいるのが分かる。
ここに来るまでに調べはついてんだろ? と言わんばかりの類に、全てを話そうと俺は口を開いた。
調べるまでもなかった、面識のある女のことを。
「あの女は道明寺の社員だ」
類と滋が息を呑む。
「その社員がどうして?」
滋の驚きの声に俺の知ってることを伝える。
「あの女も当初は、今回のプロジェクトチームの一人だったんだ。道明寺の中でも将来有望とされていたらしい。だが、牧野には敵わなかった。
牧野がいない時にあの女に仕事を任せたことがあったんだが、牧野のようには上手く出来なくて、結局、最後は司がその仕事を牧野に頼んだ。それがあの女のプライドを偉く傷つけたらしいな」
「何よ、それ! そんなくだらない理由でつくしを狙ったの? ただの逆恨みじゃない!」
興奮する滋に、「それだけじゃない」と真相の続きを語る。
「どうやらあの女は、司と関係があったらしい。司がNYにいる頃に。司は全く覚えてないようだが、司には気づいてもらえない上に、その司の近くには牧野がいる。それも自分よりも仕事が出来て司に可愛がられてるとなれば、プライドが高い女には我慢ならなかったんだろうな。確かにあの女は、その時にも絶対に許さないって捨て台詞吐いてたし」
二人の複雑な心境が垣間見れる。二人から同時に漏れた溜息を最後に、沈黙が流れた。
重い空気の中、流れが遅く感じる時間に身を任せながらじっと待ち、やがて医者の一人が顔を出した。
「お待たせして申し訳ありません。まず、司様の傷ですが、出血は多かったものの思っていたよりも深い傷ではありませんでした。既に縫合の処置に入っておりますので、それが済めば帰宅されて大丈夫です。
それと牧野さんですが、一度意識を取り戻されたのですが、極度の興奮状態にあったために薬で眠ってもらっています。詳しいことにつきましては、司様の縫合が終わり次第、専門医からお話がありますので、今暫くこちらでお待ちください」
それから30分程が経過して、看護師が押す車椅子に乗って司が戻ってきた。
姿を見るなり駆け寄る滋。
「大丈夫、司?」
座っている司の目線に合わせるようにしゃがんで訊く滋の目には、涙が浮かんでいる。
「大丈夫だ。それより牧野は? 牧野は大丈夫なのか?」
牧野のことしか頭にないんだろう。前のめりになって訊く司は、縫ったばかりだというのに車椅子から落ちそうな勢いだ。
そこへ、さっきも説明に来た医師が現れ、牧野について話があるからと俺たちは別室に案内された。
通された部屋には既に別の医師が待ち受け、車椅子の司以外が席についたところで説明を始める。
「まず、今の牧野さんの状態ですが、興奮状態にありましたので薬で眠ってもらっています。今日のところはこのまま入院してもらい、落ち着いたところで改めて診察をしたいと思います。ただ、一度目を覚まされたときの様子から気になることがありまして、皆様からもお話を訊かせて頂きたいのですが」
「何だ」
司が医師を急かす。
「はい。牧野さんは、司様の出血を見られてパニックになられたということで間違いありませんか?」
「そうだ」
司が答えたが、すかさず反論するように類が割り込んだ。
「血を見たからと言うより、司が刺されたことでパニックに陥ったと思うけど」
医師は司と類を交互に見ながら頷くと、新たな質問をした。
「そうですか。牧野さんは以前にも、事故や事件、或いは災害などで、このように出血を伴う何かを目の当たりにして、ショックを受けられた経験はありませんか?」
全員が息を詰めたのが分かる。
経験ならある。皆の頭にも瞬時に浮かんだはずだ。
二人の運命の歯車を狂わせた、あの憎き事件を。
顔を強ばらせている司に気遣う目線を一瞬だけ向けた類が、医師の質問に答えた。
「12年近く前。彼女の目の前で恋人が刺されたことがあります。その当時の恋人が彼でした。一時は命の危機もあって、ずっと彼女は近くでそれを見ています」
「分かりました⋯⋯。牧野さんは、日頃から不安になりがちだったり、不眠で悩まされたり、頭痛や夢に魘されるということはないでしょうか」
再び類が答える。
「頭痛はよくあるみたいです。以前にこちらでも診察を受けて偏頭痛と診断を受けています」
電子カルテを確認しながら、医師は他にはないかと訊ねて来た。
何かあっただろうか。
類や滋と顔を見合わせるが、心当たりはない。────その時。
「⋯⋯悪夢」
司の掠れた声が答えた。
目を向ければ、力を失くした表情の司が続ける。
「牧野は、夢で魘されてた。酷く怯えて⋯⋯悲鳴上げて」
初めて訊く話に目を瞠る。
一体、どういうことなのか、どうして知っているのか。だが、話す司の声が酷く怯えているようで、訊くに訊けない。
「分かりました。今、皆様に伺ったお話と、診察をした時の牧野さんの状態から見て、牧野さんはおそらく、PTSDであると思われます」
「PTSD?」
「PTSD?」
俺と滋の声がはもる。
「はい。心的外傷後ストレス障害です」
「どんな病気だ? 治るんだよな?」
震えた声で訊ねたのは司だ。
「PTSDは、心に衝撃的な傷を負った経験がストレス障害を引き起こす病です。症状としては、先ほども挙げましたように不安を常に感じたり、不眠や頭痛、夢。他には、感情の欠如などの様々な症状があります」
気道が塞がれたように息が苦しくなる。唾を飲み込みこむのも困難だった。
────感情の欠如。
俺は、牧野が久々にみんなと会った時の飲み会の場面を思い出した。
再会に涙する女たちの中で、ただ一人泣きもせず、無表情でいたあの時の牧野を⋯⋯。
牧野の表情が乏しいのは、牧野自身が変わっただけじゃなく、病が影響してる可能性もあるんじゃないのか。⋯⋯そう考えて俺は愕然とした。
「牧野さんの場合は、頭痛、そして悪夢。おそらく、フラッシュバックして当時の映像が夢となって現れている可能性が高いでしょう。
先ほど牧野さんが目を覚ました時にも、しきりに司様が刺されたことを気にして興奮状態にありました。推察ですが、夢と同じ状況に陥りパニックを起こしたのかも知れません。
その夢も、薄れるより時間の経過と共に酷くなる場合もあります。そのせいで不眠になっている可能性も考えられます。牧野さんには、直ぐにでもカウンセリングが必要です。ただ、カウンセリングを受けさせるには、まずは本人がこの病を受け入れなければなりません」
「なぁ」
医師へ短く問いかける声は愁いを帯びていて、司の苦しみの程が窺える。
「牧野は⋯⋯。牧野は12年近くも病気で苦しんできたのか? 長いこと、そんな夢見て⋯⋯、あいつは泣いてきたのかよ」
悲しみが滲む声が心臓に突き刺さる。
何にも知らなかった。何にも気づけなかった。牧野が抱えてきた深い傷を、俺たちは何も⋯⋯。
「おそらく、昨日今日に始まったことではないでしょう。長いこと苦しんでこられたのだと思います」
耳を塞ぎたくなる医師の推察に、司は頭を落とし、そして肩を震わせた。
「くそっ。何で⋯⋯何で牧野が⋯⋯」
声にならない司の無念の悲鳴が訊こえてくるようだった。
俺も同じだ。いや、きっと類も滋も。
痛みを孕むこの現実こそが、悪夢であって欲しいと叫びたくなる。
こんな悲劇があっていいのかよ。
12年も前の事件は終わっちゃいなかった。
今もなお、牧野の中では延々と続いていて、当時の恐怖に怯えていたなんて⋯⋯。
長きに渡り牧野は一人で苦しみに堪えてきたのかと思うと、胸の痛みに絶えられなくなる。
そしてもう一人。
長い歳月を経て愛する女の傷を知らされ、大きな身体を震わす親友の心情を思うと、遣る瀬なさから迫り上がるものを抑えきれず、俺は顔を天に向け瞼を下ろした。

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