手を伸ばせば⋯⋯ 45
どうしてだろう。
道明寺で過ごした三日間。私は何故、道明寺の傍であんなにも穏やかに過ごせていられたのだろうか。
憎むべき男なのに⋯⋯。
最後の晩のキスだって、逃げようと思えばできた。止めてと言えば、あの時の道明寺ならきっと止めてくれたはず。
なのに、私はそうしなかった。
道明寺の顔があまりに切なくて、儚くて。
世間に見せている自信に満ちあふれた姿は影も形もなく、親に見捨てられた小さな子供のような錯覚を覚え、私は多分、見ていられなかったのかもしれない。
そもそもキスなんて大したことじゃない。そう、なんてこともないものなんだから、気にする方が不自然だ。
強いて言えば、あれはただの同情で、その他に特別の意味なんて何も持たないもの。
意味のないものを考えたって無駄。気にする必要なんてない。
あんなことがあったって、憎しみは消えやしない。私たちの関係は何も変わらない。
事実、私たちは以前と同じような日々を取り戻している。
仕事以外では話さないし、話そうとも思わない。
道明寺に仕事の指示を出され、動き回るのも以前と同じ。若干、体がきつくならないための配慮か、セーブされた気はするけれど⋯⋯。
そんな当たり前だった普通の日常をあっさり取り戻した、ある日のこと。
「まーきの!」
突然、子供みたいな純真無垢な笑顔が私の前に現れた。
ビジネスマンがあくせく働く中では異質な、無駄に屈託のない笑みだ。
「花沢類⋯⋯先日は、迷惑お掛けしました。ごめんない」
「いいえ、どういたしまして。仕事で司のところに来たからさ、牧野の顔も見ておこうかと思って寄ったんだけど、元気になったみたいで安心したよ。
体調が大丈夫なら、もうお昼だしランチでもどう?」
花沢類には散々迷惑も掛けたし、ここのところは、ずっと誘われても断ってばかりだった私は、誘いに乗って一緒に食事に行くことにした。
「もう体調は万全?」
席に着いたところで、改めて花沢類が訊いてくる。
「お陰様で、もうすっかり元気よ。心配も迷惑もかけて、本当にごめんない」
「それ、さっきも訊いたって。それに、牧野の心配や迷惑は今に始まったことじゃないし、俺もいい加減慣れっこ」
「何よ、それ」
「でも、本当に良かった。重い病気じゃなくて」
笑顔だった花沢類が、真剣な眼差しで言う。
私が思っている以上に、心配を掛けてしまったに違いない。そう痛感する。
「牧野。ずっと司のところで静養してたんだって?」
「⋯⋯えぇ」
「司のところなら安心だよね。司は、何よりも牧野のことを大切に思ってるし」
「⋯⋯⋯⋯」
「で、司とは上手くいってる?」
「トラブルもなく順調に仕事を進めてる」
寄り道をしない真っ直ぐな瞳が私を捉える。
昔からこの人はそうだ。こうして、私の意思などお構いなしに、勝手に人の心を読み取ろうとする。
「俺は仕事の話を訊きたかったわけじゃないんだけど。プライベートはどうなのかなぁって」
「プライベートでは話さないし、報告することもないけど」
尚も私の目をじっと見てくる。
「そうなの? だとしたら、自分の感情が揺れるのを恐れて、司を避けてるとか?」
「恐れる? 私がなにを恐れるって言うの? 道明寺に対して私は『無』の感情しか持ち合わせていない。勘違いするのは勝手だけど、いい加減道明寺の話は止めてくれる?」
「無の感情、ね」ククク、と花沢類が喉の奥で笑う。
「俺は、司の傍にいれば牧野が変わるんじゃないかって気がしてる。昔もそうだったよね。昔は牧野、司のこと大嫌いだったのに、それがさ⋯⋯」
含みを持たせて笑う花沢類は「ま、いっか。司の話は」と、自分で振っておきながら話題のその先を言わない。
「折角の牧野とのデートだし、司の話ばっかで台無しにするのは勿体ないしね」
その後も、あどけない笑みを浮かべながら話す花沢類と一時間ほどを過ごし、今度はゆっくり会おうと約束して、その場で私たちは別れた。
オフィスに戻ると、道明寺と美作さん、直哉の三人が打ち合わせをしてるところだった。
美作さんは私に気づくと、その場に資料を放り投げ、もの凄い勢いで私の元へと駆け寄ってくる。
「牧野っ! 大丈夫なのか! 具合が悪かったってさっき司から訊いて、俺は心臓が止まるかと思ったぞ!」
美作さんの出張が長引いていたために、会うのは久しぶりだ。
その顔は心配そのもので、申し訳なく思いつつも、あまりの勢いに僅かばかり仰け反る。
「⋯⋯すみません。ご心配掛けて。もうすっかり良くなりましたから」
「そうか、それなら良かった」
良くなっていることは、きっと道明寺からも訊いていたとは思うけど、私の顔を見るまでは安心できなかったのか。はぁ、と安堵したように大きく息を吐き出した。
だけど、気が落ち着いたら今度は文句を言いたくなったらしい。
「いいか牧野! 俺が出張だろうが、そういう時は連絡くらいしてこい! 遠慮なんてもんは捨てろ! そもそもだな、おまえの食生活からして問題なんだ! 今後ゼリーだけで済ませるのは禁止! それとな────」
珍しくヒートアップした美作さんの口は止まらない。
何か⋯⋯、お母さんみたい。
そんな感想を抱くが、それを口にしたらこの人は落ち込むかもしれないと胸に収め、暫く続いた説教を大人しく訊いた。
幾つかの禁止事項と小言を重ねた美作さんは、
「とにかく無理はするなよ?」
最後は私の頭を軽くポンポンと二度ほど叩くと、漸く打ち合わせの場に戻っていった。
その間、何度か道明寺からの視線を感じたけれど、私が目を向けた時には手元の資料に集中していて、それはいつもの威厳ある姿そのものだった。
────あの夜に見た姿は、もう何処にもない。
いつもよりも早く仕事が片付き、帰り支度をしているところに直哉に声を掛けられる。
「つくし、もう体調はすっかり良いんだよな?」
「職場で名前を呼ぶのは止めてって言ってるでしょ?」
ルール守らない人と話す必要はない。身支度を済ませてドアへと向かう。
「待てよ。俺だって心配してたんだ。それに周りには誰もいない。それくらい俺だって確認してる。
それより、つくし何処にいた? 支社長と病院行った後。連絡もつかないし、一人でぶっ倒れてるんじゃないかと思って、自宅を調べて家まで行ったんだよ」
「個人情報も何もあったもんじゃないわね。⋯⋯あれから、知り合いの家でお世話になってたの」
「知り合い? 女か?」
「当たり前でしょ」
もう答えたんだからいいだろうと足を踏み出せば、強い力で腕を引かれ壁へと追いやられた。
「さっき支社長のこと見てただろ。俺たちが三人で打ち合わせしてる時だ」
「見てないけど。どうでもいいけど、退いてくれない?」
「何で嘘吐くんだよ、女の知り合いの家ってのも嘘だろ? 支社長と副社長が話してるのが訊こえたんだ。つくし、支社長の家にいたんだろ? 何があった? 三日間もあの男といて何もないわけないよな?⋯⋯抱かれたのかよ」
こんな強引な直哉を見るのは初めてだ。
「私が誰といようと何をしようと、あなたには関係ない」
私が冷たく言い返した途端、直哉は私を押さえ込み、無理やりキスをしようとする。
咄嗟に顔を背け、渾身の力で直哉を突き飛ばす。
「あの男にも、こうやって拒絶したのか?」
「⋯⋯⋯⋯」
「ふっ、何も言わないんだな。
つくし、あの男に惚れてるだろ。俺にはそう見える。おまえらって何で別れたわけ? やっぱりあの男の女癖の悪さとか? それでおまえも、男と割りきった関係しか持てなくなったんじゃないのか?」
「不愉快だわ! 何も知らない癖に分かったように言わないで。金輪際、私のプライベートに口を挟むのは止めて。迷惑よ」
「なにムキになってるんだよ。つくしらしくもない。道明寺司のことを言われたからか? それが、惚れてる証拠だと思うけど」
知った風に言われるのは面白くなく、直哉を睨みつける。
「何を勘違いしてるんだか知らないけど、私と支社長は何の関係もない。大体、私が誰かを好きになるはずないじゃない。NYで私の近くにいて、そんなことも分からなかったの?」
直哉は私から少しだけ離れると、力が抜けたようにフッと笑った。
「あぁ、本当の意味では分かってなかったよ、NYにいた頃はな。おまえは誰のことも見ないし心を開かないって、そう思ってた。でも、日本に来てからのつくしを見て、違うのかもって気がしてる。その内に気づいたことがある。つくしさ、NYで俺を受け入れた時ってどんな時だった?」
「え?」
「つくしが俺に抱かれる時だよ。
教えてやるよ。一つはおまえが大きな仕事を終えた時。そしてもう一つ。道明寺司が仕事で成功を収めて、メディアを賑わせてる時期だ。二つ目は、こっちに来てから気づいたんだけどな。
⋯⋯おまえは、ずっと見てたんじゃないのか? 道明寺司を。心を開かないんじゃなくて、道明寺司以外を受け入れる余裕がなかっただけだろ」
「⋯⋯支社長がメディアを賑わすなんて珍しくないじゃない。こじつけないで」
「本当にそうか?」
「いい加減、戯言に付き合うのも飽きたんだけど。私、疲れてるの。帰るわ。お疲れ様」
足早に立ち去る私の背後から、
「⋯⋯俺の元へ来ないなら、せめて幸せになってくれよ⋯⋯頼むから」
直哉の小さな声が訊こえてくる。
私は聞こえない振りをして、オフィスを後にした。
馬鹿馬鹿しい。私が道明寺に惚れてるだなんて。私の中にあるのは真逆の感情だ。
花沢類も直哉も、揃いも揃って道明寺、道明寺って。
絶対に有り得ない。
だって私は、一日たりとも忘れたことはない。⋯⋯あの男を恨む気持ちを。
あの男だけは絶対にない。
家路でも家に着いてからも、何度も何度も道明寺を否定して、その日は眠りについた。
そして────。
最近では、毎日のように見る夢で目が覚め、また長い一日が始まっていく。

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